「本が売れない」という言葉は、今や出版社(編集者)の口癖のようになっているようだが、実態はどうなのか。確かに「今年は電子本元年」などと言われ、iPadやスマートフォンの普及と共に、多くの書籍が電子本化され、結構それらが読まれている、という「現実=事実」もあるように感じられる。
しかし、本当に「読書」はiPadやスマートフォンで行われているのかということになると、電子本化されている本の多くは、「アニメ」や「エンターテイメント系」、あるいは何年か前まで異常に騒がれた「ケータイ小説」の類で、学術書はもちろん「純文学」系の小説や評論などは全く電子本化されず、ということは「読まれず」、「本が売れない」ということの実態は、実はそのような電子本化からはずれた書籍が、電子本化によって読まれなくなった(売れなくなった)「エンターテイメント系」の書籍と一緒になって、売り上げを激減させている、つまりiPadやスマートフォンで電子本を読む場合も「課金」されるので、他の課金されるゲームや有料サイトに使われる費用のことも考えると、その総費用は馬鹿にならず、学術書や「純文学」系の本など買う余裕がなくなっている、というのが現実ではないか、と思われて仕方がない。
そう言えば、時たま上京する際に乗る電車の中の風景も様変わりしていて、かつては多くの若者(だけではなく、だんだん年齢層が広がってきていた)は漫画本を、また中年男性や女性の多くは文庫本や単行本を読んでいる光景をよく目にしたのであるが、最近は漫画本や文庫本を読んでいる人はごく少数で、老若男女の多くが携帯電話(スマートフォン)とにらめっこし、コンパクトなゲーム機に没頭している。そこで、「本が売れない」という現実を目の当たりにするというわけだが、このような光景を連日目の当たりにすれば、「電子本元年」などということを通り越して、もしかしたら僕らの「文化・文明」がネットの普及のよって「転換期」を迎えているのではないか、と思えてしまう。
それほどに「科学」の発展にはすさまじいものがあるのだが、僕が今回この欄で言いたいことは、その「電子本」のことだけではなく、電子本の「普及」に絡んで、今僕が次の本の準備ということで取り組んでいることの一部分なのだが、「戦後文学者は原発にどのように対処してきたか」ということを巡って調べていて、前から薄々は(個別作家に関しては)知っていたのだが、戦後文学史の流れと原発との関係を調べていく内に、明らかに「転換期」というものがあったのではないか、物事には何でも「転換期」があり、そのような「転換期」の存在に気が付かない批評や思想、つまり文学史的・思想史的な発想がない批評や思想は、僕がこれまで書いてきた批評も含めて、いずれ消えていく運命にあるのではないか、ということである。
例えば、古い話になるが、戦後文学を代表する野間宏が、「ビキニ事件」(沼津漁港所属の第5福竜丸がビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被曝し、乗組員の久保山愛吉さんが原爆症で亡くなった事件)直後の1950年代の半ばに、当時日本共産党員であったということもあって、「ソ連が原子力発電所を完成させた」というニュースに接して、(その前年にソ連がセミパラチンスク(カザフ共和国)の核実験場で数メガトンの水爆実験を行ったというのに)「ソビエトの原発は無限の幸福をもたらすもの」と言明している事実に接すると、後に「反原発」の思想を持つようになったということを知っている僕としては、何とも複雑な気持ちにさせられてしまう。
また、野間宏とは別な意味で戦後派文学を代表する作家の一人武田泰淳が、東海村に実験用原子力発電所ができた後の1957年に、東電からの招待で「中央公論」の担当編集者と東海村の原発を見学して『東海村見物記』を書き、野間宏と同じように原発に「未来」を見るというようなこのルポルタージュを見ると、これまた何とも言えない気持にさせられる(武田泰淳が東電から招待されてこの『見物記』を書いたのも、それより以前に『第一のボタン』という原発を舞台にした近未来小説を書いていたからと思われる。当然、原発を肯定した上でこの小説は構想されている)。もちろん、その後武田泰淳も八〇年代になると、「反原発」に転じている。
このような、「時代(政治)と人間(文学)」との関係を真摯に見つめ、時代のオピニオンをリードする知識人・文学者さえも「時代の趨勢』には逆らえず、「核の平和利用が未来を切り開く」といった言説に象徴される状況の大勢(体制)に追随してしまう事実に接すると、余程目を見開いて状況(時代)の行く末=つまり現在が「転換期」であるか否かを見つめていないと、「状況=大勢」に流されてしまうのではないか、と自戒を込めて痛感する。
そこで、僕は現在はまさに「東日本大震災」と「フクシマ」があったということを踏まえて、「大転換記」なのではないか、これからはそのような観点から時代と人間の在り方を考えて(見て)いかなければならないのではないか、と思っているということを言いたいのだが、皆さんはどうだろうか。
しかし、本当に「読書」はiPadやスマートフォンで行われているのかということになると、電子本化されている本の多くは、「アニメ」や「エンターテイメント系」、あるいは何年か前まで異常に騒がれた「ケータイ小説」の類で、学術書はもちろん「純文学」系の小説や評論などは全く電子本化されず、ということは「読まれず」、「本が売れない」ということの実態は、実はそのような電子本化からはずれた書籍が、電子本化によって読まれなくなった(売れなくなった)「エンターテイメント系」の書籍と一緒になって、売り上げを激減させている、つまりiPadやスマートフォンで電子本を読む場合も「課金」されるので、他の課金されるゲームや有料サイトに使われる費用のことも考えると、その総費用は馬鹿にならず、学術書や「純文学」系の本など買う余裕がなくなっている、というのが現実ではないか、と思われて仕方がない。
そう言えば、時たま上京する際に乗る電車の中の風景も様変わりしていて、かつては多くの若者(だけではなく、だんだん年齢層が広がってきていた)は漫画本を、また中年男性や女性の多くは文庫本や単行本を読んでいる光景をよく目にしたのであるが、最近は漫画本や文庫本を読んでいる人はごく少数で、老若男女の多くが携帯電話(スマートフォン)とにらめっこし、コンパクトなゲーム機に没頭している。そこで、「本が売れない」という現実を目の当たりにするというわけだが、このような光景を連日目の当たりにすれば、「電子本元年」などということを通り越して、もしかしたら僕らの「文化・文明」がネットの普及のよって「転換期」を迎えているのではないか、と思えてしまう。
それほどに「科学」の発展にはすさまじいものがあるのだが、僕が今回この欄で言いたいことは、その「電子本」のことだけではなく、電子本の「普及」に絡んで、今僕が次の本の準備ということで取り組んでいることの一部分なのだが、「戦後文学者は原発にどのように対処してきたか」ということを巡って調べていて、前から薄々は(個別作家に関しては)知っていたのだが、戦後文学史の流れと原発との関係を調べていく内に、明らかに「転換期」というものがあったのではないか、物事には何でも「転換期」があり、そのような「転換期」の存在に気が付かない批評や思想、つまり文学史的・思想史的な発想がない批評や思想は、僕がこれまで書いてきた批評も含めて、いずれ消えていく運命にあるのではないか、ということである。
例えば、古い話になるが、戦後文学を代表する野間宏が、「ビキニ事件」(沼津漁港所属の第5福竜丸がビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で被曝し、乗組員の久保山愛吉さんが原爆症で亡くなった事件)直後の1950年代の半ばに、当時日本共産党員であったということもあって、「ソ連が原子力発電所を完成させた」というニュースに接して、(その前年にソ連がセミパラチンスク(カザフ共和国)の核実験場で数メガトンの水爆実験を行ったというのに)「ソビエトの原発は無限の幸福をもたらすもの」と言明している事実に接すると、後に「反原発」の思想を持つようになったということを知っている僕としては、何とも複雑な気持ちにさせられてしまう。
また、野間宏とは別な意味で戦後派文学を代表する作家の一人武田泰淳が、東海村に実験用原子力発電所ができた後の1957年に、東電からの招待で「中央公論」の担当編集者と東海村の原発を見学して『東海村見物記』を書き、野間宏と同じように原発に「未来」を見るというようなこのルポルタージュを見ると、これまた何とも言えない気持にさせられる(武田泰淳が東電から招待されてこの『見物記』を書いたのも、それより以前に『第一のボタン』という原発を舞台にした近未来小説を書いていたからと思われる。当然、原発を肯定した上でこの小説は構想されている)。もちろん、その後武田泰淳も八〇年代になると、「反原発」に転じている。
このような、「時代(政治)と人間(文学)」との関係を真摯に見つめ、時代のオピニオンをリードする知識人・文学者さえも「時代の趨勢』には逆らえず、「核の平和利用が未来を切り開く」といった言説に象徴される状況の大勢(体制)に追随してしまう事実に接すると、余程目を見開いて状況(時代)の行く末=つまり現在が「転換期」であるか否かを見つめていないと、「状況=大勢」に流されてしまうのではないか、と自戒を込めて痛感する。
そこで、僕は現在はまさに「東日本大震災」と「フクシマ」があったということを踏まえて、「大転換記」なのではないか、これからはそのような観点から時代と人間の在り方を考えて(見て)いかなければならないのではないか、と思っているということを言いたいのだが、皆さんはどうだろうか。