黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

もう一度、臨界前核実験について

2010-10-19 09:07:36 | 文学
 ノーベル賞つながりではないが、今朝(19日)の朝日新聞を見ていたら、大江健三郎が月に1回連載している「定義集」で、10月3日行われた「広島の平和思想を伝える」という連続講演のことを伝えたあと、自分と「ヒロシマ」との関わりについて、『ヒロシマ・ノート』(65年)でも触れている重藤原爆病院院長(当時)や金井利博中国新聞論説委員(当時)との関係を軸に書いていた。大江の広島での講演については、東京新聞が少し触れていたが朝日新聞は全く載せておらず、オバマの核軍縮演説などは大きく報道しながら、大江の講演について知らんぷりをする大新聞の核意識とは何か、と思わざるを得なかったが、それは措き、大江が『ヒロシマ・ノート』以来今日まで45年以上ずっと『ヒロシマ・ナガサキ』(原爆問題)に関わり続けてきた「持続力」について、僕らは改めて考えるみる必要があるのではないか、と思わざるを得なかった。
 言葉を換えれば、大江が「定義集」で触れている重藤原爆病院長も金井利博論説委員も、「核=原爆」というものがいかに人間をスポイルし人類に敵対するものであるかを、自分の現場(病院や新聞)を大事にしながら一貫して主張してきた人であるが、そのような人の存在について「文学=言葉」という現場から彼らとの関係について発言し、なおかつ『ピンチランナー調書』(72年)や『治療塔』(90年)、『治療塔惑星』(91年)などの作品において核時代を生きる「僕らの生き方」について追求してきた大江健三郎というノーベル文学賞作家について、現代文学の在り方に関心を持つ人は是非もう一度考えてみてほしい、ということである。
 大江は、少なくともオバマのように一方で「核軍縮」を唱えながら、他方で核開発の一環である「臨界前核実験」を行うなどというアクロバティックなパフォーマンスを行うような人間ではない。大江がノーベル文学賞を受賞した当時、鬼の首を取ったように大江は核兵器を容認する文藝春秋(株)が主催する芥川賞を受賞し、かつ文藝春秋の文芸誌「文学界」に作品を発表しているが、そのようなマヌーバー的な行為はけしからん、といった類の見当はずれとしか思えない批判(例えば、元朝日新聞記者本多勝一のような)が横行したことがあるが、流行に追随せず、おのれの反核思想に殉じているように見える大江の生き方(考え方)、現在のような混迷・混乱の様相を呈している時代だからこそ、貴重なのだと思うが、どうだろうか。
 それにしても、北朝鮮の「核疑惑」や「核実験」について声高に非難したり抗議したりする人が多いのに、アメリカ(オバマ大統領)の「横暴」「二律背反」について、「抗議」の声一つあげない政権与党民主党の政治家たち(だけでなく、一部をのぞく野党の政治家たち)というのは、どのような人たちなのか。今なお福沢諭吉の「脱亜入欧」の精神がそこに働いているとは思わないが、北朝鮮を非難してアメリカについては沈黙を守るというのは、「差別」なのではないか、と思わざるを得ない。
 と、このように書くと、またまた早とちりが「北朝鮮擁護・反日米」と受け取りかねないので言っておくが、僕は「北朝鮮」の「核実験=核開発・核保有」を絶対認めない。つまり、北朝鮮の核開発もあまりかの臨界前核実験も、両方とも「核軍縮→核廃絶」の立場からは絶対認められないということである(こんなことを改めて言わなければならないのは、情けないな、と思う)。
 ただこんな暗澹たる思いに誘う「核状況下の現在」ではあるが、朗報が1つ。林京子さんの「トリニティからトリニティへ」という中編小説がアメリカ在住の尾竹永子さんという舞踏家によって英訳刊行され、尾竹さんが教えている大学生を中心にたくさんのアメリカ人がその英訳本を読んでいる、ということである。

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