前回記事を書いたのが4月17日だから、もう20日余り経つ。いつもの台詞だが、決してサボっていたわけではなく、この間やっていたことを書いておくと、次の本として予定している『井伏鱒二と「戦争」』(仮題)の原稿整理に、思いがけず時間を取られ、いくつかの資料や井伏の作品を読み返し、かつ原稿の修正を行うという作業に没頭していたのである。
この本に関して、この10年くらいの間に依頼されて書いた「井伏論」――『黒い雨』論はもちろん、井伏が徴用中(1942年)に書いた『花の町』や戦後の『遙拝隊長』についての他、『徴用中のこと』などについての作品論をはじめ、戦中の過ごし方、等について書いたもの7本と新たに書き下ろした「井伏鱒二と原発」論(これに関しては、川村湊が同じような「材料」を使って「原発と日本の文学者」(『いまこそ私は原発に反対します』日本ペンクラブ編 平凡社刊所収)というタイトルで一文をものにしているが、内容は全く別で、川村は急いで書いたようで、川村文にはいくつか基本的な誤りがある。また、ここで書いておくが、川村文に刺激されて拙論を書いたのではない。)、併せて370枚ほど、それに関連する戦中―戦後の文学者の在り方について論じた過去の4つの論文約100枚を併せて、約480枚ほど、各論の重複を消去し、足らない部分を加筆する。一番古い文章は11年前の2000年に書いたものなので、基本的なことは変わらないとしても、年号やその時々の文学状況などは変わっており、その「調整」に思わぬ時間を取られる、ということがあった。
知る限り、『黒い雨』論や『遙拝隊長』論などはこれまでにも「定番」的に論じられてきたが、井伏鱒二を「戦争」というテーマで論じるというのは、これまでなかったのではないか。故に、僕は面白い本になるのではないか、と思っているのだが、「文学評論」や「作家論」の類が驚くべき状態で読まれなくなっている現在、果たしてこの本が日の目を見るかどうか、近日中に前から読みたいと言ってきている出版社に原稿を送り、結果を待とうと思っている。
また、その合間にある作家(決まったら、明らかにします)の「全集」の企画を立て、「卷立て」(全巻構成)に時間を取られると言うこともあった。全作品にざっと目を通し、主題別、刊行順で全巻の構成を考えるのは、全作品を一度は読んだことがあってもなかなか大変な作業で、これにも時間が取られてしまった。
他に、大学を退職した後、望みとしては「晴耕雨読だ」と言ったということもあり、夏野菜の種まきや苗植えは待ったなしでその季節がやってきて、自分で食するものぐらい「無農薬・有機栽培」で行いたいということもあり、そうなると野菜のケアとは別に雑草との闘いが続き、毎日毎日、取っても取っても生えてくる雑草を引き抜くために畑に出なければならず、これにも時間が取られてしまう。そして、つくづく思う。「晴耕雨読」は「悠々自適・のんびり」の代名詞ではなく、自然との闘いであり、労働の原点(肉体労働)を教えてくれるものだということを。そんなわけで、小さな吾が家庭菜園に植わっている野菜を列挙しておくと、ジャガイモを筆頭に、タマネギ、長ネギ(2種類)、にんじん、ゴボウ、空豆、絹さやエンドウ、モロヘイヤ、キャベツ、ラディッシュ(2種類)、ナス、カボチャ、キュウリ、ミニトマト、ピーマン、里芋、こんにゃく、ごま、ショウガ、瓜、セロリ、サニーレタスの24種類、畑が少し広くなったからと言っても、手入れが大変である。
ただ、「畑仕事」にもちゃんと効用があって、野田民主党政権の「原発再稼働」への目論見や石原慎太郎の「尖閣諸島買収問題」、橋下徹大阪市長(大阪維新の会)の計り知れない「野望」などで苛ついた気持や焦りを、無心に野菜のことばかりを考える畑仕事は鎮めてくれる、ということがある。とは言え、野田首相の何も具体性のない「日米同盟の高み」発言ほど、今日の「空洞」的な状況を表しているものはなく、絶望的に成らざるを得ない。
心身共に「元気」になりたいのだが、状況がそれを許さないとしたら、ではどうしたらいいのだろうか。
この本に関して、この10年くらいの間に依頼されて書いた「井伏論」――『黒い雨』論はもちろん、井伏が徴用中(1942年)に書いた『花の町』や戦後の『遙拝隊長』についての他、『徴用中のこと』などについての作品論をはじめ、戦中の過ごし方、等について書いたもの7本と新たに書き下ろした「井伏鱒二と原発」論(これに関しては、川村湊が同じような「材料」を使って「原発と日本の文学者」(『いまこそ私は原発に反対します』日本ペンクラブ編 平凡社刊所収)というタイトルで一文をものにしているが、内容は全く別で、川村は急いで書いたようで、川村文にはいくつか基本的な誤りがある。また、ここで書いておくが、川村文に刺激されて拙論を書いたのではない。)、併せて370枚ほど、それに関連する戦中―戦後の文学者の在り方について論じた過去の4つの論文約100枚を併せて、約480枚ほど、各論の重複を消去し、足らない部分を加筆する。一番古い文章は11年前の2000年に書いたものなので、基本的なことは変わらないとしても、年号やその時々の文学状況などは変わっており、その「調整」に思わぬ時間を取られる、ということがあった。
知る限り、『黒い雨』論や『遙拝隊長』論などはこれまでにも「定番」的に論じられてきたが、井伏鱒二を「戦争」というテーマで論じるというのは、これまでなかったのではないか。故に、僕は面白い本になるのではないか、と思っているのだが、「文学評論」や「作家論」の類が驚くべき状態で読まれなくなっている現在、果たしてこの本が日の目を見るかどうか、近日中に前から読みたいと言ってきている出版社に原稿を送り、結果を待とうと思っている。
また、その合間にある作家(決まったら、明らかにします)の「全集」の企画を立て、「卷立て」(全巻構成)に時間を取られると言うこともあった。全作品にざっと目を通し、主題別、刊行順で全巻の構成を考えるのは、全作品を一度は読んだことがあってもなかなか大変な作業で、これにも時間が取られてしまった。
他に、大学を退職した後、望みとしては「晴耕雨読だ」と言ったということもあり、夏野菜の種まきや苗植えは待ったなしでその季節がやってきて、自分で食するものぐらい「無農薬・有機栽培」で行いたいということもあり、そうなると野菜のケアとは別に雑草との闘いが続き、毎日毎日、取っても取っても生えてくる雑草を引き抜くために畑に出なければならず、これにも時間が取られてしまう。そして、つくづく思う。「晴耕雨読」は「悠々自適・のんびり」の代名詞ではなく、自然との闘いであり、労働の原点(肉体労働)を教えてくれるものだということを。そんなわけで、小さな吾が家庭菜園に植わっている野菜を列挙しておくと、ジャガイモを筆頭に、タマネギ、長ネギ(2種類)、にんじん、ゴボウ、空豆、絹さやエンドウ、モロヘイヤ、キャベツ、ラディッシュ(2種類)、ナス、カボチャ、キュウリ、ミニトマト、ピーマン、里芋、こんにゃく、ごま、ショウガ、瓜、セロリ、サニーレタスの24種類、畑が少し広くなったからと言っても、手入れが大変である。
ただ、「畑仕事」にもちゃんと効用があって、野田民主党政権の「原発再稼働」への目論見や石原慎太郎の「尖閣諸島買収問題」、橋下徹大阪市長(大阪維新の会)の計り知れない「野望」などで苛ついた気持や焦りを、無心に野菜のことばかりを考える畑仕事は鎮めてくれる、ということがある。とは言え、野田首相の何も具体性のない「日米同盟の高み」発言ほど、今日の「空洞」的な状況を表しているものはなく、絶望的に成らざるを得ない。
心身共に「元気」になりたいのだが、状況がそれを許さないとしたら、ではどうしたらいいのだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます