黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

村上春樹批判の書

2011-11-17 04:38:46 | 文学
 この1週間、いろいろなことが立て込んで、大学を退職した4月以降では一番忙しい日々を過ごしたのではないか、と思っている。
 まず、ずっと前(7月)に約束していたことなのだが、このほど解放文学賞(小説部門)に「佳作」入選した熊本の大野滋さんという人の「腑分けの巧者―『蘭学事始』異聞」という作品が刊行(自費出版)されるということで、12枚ほどの「解説」を書くということがあった。この130枚余りの作品は、かの有名な杉田玄白が著した『蘭学事始』にも出てくるのだが、『ターヘル・アナトミア』の日本語訳『解体新書』が成立した裏に、江戸小塚原で斬首刑になった罪人の「長利(未解放民)」による「腑分け」(解剖)があったという「事実」を膨らませ(創造力を駆使して)、1編の物語にしたもので、作者(大野滋氏)はこの作品を書き上げて急逝したということで、供養(追悼)の意味を込めて奥さんが書籍として刊行したいと言っていたものである。1周忌を期して刊行すると言うことで、何ヶ月ぶりかに読み直し、評価は変わらなかったのだが、小説を書くということの「幅の広さ」を痛感させられた作品であった。
 その小説の「解説」を書いている途中で、僕の次著となる『辻井喬論―修羅を生きる』(論創社刊)の初校ゲラ(著者校正)が出てきて、13日(日)から昨16日(水)まで掛かって、ようやく引用文の確認を含めて終わることができた。ここ何冊かの自著刊行に際して思ってきたことなのだが、PCで原稿を書くと、いくら読み返し修正しようとしても、僕らのような元来はアナログ派である人間には、PC上での確認や修正がやりづらく、どうしてもミスが多くなる傾向にあり、今回もそのようなミスの存在を確認して、やはり一度プリントアウトして「活字」として確認・修正してから版元に原稿を渡さないとダメだな、と痛感した。
 ただ、今度の『辻井喬論―修羅を生きる』は、大学を退職して「有り余る時間」を使って存分に書いたものなので、これまでの「忙しい時間」の中で書いたのと、少し違ったものになっているという実感を持っていたのだが、初校ゲラを見て、その僕の実感が間違っていなかったという感想を持った。「遅れてきた戦後派作家」とも言っていい辻井喬の「初の本格的作家論」となる拙著だが、出版不況をひしひしと感じる昨今における拙著の刊行、今はどれだけ多くの人に読んでもらえるか、それだけが気になることである。
 というようなわけで、野田政権の自公政権時代と変わらない「政治」のやり方にイライラしつつ、忙しい日々を過ごしていたというわけである。そんな中、先週末に刊行された「週刊読書人」に載った僕の久し振りの「書評」を以下に再掲する。


「類を見なかった村上文学批判―現代文学批評の在り方を考えるときに貴重な存在」(尾高修也著『近代文学以後―「内向の世代」から見た村上春樹』)「週刊読書人」2011年11月11日号)

 村上春樹の読者や研究者・批評家は、作家の同世代かそれ以下の年齢の人に限定されているのではないか、言い方を換えれば、ここ何年か毎年ノーベル文学賞の候補として取り沙汰されてきた村上春樹の文学世界に魅了されてきた人たちは、実は村上春樹自身がそこに属する団塊の世代(全共闘世代)より下の若い世代なのではないか、という疑念を常々抱いてきた。一九四五年生まれの評者より上の世代にいくら村上春樹を薦めても、一,二作品を読んで「面白くない」という答えが返ってくることが多かったからである。本書は、そのような評者の疑念を一挙に確信に換えてくれる、これまでに類を見なかった村上春樹の文学を批判(否定)する本である。
 一九三七年生まれの著者は、一九四九年生まれの村上春樹よりちょうど一回り年長の、副題からも分かるように「内向の世代」に属する作家・評論家である。本書所収の主要な論文は、そんな著者が小説教室の講師を務める「朝日カルチャーセンター」や「池袋コミュニティ・カレッジ」などで芥川賞受賞作品をはじめとする「新しい作品」の批評を始め、その流れで若い人に圧倒的な人気を誇る村上春樹の『風の歌を聴け』(七九年)から最新の『1Q84』(〇九~一〇年)に至る主な作品を、一〇年ぐらいかけて読んだことの「感想」をまとめたものである。その村上春樹批判の真髄は、村上春樹文学が著者の考える「近代文学以後」――実は、このタイトルにもなっている「近代文学以後」という言葉の意味が、例えば柄谷行人らが言う「近代文学の終わり」と同じ意味で使っているのか、今ひとつ分からない部分もあるが、ここではどうも「内向の世代」以降の「ポストモダン」文学について言っているようなので、それに従う――を代表するものだ、というところにある。
 本書は、村上春樹の文学を論じた「『内向の世代』から見た村上春樹」「『1Q84』を読む」「読んでみた村上春樹」「村上春樹と翻訳文化」の四章と、著者の文学的立場を明らかにした「『赤頭巾ちゃん』と日比谷高校」「『内向の世代』とともに」から成るが、これらの各論で用いられる村上春樹文学批判のキーワードは、「日米混淆の無国籍的文学言語」「サブ・カルチャー」「薄い中身」「童話的ファンタジー」「アメリカ文化」「グローバリズム」「モダニズム」「文章のゆるさ」「「翻訳文化」等々、である。
 これらのキーワードは、村上春樹やよしもとばなな等に代表される「ポストモダン文学」を批判する際の用語としてよく目にするものであるが、本書の場合、例えば村上春樹文学批判の中心に据えられている「薄い中身」や「文章の緩み」などの言葉は、いずれも「実証」抜きで使われており、その意味ではこの国の近代文学批評において伝統と化している「印象批評」の域を出ない村上春樹批判、ということになる。おそらく、このような批評方法では、筆者と同世代の読者は納得させられても、村上春樹を圧倒的に支持する若い世代の読者を説得することはできないのではないか。評者は、そのように思った。
 だが、村上春樹がノーベル文学賞の候補になり、『1Q84』が大ベストセラーになるということなどがあって以来、村上春樹に対する「オマージュ(讃歌)」や及び腰の批評ばかりが目に付く昨今、臆することなく堂々と村上春樹の文学を否定(批判)する本書のような存在は、現代文学批評の在り方を考える時、何物にも換えがたく貴重である。惜しむらくは、繰り返すが、本書がもう少し「実証」的な批評であったなら、ということである。