ネットの楽しみは、自分が思いもよらない考え方に出会えることにある。
以下に引用させていただく文章も、私にとってはそういう種類のものであった。新たな考え方を示してくれたvirtual-lifeさんにまずお礼を申し上げたい。
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ファンを一番大事にしなければいけないのは出演者ではないのか?
経営者が変わったからといって番組を降りる、そんな決断をする人にファンがつくのか?
がっかりするだけじゃん?
どれほど自分に自信を持っているのか知らないが、視聴者をなめるのもほどほどにしておいた方がいい。
絶対しっぺ返しを食らうぞ!
大御所たちにがっかり|仮想的現実な日々
------------------------
以上、引用させていただいた文章は「江本氏、中島みゆき、タモリら降板の意思」 のような報道を受けたものである。
さて。
私はよく知らないのだが、タレントとは「ファンを一番大事に」する義務を負うものだと世間一般では思われているのだろうか?もしそうだとしたら、私は少数派なのだろう。
私は、タレントとは「自分の芸や才能を一番大事に」する義務を負う職業だと思っている。そもそも、タレントという言葉は英語で「才能」という意味ではなかったか。まあ、日本語のタレントと英語のtalentはすでに無関係なのかもしれない。「芸能人」という言葉もあるが、これも「芸能+人」であり、「ファンを大事に」という意味は含まれていない。もし「ファンを大事にする人」を表すとしたら、セントレアンである私としては「愛客人」「媚客人」といった言葉を提案するが、世の中に受け入れられる可能性は低そうである。
とりあえず、私としては「タレント」「芸能人」という言葉に「ファンを大事に」という概念は含まれていないものと結論付ける。
virtual-lifeさんのお考えでは、「自己都合の番組降板=視聴者(ファン)をなめている」ということになるようだ。
私にはどういうことか理解できない。
私が考える「視聴者をなめた」タレントのあり方とは、やる気も才能もなく、ただ出演することを目的に番組に出演するタレントである。そういうタレントが混じっていると、番組の空気は淀み、やがて腐る。顔を売り出演料を稼ぐため番組を腐らせるタレントこそ、私に言わせればファンをなめておりタレント失格だ。
具体的に例をあげよう。私はタモリのファンなので少し書きにくいが、「ミュージックステーション」のタモリなどはそのいい例だろう。誰が見てもあからさまなほどやる気がないし(他の番組でもやる気を見せないが)、音楽番組の司会として他に代えがたい芸を持っているとも思えない。タモリがMステを自己都合で降板しようと首を切られようと私は怒らないし、むしろ遅すぎたくらいだと感じるだろう。
最初の段落で、“タレントとは「自分の芸や才能を一番大事に」する義務を負う職業だと思っている”と書いた。その意味で、芸や才能を無くして降板するタレントに怒りを感じることはありうるのだが、その場合も怒りの矛先は「芸や才能を無くした」ことに向かい「降板した」こと自体はどうでもよい。いや、降板すれば無様な姿を見なくてすむのでむしろ歓迎である。
もう少し「自己都合の番組降板」について考えてみる。
それがファンや視聴者の失望を生むとしたら、「自己都合」の内容がタレントの既成イメージとかけ離れている場合だろう。清純派アイドルが男と駆け落ち(古いな)して番組に穴を開ければ批判の嵐を浴びるだろうが、「魔性の女」「恋多き女」であればむしろ箔が付くかもしれない。親孝行を売り物にしているタレントが親の看病を理由に降板しても失望する人は少ないはずだし、逆に番組を続けるほうが自らのイメージを裏切り、タレントとして価値を下げるだろう。
今回、降板の意向を明らかにしたとされるのはタモリ、中島みゆき、市川森一、倉本聡、江本孟紀の各氏である。
彼らは降板宣言によって既成のイメージを裏切ったのだろうか?
私にはどうもそうは思えないのである。タモリについては後述するが、中島、市川、倉本、江本、これらの人たちから「ファンを何よりも大事にしている」という印象を受けたことはない。中島、市川、倉本の3氏は芸術家タイプである。自分の思い通りの作品作りにこだわる。それができなければやめてしまう。そういう彼らの姿に共感した人々がファンになり長年支持し続けている。江本氏は阪神を首になったいきさつからもわかるように自由人である。気に食わないことがあれば放言し、嫌な奴が上司になれば後先考えずに辞める。大変わかりやすい。
もちろんこれは私個人が抱くイメージであり、彼らに「ファン第一」の姿を期待した人のほうが多いのかもしれない。だが、率直に言わせてもらえばそれはアライグマが人に懐くのを期待するのと同じような勘違いに思えてならないのだ。
タモリについて書くのは気恥ずかしい。
ある程度の長さの文章を書くにはそれなりのやる気が必要だが、彼の信条は「やる気のあるものは去れ!」である。困った。まあなんとかやってみよう。
virtual-lifeさんなど、自己都合の降板に怒っておられる方々は、タモリが真面目に「ファンのため」などと歯の浮くようなセリフを口にする場面を想像し期待できるのだろうか。私には無理だ。もしタモリ自身が本心からそう言ったとしても、私を含め彼のファンは無理やりネタ扱いする。「ファンのために行動するタモリ」など、存在自体が矛盾しておりそんなものを認めてしまえば世界は崩壊する。
といって、必ずしも「タモリはわがままでありファンを無視している」というものでもない。タモリはわがままであり続けることによってファンの期待にこたえているのである。ファンは(おそらくはタモリ自身も)それを承知しているが、口にするのは野暮というものだ。なんとも微妙な、「他人以上友達未満」の精神的距離を保ち続けているのである。
いろいろな憶測はあるが、タモリがどんなつもりで降板の意志を固めたのか私は知らない。特に知りたいとも思わない。いいかげんなようでいて実は人情に厚いから、反ライブドアの経営陣やスタッフに義理立てしたのか。それとも年を取ったので仕事を減らしたいのか。ライブドア傘下になって面白い番組を続けていけると思えなかったのか。ホリエモンが嫌いなのか。そのどれも考えられるし、すべて外れているかもしれない。
だが、降板しようと継続しようとそれは私にとって大した問題ではない。
私にとって大事なのは、タモリがタモリ自身であり続けてくれること。
「経営者が変わったからといって番組を降りる、そんな決断をする人」であろうとなかろうと、私が抱くタモリのイメージは揺らがない。彼が沈黙を守り、「ファンのため」とか「長年の義理のため」とか、どちらにしても偽善的な自己正当化のための言葉を口にしないことに私は満足している。
そうはいっても、タモさんのラジオが終わっちゃうのは淋しいな。
いや、タモさんを責める気にはなれないけど。
ライブドアが来たらやめるって言ってるんだから、ライブドアが来なければいいのか。
ライブドアのニッポン放送への経営参加反対!ホリエモンは来るな!!
…と言ってみただけ。
*このエントリの続き*
愛を要求する根拠
■ライブドア関連のお勧めブログ
以下に引用させていただく文章も、私にとってはそういう種類のものであった。新たな考え方を示してくれたvirtual-lifeさんにまずお礼を申し上げたい。
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ファンを一番大事にしなければいけないのは出演者ではないのか?
経営者が変わったからといって番組を降りる、そんな決断をする人にファンがつくのか?
がっかりするだけじゃん?
どれほど自分に自信を持っているのか知らないが、視聴者をなめるのもほどほどにしておいた方がいい。
絶対しっぺ返しを食らうぞ!
大御所たちにがっかり|仮想的現実な日々
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以上、引用させていただいた文章は「江本氏、中島みゆき、タモリら降板の意思」 のような報道を受けたものである。
さて。
私はよく知らないのだが、タレントとは「ファンを一番大事に」する義務を負うものだと世間一般では思われているのだろうか?もしそうだとしたら、私は少数派なのだろう。
私は、タレントとは「自分の芸や才能を一番大事に」する義務を負う職業だと思っている。そもそも、タレントという言葉は英語で「才能」という意味ではなかったか。まあ、日本語のタレントと英語のtalentはすでに無関係なのかもしれない。「芸能人」という言葉もあるが、これも「芸能+人」であり、「ファンを大事に」という意味は含まれていない。もし「ファンを大事にする人」を表すとしたら、セントレアンである私としては「愛客人」「媚客人」といった言葉を提案するが、世の中に受け入れられる可能性は低そうである。
とりあえず、私としては「タレント」「芸能人」という言葉に「ファンを大事に」という概念は含まれていないものと結論付ける。
virtual-lifeさんのお考えでは、「自己都合の番組降板=視聴者(ファン)をなめている」ということになるようだ。
私にはどういうことか理解できない。
私が考える「視聴者をなめた」タレントのあり方とは、やる気も才能もなく、ただ出演することを目的に番組に出演するタレントである。そういうタレントが混じっていると、番組の空気は淀み、やがて腐る。顔を売り出演料を稼ぐため番組を腐らせるタレントこそ、私に言わせればファンをなめておりタレント失格だ。
具体的に例をあげよう。私はタモリのファンなので少し書きにくいが、「ミュージックステーション」のタモリなどはそのいい例だろう。誰が見てもあからさまなほどやる気がないし(他の番組でもやる気を見せないが)、音楽番組の司会として他に代えがたい芸を持っているとも思えない。タモリがMステを自己都合で降板しようと首を切られようと私は怒らないし、むしろ遅すぎたくらいだと感じるだろう。
最初の段落で、“タレントとは「自分の芸や才能を一番大事に」する義務を負う職業だと思っている”と書いた。その意味で、芸や才能を無くして降板するタレントに怒りを感じることはありうるのだが、その場合も怒りの矛先は「芸や才能を無くした」ことに向かい「降板した」こと自体はどうでもよい。いや、降板すれば無様な姿を見なくてすむのでむしろ歓迎である。
もう少し「自己都合の番組降板」について考えてみる。
それがファンや視聴者の失望を生むとしたら、「自己都合」の内容がタレントの既成イメージとかけ離れている場合だろう。清純派アイドルが男と駆け落ち(古いな)して番組に穴を開ければ批判の嵐を浴びるだろうが、「魔性の女」「恋多き女」であればむしろ箔が付くかもしれない。親孝行を売り物にしているタレントが親の看病を理由に降板しても失望する人は少ないはずだし、逆に番組を続けるほうが自らのイメージを裏切り、タレントとして価値を下げるだろう。
今回、降板の意向を明らかにしたとされるのはタモリ、中島みゆき、市川森一、倉本聡、江本孟紀の各氏である。
彼らは降板宣言によって既成のイメージを裏切ったのだろうか?
私にはどうもそうは思えないのである。タモリについては後述するが、中島、市川、倉本、江本、これらの人たちから「ファンを何よりも大事にしている」という印象を受けたことはない。中島、市川、倉本の3氏は芸術家タイプである。自分の思い通りの作品作りにこだわる。それができなければやめてしまう。そういう彼らの姿に共感した人々がファンになり長年支持し続けている。江本氏は阪神を首になったいきさつからもわかるように自由人である。気に食わないことがあれば放言し、嫌な奴が上司になれば後先考えずに辞める。大変わかりやすい。
もちろんこれは私個人が抱くイメージであり、彼らに「ファン第一」の姿を期待した人のほうが多いのかもしれない。だが、率直に言わせてもらえばそれはアライグマが人に懐くのを期待するのと同じような勘違いに思えてならないのだ。
タモリについて書くのは気恥ずかしい。
ある程度の長さの文章を書くにはそれなりのやる気が必要だが、彼の信条は「やる気のあるものは去れ!」である。困った。まあなんとかやってみよう。
virtual-lifeさんなど、自己都合の降板に怒っておられる方々は、タモリが真面目に「ファンのため」などと歯の浮くようなセリフを口にする場面を想像し期待できるのだろうか。私には無理だ。もしタモリ自身が本心からそう言ったとしても、私を含め彼のファンは無理やりネタ扱いする。「ファンのために行動するタモリ」など、存在自体が矛盾しておりそんなものを認めてしまえば世界は崩壊する。
といって、必ずしも「タモリはわがままでありファンを無視している」というものでもない。タモリはわがままであり続けることによってファンの期待にこたえているのである。ファンは(おそらくはタモリ自身も)それを承知しているが、口にするのは野暮というものだ。なんとも微妙な、「他人以上友達未満」の精神的距離を保ち続けているのである。
いろいろな憶測はあるが、タモリがどんなつもりで降板の意志を固めたのか私は知らない。特に知りたいとも思わない。いいかげんなようでいて実は人情に厚いから、反ライブドアの経営陣やスタッフに義理立てしたのか。それとも年を取ったので仕事を減らしたいのか。ライブドア傘下になって面白い番組を続けていけると思えなかったのか。ホリエモンが嫌いなのか。そのどれも考えられるし、すべて外れているかもしれない。
だが、降板しようと継続しようとそれは私にとって大した問題ではない。
私にとって大事なのは、タモリがタモリ自身であり続けてくれること。
「経営者が変わったからといって番組を降りる、そんな決断をする人」であろうとなかろうと、私が抱くタモリのイメージは揺らがない。彼が沈黙を守り、「ファンのため」とか「長年の義理のため」とか、どちらにしても偽善的な自己正当化のための言葉を口にしないことに私は満足している。
そうはいっても、タモさんのラジオが終わっちゃうのは淋しいな。
いや、タモさんを責める気にはなれないけど。
ライブドアが来たらやめるって言ってるんだから、ライブドアが来なければいいのか。
ライブドアのニッポン放送への経営参加反対!ホリエモンは来るな!!
…と言ってみただけ。
*このエントリの続き*
愛を要求する根拠
■ライブドア関連のお勧めブログ


タモリも中島みゆきもニッポン放送によって世に出してもらったのだから、ファンや新経営者より現放送局に強い恩義を感じるのは不思議でもなんでもありません。倉本總だって、NHKとトラブって隠遁していたときにフジに拾ってもらったわけですし。
芸能界の義理人情話は最近でもavexの松浦社長と浜崎あゆみ、イエローキャブの野田元社長と所属タレントの例があります。逆に芸能界の掟より法を優先させたばかりに干された某アイドル(あえて名は秘す)の記憶も新しいところです。
まさに「人に歴史あり」ですね。
ある程度損をかぶっても、批判されても、しがらみや情を大事にしたい人が芸能界や放送界には少なくないのでしょうね。
某アイドルって誰だろう…
「す」で始まって「み」で終わる人かな?
降板を示唆したタレント自身は確かに「リスナーのために辞める」とは言っていないかもしれませんが、あのタレント降板がニッポン放送の「だから堀江社長はラジオを愛していないキャンペーン」の一環として利用されているようにしか見えず、それが反発を招いているのだと思います。
「ほら堀江が来るとみんな番組無くなっちゃうよ?リスナーも堀江叩かないとダメだよ?」と言われても、リスナーにしてみれば「そんな話を押し付けるな!」と叫びたくもなりますよ。
ようこそ。
率直なご意見はどんなものでも歓迎です。
たしかに、「リスナーのため」を連呼していたニッポン放送の社員であれば「我々は会社を去りますが、リスナーのためにどうか番組を続けてください」とタレントにお願いするのが筋ですね。
この件に関してニッポン放送を弁護する気はありません。といって、特に批判しようとも思わないのですが。
「ダブスタ必死だな」と笑ってやるくらいでしょうか。
じぶんは降板表明をした人たちが「東京高裁での司法判断」をする際に当たって、ニッポン放送側からの「この人たちが辞めちゃうって言っているんですよ、だから企業価値が下がっちゃうんです」という材料に使われていることを承知している、というのがちょっと引っかかっています。
(報道されているすべての記事を読んでいるわけではないので、この認識が間違っているかもしれませんが)
本心はきっと違うところにあるんだろうとは思いますが・・・・
何はともあれ、彼らも「利用し、利用され」の世界にいるんだな、と思うと切ない気持ちになります。
こんにちは。
彼らベテランタレントたちは、ゴタゴタの渦中から遠ざかりたいだけなのかもしれません。もしそうであったとしても、結果的にはニッポン放送を利することになるわけで、ライブドアを応援する人たちから批判を受けるのもやむをえないでしょうね。
本当にネットというのは様々な意見に出会えて楽しいです。
周りをみていても、ライブドア支持や岡村隆史氏の賛成意見や降板に関しての批判意見が多く、こうしてトラックバックして頂いたおかげで、こういった意見に出会えたという事はとても喜ぶべき事だと思います。
私は文章でお分かりだと思いますが、頭があまり良い方ではないので(苦笑)読むに足りない文章ですが、一言申し上げますと、タレントはファンを一番大事にする義務はないと思いますが、ファンを大切にするということは大事な事だと思います。
これまで続けてきたラジオをやめるというのは色々な思惑があってのことだと思いますが、リスナーがいてラジオがあるわけで、一番ではないにしろ「リスナー」というのはラジオがある限り付いてくると思います。リスナー無しで一人で喋るのは誰でも出来ると思います。
今回は、まだライブドアが具体的に動き出していないうちに降板という事もあり批判されているのかもしれないです。
いらっしゃいませ、どうかお気楽に。
私の考えはどうやら変わり者の少数意見みたいで、たくさんの批判を受けるのを覚悟してトラックバックさせてもらいました。みなさんが異説を寛容に受け止めていただいたことはとても嬉しいです。
> 大事にする義務はないと思いますが、ファンを大切にするということは大事な事だと思います。
同意します。そして、大切にするにも人によってやり方は色々だろうと思います。
> リスナーがいてラジオがあるわけで
私の場合、タモリの個性に愛着の中心があり「週刊ダイナマイク」という番組に特別の執着はないのですが、なによりも番組それ自体を愛しているリスナーにとっては、勝手な降板は裏切りに思えるのでしょうね。
確かに、ファンを大事にする義務があるかと問われれば、義務ではないかもしれませんね。
ですが、ファンがいてこその地位だと思いますよ。どんなにその人が素晴らしい芸を持っていても、それを支持する人がいなければ、なんの価値もないわけですから。絵画や彫刻といった芸術作品に同じだと思います。
タモリ氏も玄倉川さんのようなファンがいるからこそじゃないでしょうか。
また、『偽善的な自己正当化』という言葉でいろいろな理由を括ってしまっては身も蓋もないでしょう。偽善的かどうかはおいておくとしても、ほとんどの人間は、普段からいろいろな自己正当化しているんですから。