黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

「不器用な男」逝く――器用な男(詭弁男)の「延命解散」と……

2014-11-19 09:51:07 | 仕事
 1950年代後半から70年代初めまでの映画全盛時代に「青春時代」を過ごした僕にとって、日活アクションスターの小林旭や赤木圭一郎ら(何故か、僕は後にもてはやされることになった石原裕次郎は好きではなかった。「慶応ボーイ」のお坊ちゃんという印象に抵抗があったのかも知れない)と共に、「高倉健」は文句なしに「ヒーロー」だった。特に、貧乏学生でありながら映画青年(年間150本ぐらい見たこともあった)であった僕は、「昭和残侠伝」シリーズや「網走番外地」シリーズは、たぶん全作品見ていたのではないか、と思う。
 よく言われてきたことだが、「義理・人情」を大切にするヤクザ(博徒)=高倉健演じる男が>、「恩義」を受けた落ちぶれた老舗組織や小さな組織に理不尽なな要求を突きつけてくる「新興組織」に対して、「耐えて、耐えた」末に反攻にでる、その姿に僕たち全共闘学生は自分の現在を重ね、負け続けていた「権力」との戦いの中で、「いつかは……」と思いながら、スクリーンを見つつづけていたのである/strong>。
 つまり、「器用な生き方」をして世の中を渡っていく同級生や先輩後輩の姿を横目に、「不器用な生き方」しかできない花田秀次郎(高倉健「昭和残侠伝」の主人公)に自分を重ねることで、苦境にあった自分の在り方に何とか「正当性」を見いだそうとし、かつ自分を慰めていたのである
 その意味では、意図せず殺人を犯した男が刑務所から出て、故郷の炭坑(住宅)に帰ってくるまでの葛藤や逡巡を描いた「幸せの黄色いハンカチ」(1977年、僕が小学校の教師を辞めて大学院に入った2年後)を見たとき、今は悪戦苦闘しているがいつか自分も「幸せ」を掴むことができるのではないか、否、掴むために現在(いま)を必死に生きなければならない、今を疎かにしてはならない、と思ったものである――幸い大学院で、戦前から「文学」を武器にこの時代の「よりよい在り方」を求めて、戦前の「敗北」を乗り越え苦闘を続けてきた小田切秀雄先生に出会い、「文学批評」によって「反権力」を追求することの可能性を見つけることができ、今日に至っている、ということがある。
 だから、正直に言うと、「文化勲章」をもらうような、一種の「芸術(文)芸作品」に出演するようになってからの高倉健出演の映画は、さほど熱心には見てこなかった。一般的には、そのような作品ほど高く評価されていたが、僕の内部ではいつも「違うのではないか?アウトローの健さんこそ、もっとも似つかわしいのではないか」という疑念が消えることがなかったのである
 高倉健の代名詞にもなっていた「不器用な男」も、それがトレードマークになるにつれて、「不器用」というのは「本道=中心」を歩けない男にこそ相応しい形容詞であって、誰からも「格好いい」「素敵」と思われるのは、それが「ブランド」になってしまったことの証拠で、白鞘のドスをひっさげて、一人で(あるいは、意の通じた同志と二人で)「敵(権力)」に立ち向かっていった「不器用な男」とは違うのではないか、と思っていた。
 そんな高倉健のしを伝えるニュースと同時に、あたかもそれが「仕組まれたニュース」と錯覚されるようなタイミングで>、「詭弁」を弄し続けてきたこの国の指導者(安倍晋三首相)が、衆議院の解散を宣言した。前から予測したこととは言え、全く「大義のない」自らの権力を維持・延命させるためだけの解散・総選挙宣言。自分に「非」がある人間ほど居丈高になり多弁にもなると言うが、昨日の安倍首相はまさにその通りで、700億円という多額の税金を使って解散・総選挙する「理由」など毛ほどもないのに、消費税増税を「先送り」したから「国民に信を問う」と強弁を繰り返していた
 そんな安倍首相の言動には腹が立ち、あきれるしかなかったが、しかしその安倍首相の意図が、「失敗」したアベノミクス(経済政策)や集団的自衛権講師容認などの「憲法を逸脱した」日米安保体制の整備、財界に後押しされた原発再稼働、等々の「超保守的=極右的」政策を隠蔽し、かつ自らの権力を「延命」させるための方法だったとしたら、僕らは「もう騙されない」と決意し、「反攻」に打って出ていくしかないのではないか。
 あの傲慢にも「国民の命と暮らしを守る」などと公言し続ける安倍首相に、どうしても僕らは一泡吹かせる必要がある。ニヒリズムの陥ることなく、「清き一票」を投じるために選挙に行こう。もう二度と「騙されない」ために!strong>