ここ何日か「盗作」問題に関する僕の発言(感想)を軸とする応酬に振り回されて、果ては「大学教師を辞めろ」とまで言われ、これが「ネット社会」の現実か、と今更ながら考えさせられている間に、世の中はあの郵政選挙を行った小泉政治を思い出させるほどに、「劇場型政治」が花開いてしまったという感がある。
そこで、前にも書いたことだが、僕にどうしても解せないのは(現象としては理解できるが)、福田自公民内閣には支持率を20パーセント程度しか与えなかった「国民」が、福田首相が退陣表明しただけで倍近い支持率を与え、あまつさえ自民党総裁候補が5人に絞られた時点(6・7日)の世論調査で、自民党の支持率が40パーセントを超えた、ということである。安倍政権末期、福田政権と、自公民内閣に「NO」を突き付けていた国民が、まだそれぞれの候補が「公約・マニフェスト」の類を出していないにもかかわらず、「先物買い」なのか、自民党に高い支持率を示す。
どうなっているのか、と思うのは、僕だけではないだろう。1年以内に全て解決しますと安倍・福田の両首相が公約した「消えた年金」問題が解決したわけではないし、自衛隊の海外派遣問題(アフガン・イラク特措法、つまり自衛隊の米軍支援問題=集団的自衛権の問題)も未解決、あれほど騒いだ「道路特定財源=暫定税率」の一般財源化の問題はどうしたのか、「天下り」問題、「消費税」問題、何一つ解決していない現実、国民は次期自民党総裁に「期待」して高い支持率を与えたのかも知れないが、戦後63年、霞ヶ関と癒着した自民党政権(公明党が何故連立を組んでいるのか、僕には今でもよく理解できない)では、どんな総裁が選ばれても多寡が知れているのではないか。
マスコミ報道によれば、総裁選の「勢い」に乗って総選挙に突入し、そして総選挙に「勝利」誌、自公民政権を存続させるという。もしこれが本当ならば、これほど国民を「愚弄」する話はない。関西弁に「なめたらあかんでよー」というのがあるそうだが、国民を愚弄したら(バカにしたら)手酷いしっぺ返しを喰らうのは必定。しかし、混迷・混乱する今日、国民が「ヒーロー(英雄)」を待望しているのも事実であるから、どんな総選挙結果が出るかわからないが、ともかれ、繰り返し言っているように、早急に衆議院を解散して総選挙を行い、国民の審判を仰ぐべきである。その結果を見て、僕らはもう一度判断すればいいのではないか、と思う。郵政選挙(劇場型政治)の「甘い結果よ、再び!」とばかりに夢見て、誰か(黒幕?)が総裁選の「絵図」を画いているのだろうが、果たして描いた絵図通りになるだろうか。国民はそんなに「バカ」ではないと思うのだが。
僕は、冷静に、劇場型政治に惑わされることなく、また「しらける」こと無く、自分の主体性をかけて国民の義務を果たすとき、自ずから答えは出てくるのではないか、と相変わらず「夢見て」いるのであるが、果たしてどうなるか。やっぱり、「政治」というのは面白い(だけど、僕のブログにコメントを寄せてきた「ネット小僧たち」は、そんなこと露ほども思わないのだろうな、と思うと愕然とするのも、事実)。
そこで、前にも書いたことだが、僕にどうしても解せないのは(現象としては理解できるが)、福田自公民内閣には支持率を20パーセント程度しか与えなかった「国民」が、福田首相が退陣表明しただけで倍近い支持率を与え、あまつさえ自民党総裁候補が5人に絞られた時点(6・7日)の世論調査で、自民党の支持率が40パーセントを超えた、ということである。安倍政権末期、福田政権と、自公民内閣に「NO」を突き付けていた国民が、まだそれぞれの候補が「公約・マニフェスト」の類を出していないにもかかわらず、「先物買い」なのか、自民党に高い支持率を示す。
どうなっているのか、と思うのは、僕だけではないだろう。1年以内に全て解決しますと安倍・福田の両首相が公約した「消えた年金」問題が解決したわけではないし、自衛隊の海外派遣問題(アフガン・イラク特措法、つまり自衛隊の米軍支援問題=集団的自衛権の問題)も未解決、あれほど騒いだ「道路特定財源=暫定税率」の一般財源化の問題はどうしたのか、「天下り」問題、「消費税」問題、何一つ解決していない現実、国民は次期自民党総裁に「期待」して高い支持率を与えたのかも知れないが、戦後63年、霞ヶ関と癒着した自民党政権(公明党が何故連立を組んでいるのか、僕には今でもよく理解できない)では、どんな総裁が選ばれても多寡が知れているのではないか。
マスコミ報道によれば、総裁選の「勢い」に乗って総選挙に突入し、そして総選挙に「勝利」誌、自公民政権を存続させるという。もしこれが本当ならば、これほど国民を「愚弄」する話はない。関西弁に「なめたらあかんでよー」というのがあるそうだが、国民を愚弄したら(バカにしたら)手酷いしっぺ返しを喰らうのは必定。しかし、混迷・混乱する今日、国民が「ヒーロー(英雄)」を待望しているのも事実であるから、どんな総選挙結果が出るかわからないが、ともかれ、繰り返し言っているように、早急に衆議院を解散して総選挙を行い、国民の審判を仰ぐべきである。その結果を見て、僕らはもう一度判断すればいいのではないか、と思う。郵政選挙(劇場型政治)の「甘い結果よ、再び!」とばかりに夢見て、誰か(黒幕?)が総裁選の「絵図」を画いているのだろうが、果たして描いた絵図通りになるだろうか。国民はそんなに「バカ」ではないと思うのだが。
僕は、冷静に、劇場型政治に惑わされることなく、また「しらける」こと無く、自分の主体性をかけて国民の義務を果たすとき、自ずから答えは出てくるのではないか、と相変わらず「夢見て」いるのであるが、果たしてどうなるか。やっぱり、「政治」というのは面白い(だけど、僕のブログにコメントを寄せてきた「ネット小僧たち」は、そんなこと露ほども思わないのだろうな、と思うと愕然とするのも、事実)。
憶測でものを言う前に、「ネット小僧たち」とやらにきちんと取材したらいかがですか?
取材は大事ですよー。
劇場型というのはご自分のなさってることにも当てはまるのではないでしょうか。話題になっている本を取り上げて批判されれば、「ネット小僧」と一括して無視しようとする。
無視しようとしては反応する。あげくの果てに話題を変えようとしては自分の矛盾をさらけ出してさらに批判される。
福田のように辞任するでもなく、単なるメモだとか学生に勧められてブログをはじめたとか、福田以上に無責任です。まず自分を客観的に見るように努力すべきではないですか。
所属大学や自分の実名を出してブログをやる以上、それなりに覚悟は必要でしょう。
ブログをやる以上、世間の目に触れるわけですし、ネットは劇場型政治と共通する部分もあると思います。
自分の虚栄心が裏目に出たからと言って自分が利用したネットを批判するのはやめましょう。
男に振られた女の愚痴みたいで気持ち悪いです。
大学教授であれば夏休み中も給料は出ているはずです。筑波の教授はタカが知れているなどと思われないよう自戒されることを切に望みます。
大体これでは任期制や法人化など大学改革はなんだったのか、まったく何一つ解決していない証拠で、そちらから論じるべきだと思わざるを得ません。
先生、それは「国民」が「愚民」だからですよ。先生が筑波で人気がおありだというのも、学生が愚昧だからでしょう? わたしの通った学校でも、多数のおろかな人気があるのはバカな教授でした。だから、わたしは先生に大学辞めろなどとは申しません。先生は大学にとって必要な方なのです。ご安心ください。
こちらが小谷野敦さんのブログです。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080906
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080907
2年前に大江さんの卒業論文でお世話になりました、たなかです。
卒業してから先生にはまったく連絡をとっていませんが、
このブログを通して先生の近況や関心ごとに触れることができてうれしく思います。
といっても、先生の話なり意見なりを鵜呑みにして自分の判断をまったくしないということではないです。
正直わからない部分もあるし、賛成する部分もそうは思わない部分も、いろいろです。
コメントをみると、先生と意見の合わない方々の書き込みが多く見られます。
そういう方々にはその人たちの考え方や言葉遣いがあって、それらに文句をつけるつもりはありません。
ただ、そう人たちばかりの言葉ばかりが目立つのはちょっと見過ごせないと思い、コメントした次第です。
「出版文化というよりは先生の自分史を聞かされている授業だったが、それを面白いと思う人にはおしろいと思う。私は面白かった。かなり不真面目な授業の割りにテストは真面目な題目が出る。ただ、できは悪くても通る。」
「文藝評論家でもいらっしゃるということなので、
文学好きなので取ってみたけれども内容は??
全編、ほぼ雑談で構成されるのでそれを楽しいと思えればOKですが、内容の充実した講義らしい講義を期待する人には非常に退屈ではないかと思います。
文学部ではないのでこんなものかもしれませんが…
テストはとりあえず題材の本を読んで登場人物とストーリーを押さえておけばなんとかなります。
単位は取りやすいはずです。
気まぐれに出席を取っていた気がします。」
だいいち、こういうことは栗原氏も小谷野氏も望んではいないのではありませんか?
冷静になって、かつ礼を尽くすべきだと思うのですが(もちろん、双方にですよ)。
少なくとも外野の出る幕ではないでしょう。
まずは栗原氏と小谷野氏に取材してからそういうことを言ってくださいね。
取材をしていないと黒古先生に怒られますよ。
三浦雅士氏
http://mainichi.jp/enta/book/hondana/news/20080831ddm015070033000c.html
すが秀実氏
http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2008081004.html
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20080911
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20080912
>大学が未だに「学問の府」であるなどという幻想
などという教師にあるまじき考えをさらけだしてしまったのはつらいですね、この先教壇に立ったとき、学生たちの視線は厳しいものになるでしょう。黒古先生のお言葉を借りるなら、
もしこれが本当ならば、これほど学生を「愚弄」する話はない。関西弁に「なめたらあかんでよー」というのがあるそうだが、学生を愚弄したら(バカにしたら)手酷いしっぺ返しを喰らうのは必定。
と言いたくなります。John Doeさん、yさん、quidamさんなど、既に他の方からもこの発言に対して、「黒古先生にとって大学教育とは何ですか?」と疑問が出されています。この発言は大学教師としての黒古先生の資質を問われるものですが、果たしてきちんと回答できるのでしょうか。このブログでは何度も政府与党に解散総選挙せよと迫っていましたが、ご自分にも辞職覚悟で教師の資質を問う解散総選挙を行い、学生たちの民意を聞いてみたらよいのではないでしょうか。普段から政治家や役人の失言に厳しい黒古先生ですから、ご自分の失言にも厳しく対処なさるものと期待しています。
相変わらずスルーできない人ですね。
勝手に「ネット小僧」という名前を付けたはいいものの、どうやらその存在が気になって気になって仕方がないらしい。
いつまで見えない敵と戦ってるんですか?
そういうのを一人相撲と言うんですよ。
ネットでは匿名性のもとに無責任な言葉が横行しています。もちろん中にはそうでないものもありますが、それでも、いつでも匿名性の陰に隠れることができるのですから、自らの言葉に責任を取ろうという態度は総じて少なく、自分に甘く他人の揚げ足を取って面白がる人が多いのが悲しいかな、現実です。
「他人の口に蓋はできない」のですから、すべての言葉をシリアスに受け止めていたら身が持ちません。
例えば、素性を明らかにしてきた者に対してだけ、回答をするなどの自分なりのルールを作ってもいいかもしれませんね。
ネット社会に対する問題意識は、戦後のマスコミに対する問題と同様、奥が深いものかもしれません。
このような騒ぎに懲りず、気分が向いた時で結構ですので続けて書いていただければうれしいです。
もちろん黒古先生には「私は評論家であって研究者ではない」という応答が可能なのですが、もしそうだとすると学に従事しない大学教授ってなんだろうという疑問に答えなければいけなくなるわけです。音大や美大であれば技術教授が主目的ですから学に従事しない大学教授もいるのですが、大学の文学部や文学研究科は作家を養成するための教育研究機関ではないし、仮にもしそういう教育を目指すのだとしても文学でそれに対応するのは作家であって文芸評論家ではない(音大が音楽家を育てるところであって音楽評論家を育てるところではなく教授者が音楽家であるのと一緒です)。
学者として文学に関する学的営為に従事する気はないがさりとて作家として自ら創作者たらんとする気もないので文芸評論をしているということなのかもしれませんが――学者でもないのに禄を食むためだけに大学教授をするということそれ自体をここで難詰しようとは思いません――大学教授の肩書きに依拠してたとえば学術雑誌に学的営為とは呼べないような「論文」を掲載せしめているのだとすれば、それは学的資源の詐取ですし、或いは文学研究のために血税から支出されている研究費を「文学」ないし評論のために費消するのは国民の負託に対する裏切りです(これは「戦後文学」派としては悲しむべき事態ですね)。もちろん「いや私は学問的研究をしているのだ」と正面から反論していただければそれが一番なのですが、そのご研究の方法論が立松和平とやらの「イタコ」となって作家の「内心」「真意」を代弁するなどというものではまったく学的でないわけなので――検証可能でもなければ合理的批判に開かれてすらいない――イタコの口寄せだかテレパシーだかを要求するような黒古先生の言う「文学」ではない、開かれた学的営為としての文学研究について、いったい何を考えておられるのか、伺いたいと思うのです。
もちろんこうした「大学教授」であるということに関わる諸問題が黒古先生に特有のものであるなどという気はありません。「みんながそうなのになぜ俺だけが責められなければならないのだ」というのが、ここのところブログで猛攻撃を受けた先生の正直なお気持ちであることでしょう。しかし、率直に言えば「大学解体」を叫んだ全共闘世代の先生方が(人文社会系に特に顕著ですが)まさしく学へのコミットメントを放棄しつつ「大学教授」となることを通じて「学問の府」としての大学を解体してこられたのです。それなのに自らがもたらした大学の崩壊に基づいて「学へのコミットメントなき大学教授であること」を正当化されるのは筋が通りませんし、傍目に見てもあまりに情けない行動ではないでしょうか。
黒古先生のご真摯な応答によって上のような慨嘆が単なる杞憂であることが明らかにされることを願ってやみません。