黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

今は「時」を待つべきか?

2009-01-16 09:14:08 | 近況
 暮れから正月にかけて悩まされていた何十年ぶりかの歯痛が続いている。今日、明日にでも歯医者に行こうと思っているのだが、近所で開業している古い友人の歯科医の所に正月明け早々行ったところ、ものすごく混雑していて、痛い個所(虫歯でなく、たぶん歯槽膿漏から来る痛み)をざっと見て、「急ぐことはない。後でゆっくり見るから今日は薬だけ出しておく」と言われたということもあって、混雑具合によって日にちを決めようと思っている。
 それにしても、これまでにもいろいろ聞いていたが、「歯痛」がこれほどまでに何事に対しても「意欲」を減退させるものか、この1週間、改めて認識せざるを得なかった。四六時中ずっと痛いのなら何らかの対処も考えたのだが、何の前触れもなく、食事をしている途中やコーヒーを飲んでいるとき、あるいは車の運転中に激痛が襲うのでは、もともと歯医者など行きたくないので、我慢できなくなると件の友人がくれた鎮痛剤を飲むしかなく、速効の場合と全く効かない場合があって、正直言って難儀した。
 そんなこんながあって、気が滅入っているときに、昨日さらに追い打ちをかけるようにショックなことがあった。それは、昨日の学部一年生対象の授業(知識人と大衆の違い、知識人の役割、などについて検討する内容)で、驚くべき不可解な事件として報じられている中央大学理工学部教授刺殺事件について話が及んだとき、ある学生が「とっさに先生(僕のこと)のことを思った」と発言したことに関わって、である。どういうことか、とその発言をした学生に聞くと、「先生は、ストレートにものを言うから、恨みを買う可能性があるのではないか、と思っていたので」と答えてくれたのだが、どうも話の流れから言うと、大学の教師は元より小中高の「教師」が学生(生徒)を注意したりすることが少なくなっていて、その理由は注意された学生(生徒)が「反省」するのではなく「逆ギレ」するケースが多いからであって、そのために教師の側も学生・生徒の側に何か「悪いこと」があっても「知らんぷり」をする傾向が強くなっている、ということらしい。そのような現状を経験してきた件の学生からすると、どうも僕(黒古)は違うし、体制批判なども平気で行うので心配していた、というのである。――因みに、この授業で展開していた「知識人の役割」で、僕は「知識人は、言論の自由を武器に、自由に批判先進を発揮する存在である」と講義していたので、このような議論になったのかも知れない。
 そこで僕が気になったのは、こんな不況時だからなのか(そうではなく、景気がいいと言われていた時代でもそうだったと僕は思うのだが)、みんな危険を察知した亀のように「甲羅の中に首を引っ込めている」ことについてである。前にも、別な院生に「先生、ブログでこんな発言して大丈夫なんですか」言われたことがあったが、「匿名性」に隠れて執拗に自分と意見を異にする人間を攻撃するネット社会の「負の部分」と併せて考えると、何事も御身大事とばかりに「唇寒し」状況を各個人に強いるこの社会の在り方、やはりどこか「異常」なのではないか、と思わざるを得ない。このことは、巷でこの時代を反映してか、プロレタリア文学の「蟹工船」(小林多喜二)が読まれているというのに、大学ではそのような文学状況など素知らぬ顔で、「左翼」拒否を公言する教師たちが罷り通っている状況と通底しているのかも知れない。果たしてそれで大学が「学問の府」などと言えるのか、というのが僕の持論だが、「学問の府」を信じている人たちは、大学は暗黙の内に進めている(と僕には思える)「左翼」排除の状況について、どう考えるのだろうか。
 なお、中大の先生がどのような理由で刺殺されたのか分からないが、刺殺された場所が大学構内のトイレということを考えると、「通り魔」ということはなく、大学(あるいは件の教授)に何らかの関係を持っている人による凶行だろう。だとすると、ますます大学における教育や研究が「人間を育てる」という本来の役割を忘れ、「歪み」、「萎縮」していくのではないだろうか。件の殺された教授は、「優秀」で、何ら問題を起こすような先生ではなかったという。そのような「良い人」が殺される世の中、それが「金儲け主義」一本で突っ走ってきた結果の一つであったとしたら、何とも悲しい。