黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

停滞と沈鬱

2009-01-10 09:03:37 | 仕事
 新年早々だというのに、どうも景気のいい話はどこにも転がっていないようで、そんなに長くもない冬休みを経て授業やゼミが再開されたのだが、大学のどこもかしこも「どろーん」とした澱んだ空気に満たされている感じがしてならなかった。「停滞」感しかもたらさない昨今の社会(政治)状況を反映した結果なのか、それとも冬休み疲れなのか、判断に迷うところだが、学生(院生)たちの顔を見ていると、僕から言わせてもらうとそこに漂っているのは「沈鬱」としか言いようのないもので、「溌剌さ」とは全く異なる表情であり、会う学生会う学生が皆、大江健三郎の作品タイトルではないが「憂い顔」ばかりで、当方も全く彼らから元気をもらうことができず、新年とはこんなものか、と思いながら昨日帰路についたという次第である。
 そして今朝(10日)配達された新聞を読んでいて、面白い記事に出会った。それは、「東京新聞」がウリの一つにしている文化欄の「大波小波」という匿名批評の欄に書いてあったことなのだが、麻生首相の「漫画好き」に関連して、彼が漢字を余り知らず、国会演説や答弁で漢字の読み方を何度も間違ったことから、「漫画は頭の悪い人や強要のない人が読むもので、漫画ばかり読んでいるとバカになる」というようなマスコミ・ジャーナリズムの言説に対して、果たしてそのような「俗説」は正しいか、と疑問を投げかけた後、「何故漫画界からそのような漫画批判(批難)に対して反論がなされないのか」という疑義で締め括られたものである。
 これはまさに「正当(正統)」な疑問であり、僕が高校生の時に創刊された「少年サンデー」と「少年マガジン」以来(というより、戦後もの心ついたときから身のまわりにあった「面白ブック」や「少年クラブ」、「少年」、「冒険王」等の漫画雑誌以来と言ってもいい)、ずっと長く漫画と付き合って来た僕としては、今度のように「特別給付金」に関する国会答弁が迷走している麻生首相の漫画好きがきっかけで、漫画という「表現」がこのように貶められていることには、麻生擁護ということでは全くなく、「大波小波」の言うとおりだな、と思わざるを得ない。
 このように書くと、またぞろ「お前はどうなのだ?」とツッコミを入れられることを覚悟で言えば、大所高所から(グローバルな視点から、と言い換えてもいい)当事者が本質的な議論(批判)を展開せず、議論=批判が起こるのは、「匿名性」に支えられているという意味で、本質的に「内閉・自閉」していると思っているネット社会(そのもの自体は、巨大な情報網なのに)のような場でしかない、というのは、どこか現代の社会全体が「歪んでいる」からではないか。もちろん、このような僕のネット社会(情報化社会)の隆盛がもたらしたものに対する意見は、来るべき社会の予兆で、何ら問題を胎んでいるわけではない、という考え方も成り立つだろうということを前提しての言い草なのだが。
 そう言えば、新年早々の授業で、確かバイトしなければ学生生活を送れないような厳しい状況が続いていることに対して、何故学生は怒らないのだろうか、おとなしすぎないか、と言ったところ、学生から「ネットには怒りの文章が充満しています」との返事が返ってきた。確かに、僕の少ない経験からも、少し前のことになるが、自民党の総裁選で麻生さんが秋葉原で熱狂的な若者に歓迎されたという報道とネット上に横溢する「怒り」の言葉とのギャップに戸惑ったことがあるのを思い出した。「匿名」によって、とりあえず自らの安全を確保し、その上で他者を「批判(誹謗中傷も含む)」する。それがこの社会の「歪み」を象徴しているのではないかというのは、例えば「学校裏サイト」と呼ばれるものが何をもたらしているかを考えれば、一目瞭然だろう。

 なお、ここまで書いてきて思い出したのだが、昨秋僕のブログが「炎上」したそもそもの発端である栗原裕一郎氏の「<盗作>の文学史」に対する「感想(疑問)」を陳べる原因の一つに、井伏鱒二の「『黒い雨』盗作疑惑」問題というのがあったのだが、この問題の発端になった広島在住の歌人豊田清史による「資料」(「黒い雨」やその原型となった「重松日記」等々)の「改竄・捏造」、あるいは氏を批判する者への「誹謗中傷」「罵詈雑言」、等々に対する広島の地における多くの文学関係者による批判が続いていることである。僕が栗原氏の著作に「不満」をもたらしたのも、そのような豊田清史批判について十分にフォローしていないのではないか、と思ったからであり、他にもいくつかの点で不満があっても全体としては刺激的な書物である、という前提があったということを、この際だから付け加えておきたいと思う。