黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

三浦綾子・没後10年

2009-02-23 10:04:40 | 文学
 前にも書きましたが、作家の三浦綾子さんが亡くなって今年の10月で「没後10年」になります。亡くなっても、相変わらず作品は読まれ続け、はっきり調べたわけではないが、学部の卒論で取り上げられるランクも相当上位なのではないか、と思う。たぶん、この「100年に一度」と言われる大不況下にあって、乱れるばかりのモラルや蔓延する自己中心的な考え、さらには「親殺し・子殺し」に象徴される「生命」の軽視という風潮を何とかしようと思う人達が、『氷点』以来、最後の『銃口』まで、一貫して「人間の原罪とは何か」「救いはあるのか」を基底に「理想」や「正義」を求め続けた三浦綾子の文学に惹かれるが故に、彼女の「人気」は衰えないのだろう、と思う。
 様々な理由で延び延びになっていた拙著『増補版 三浦綾子論』(柏艪社刊)も、いよいよ今春(3月末か4月初め)に刊行されることが決まった。読者の皆様からどのような声が届くか、ちょっと心配しているが、非キリスト者でない批評家(研究者)が書いた初めての「三浦綾子論」としてそれなりの評価を戴いた前著に150枚ほどの新稿(求めに応じてあちこちの雑誌や新聞に書いた物)を足してできた新著、前著と同じように司修さんが装幀をやってくれいいものに仕上がっているので、刊行が楽しみなのだが……。
 その『三浦綾子・没後10年」を記念して書いた北海道新聞の文章、以下に掲載します。

<三浦綾子文学の魅力―風土が育んだ「平等」思想>(「北海道新聞」2月10日・夕刊文化欄)
                                黒古一夫

 一九九九年10月12日、二〇世紀の終わりと行を共にするようにして三浦綾子が七七歳で亡くなってから今年で一〇年、今も三浦文学に対する人気(評価)は高まることはあっても、決して低くなることはない。小説を中心に三浦作品の文庫は変わらず版を重ねているし、そのことと関連してミッション系のみならず多くの大学で「三浦綾子」を卒論に取り上げる学生は年々増えている。また、全国的に展開しているキリスト者中心の「三浦綾子読書会」が、毎月数回全国各地で非キリスト者にも開かれた読書会や文学講座を催して、多数の参加者を得ているというようなこともある。
これは亡くなる一年前(九八年十一月号)のことになるが、国文学専門誌の「国文学 解釈と鑑賞」(至文堂)が大規模な「三浦綾子の世界」を特集し、これを皮切りに、同誌の「特集 近代文学に見る『日本海』」(〇五年二月号)、あるいは「国文学 解釈と教材の研究」(學燈社)の「特集 地方の文学」(〇八年七月号)や国文学関係の学会誌に多くの作品論や作家論が取り上げられてようになった。かつて文壇デビュー作『氷点』(六四年)が戦後文学の批評家として著名な平野謙によって、「護教文学」とか「主人持ちの文学」というレッテルを貼られ以来現代文学の中心から排除されたことなど全く忘れ去られたかのように、今や三浦文学は若い新しい読者を獲得しつつ、二葉亭四迷・森鴎外以来の近・現代文学作家として「正統」な位置を占めるようになり、高い評価も受けている。
 なぜか。まず言えるのは、混迷・混乱する現代社会がもたらす諸問題、例えばそれは不正義の横行や家族の解体、人間の尊厳を踏みにじるような出来事、モラル(倫理・道徳)の乱れ、といった現象として私たちの前に眼前するわけだが、そのような問題に対して三浦文学は真正面から向き合い、作品内で力強く「正義」や「理想」を語る点に読者は魅力を感じているということである。人間の「原罪」を問い、「理想」や「正義」を求めるのは、三浦綾子にしてみれば全て「(キリスト教)信仰」から発生したことで、表現に関わる者=作家として「当たり前」と思っていたようだが、この三浦文学の魅力(特徴)は紛れもなく宗教(キリスト教)の枠組みを超えて、原理的な人間の在り方に通底するものであった。
 二番目の理由は、三浦文学が作家自身の数々の決して褒められない体験、例えば軍国主義を盲目的に信じた教師時代や戦後の自棄的・虚無的な生活(二重婚約事件など)、十三年にも及ぶ闘病生活、等々からの乗り越えを基に書かれていることから、作品が読者に生きていく「勇気」や「励まし」を与えるということである。弱肉強食・優勝劣敗を是認するような「金権主義」的な現代社会の中で、「ニヒリズム」や「自己中心」的な行為・思考が蔓延していることを考えると、この三浦文学の特徴は貴重であると言わねばならない。
 三番目の理由として考えられるのは、北海道の歴史と風土(自然)が育んだと言っていい三浦文学に通底している「対等・平等」意識=思想がこの社会において欠落しているが故、ということである。紙幅の関係で詳細については四月初旬に刊行が予定されている拙著『増補 三浦綾子論』(柏艪社刊)を見ていただきたいと思うが、明治維新後に本格化した北海道開発に関わって人々に植え付けられた「対等・平等」意識・思想は、現代でも例えば小檜山博の文学などに具現化されているが、北海道人の中に脈々と伝わっており、三浦文学はそのような北海道人の「人間観」を代表するものとして読まれている、ということである。この三浦文学に現れている「対等・平等」思想は、本質的には資本主義社会が必然的に招来する「格差社会」への批判に通じるもので、「格差社会」論議が喧しい現代において三浦文学が多くの読者を得ているのも当然なのかも知れない。いずれにせよ、没後十年にしてなお輝きを失わない三浦綾子の文学と思想を、私たちは次代へと繋げていく必要があるのではないか、と思う。


 

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6 コメント

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おお!! もしや最後のチャンスかも…。「月光」への応募、やってみます。 (宮本誠一)
2009-02-23 19:06:32
できる、できないは別として、まだまだ自分の資質を見極めるには早いのかもしれませんね。(おそらくこれは死の直前までつづくのでしょうが)
ありがたい言葉かけ。全力でやってみようと思います。

『村上龍論』は楽しみですね。

彼は良いも悪いも、日本文学史において、そのマルチ的メディアへの進出、露出度などを理由にか、正当な評価、ならび位置づけがされていないようにも思えますので。

それこそ吉本隆明氏は早くから、すぐれたイメージの喚起力をもった作家として認めてはいるようですが。

黒古氏がどのように捌き、分析されてるか、ぜひ読ませていただきたいと思います。

それではご多忙の中、くれぐれもご無理をされませんように。
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閉塞感とは… (四条烏丸)
2009-02-23 23:29:51
黒古さん、貴殿が嘆いていた「閉塞感」とは、本質的に邪悪な精神を持った人間同士が、己たちの利益のために徒党を組み、己たちの利益の障害となるものを排除しようと暗躍する…その結果、生み出された劣悪極まる状況ではありますまいか。
とすれば、政治の世界であろうと文学の世界であろうと、閉塞感を生み出すような、化けの皮を被った無反省な人間は、社会の最前線のどこにでもいる。
他者を語る前に、そろそろ己の在り方を見つめ直す必要がありますね。
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大衆人 (納棺師)
2009-02-24 09:57:13
「一九九九年10月12日、二〇世紀の終わりと・・」

” 黒古一夫先生は、1999年に20世紀が終ったと思っているらしい。やれやれ…。”
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「微妙な」日本語表現 (黒古一夫)
2009-02-25 09:08:13
 このブログを再開するときに「原則」を確認したように、「匿名」の人にはコメントのお返しをしないのだが、「おくりびと」がアメリカ映画界の賞でしかない「アカデミー賞」を受賞したことに「悪のり」したのか、「納棺師」を名乗る人の「とほほな考え」には一言だけ言っておこうと思う。
 何故なら、「納棺師」を名乗る彼のような日本語の表現を「四角四面」にしか考えない人が近頃多くなったように思われるからに他ならない。彼は、僕の「三浦綾子・没後10年」に寄せた北海道新聞の文章の冒頭「1999年10月12日、二〇世紀の終わりと行を共にするようにして」という部分を取り上げて、「黒古一夫先生は、1999年に20世紀が終ったと思っているらしい」と書き、最後に「やれやれ」などといかにも訳知り顔の台詞を付けて、僕の「ムチ」を揶揄したつもりになっているように見えるが、二〇世紀が二〇〇〇年に終わったことなど、あの「二〇〇〇年問題」でかき回された経験を持つ僕が知らないはずはなく、きちんと文章を読めば分かるように、「二〇世紀の終わり」というのは、「一九九九年だけ」を指すのではなく、「世紀末」という言い方があるように、ある「巾」を持った言い方であるというのは、日本語の「曖昧表現」「ファジー表現」という特性について理解している人には、先刻承知している事柄に属する。
 なお、この「二〇世紀の終わりと行を共にするようにして」というのは、本来「20世紀末」と書きたかったのだが、「世紀末」というと一般的には「一〇年」ぐらいの巾があるので、それより二一世紀に近い「二〇世紀の終わり頃」という意味を込めて、僕の文章は書かれたと言うことを付け加えておきたい。
 やれやれ……。
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Unknown (小谷野敦)
2009-02-25 19:21:30
私はやはり、1999年を20世紀の終りだと認識していると思いました。きちんと読んでも分かりませんでしたよ。日本語が他の言語に比べて曖昧だとかいう説は、誰の説でしょうか。
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やれやれ… (四条烏丸)
2009-02-25 23:56:03
後から説明を加えなければ理解を得られないような文面は、駄文に過ぎない。
手前勝手な解釈は、単なる愚者の早合点に過ぎない。
いずれも、軽薄極まる自己満足の産物…か。
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