黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「虚しさ」との戦い(1)――挫けてはいけない、と思いつつ……

2015-06-01 09:59:24 | 仕事
 5月の連休が終わってから20日余り、もう口癖のようになっている「弁解」をすれば、この間、決してサボっていたわけではない。
 時事通信配信の「戦争文学は語る」(全18回連載)の最後の3回分の原稿を書くために、大江健三郎の占領期の日本の在り方を批判的に捉えた『人間の羊』(58年 第16回)、ベトナム戦争を取材した開高健のルポルタージュ『ベトナム戦記』(65年 第17回)、立松和平の日中戦争時に「殺すな!」を実践した兵士(実話)を基にした長編『軍曹かく戦わず』(05年 第18回)を読み直し、そして改めて「戦争」や「戦争文学」について考え、原稿を書いていたのである。
 この作業と国会において与野党の「安保法制」をめぐる論戦が始まったことが重なり、国会議員=政治家連中が発する言葉の余りの「軽さ」やその「詭弁」ぶりにあきれ、自分が書いている「戦争文学は語る」の言葉=表現をより説得的なものにしなければ、と気を遣い、自分がこのブログで彼ら(安倍「極右」首相をはじめ自公政治家たち)を批判することの意味を考えざるを得なかった。「安保法制」をめぐる論議が、余りにも国会(国民)を無視した「初めに結論ありき」――つまり、国民無視の安倍首相が先の訪米中にアメリカ議会においてそこでスピーチできることに有頂天になり、「安保法制」はあなた方の期待に添えるよう8月までに成立させると言いきってしまい、その結果今国会における「安保法制」論議は形骸化せざるを得ないという状況にあるということ――であることに、発言(批判)することの虚しさを痛感していたのである。 つまり、マスコミ・ジャーナリズムが警鐘を鳴らしているように、今国会で議論されている「安保法制」は、実質的には「憲法(第9条及び前文の精神)改正」であり、戦後70年にわたって築いてきた「平和と民主主義」を基底とする社会の「大転換」であるにも関わらず、余りにも国民の多くがそのことに「無関心」であり、「経済=物質的な豊かさ」しか求めていないように見えることに、正直言って苛立ち続けてきた、ということでもある。各種世論調査が伝える「安保法制論議は慎重に」という意見が多数を占めながら、安倍政権の支持率は相変わらず「50%」近いという現実に、「戦争文学は語る」執筆のために読んだ1930年代に関する資料から得られるものとが、余りにも酷似にしている、ということが、「虚しさ」を助長していた、とも言える。
 さらに言えば、そのような世論調査の相反する結果は、先月から始まった「解放」への連載コラム(「状況への異論・反論・抗論」、月1回9枚ほど)の第二回目で取り上げた「原発再稼働」に関する問題にも共通するもので、原発再稼働にはフクシマの反省に基づいて「60%以上」の国民が反対しているにもかかわらず、原子力規制委員会は次々と「再稼働」を許可するような決定を行い、その原発を抱えた自治体は電力会社と共に、その規制委員会の決定を歓迎する。フクシマのような大事故が二度と起こらないなどと誰も保証しておらず、また高濃度放射能汚染物質(使用済み核燃料など)の最終処分場も目処の付かない状態にあるにもかかわらず、である。人間の生命や将来のことなど何も考えない「経済優先主義」、このことも考えれば考えるほどに虚しくなる。 ということで、この20日余りは「虚しさ」との戦いだったのだが、先日ある人に会って>、「虚しさ=ニヒリズム」に浸っているのは、「自己満足に過ぎず」「格好付けすぎ」だと気付かされた
 明日から、また地道に己の信じることを続けていこう

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