黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

村上春樹の「エルサレム賞」について(その3)―外国の評価

2009-08-19 18:54:29 | 文学
 昨日(18日)、トルコから来日中の日本文学研究者(翻訳者でもある)と、いろいろ話をする機会があった。彼はアンカラ大学日本語・日本研究科の教師でもあるのだが、これまでに村上春樹の「ノルウエイの森」や村上龍の「コインロッカーベイビーズ」などの作品、あるいは安部公房の「砂の女」や「源氏物語」なども翻訳していて、先頃村上春樹の「海辺のカフカ」を翻訳し終わったばかりだということから、勢い話は村上春樹のノーベル文学賞受賞の可能性や先頃話題となった「エルサレム賞」受賞問題や異例のベストセラーとなっている「1Q84」について及び、そこで興味あることを聞いた。
 それは、日本で賛否両論が巻き起こった「エルサレム賞」の授賞式に村上春樹がイスラエルまで行って参加したことについて、ノーベル賞受賞のためにはどうしても通過せざるを得ない儀式だった、と欧米の文学研究者たちは受け止めているし、トルコを含むイスラム圏の人々もことの賛否は別にしてそのように考えている、ということであった。そのような彼の発言から推測されたのは、「エルサレム賞」とノーベル文学賞とが連動しているのではないか、ということになるが、調べてみると、ボルヘスやボーヴォワール、グレアム・グリーン、ミラン・クンデラ、スーザン・ソンタグ、アーサー・ミラーなどの「エルサレム賞」受賞者とノーベル文学賞受賞者とは必ずしも重なっていない。にもかかわらず、欧米(トルコを含む)の文学関係者が両賞は繋がっていると考えているのは、どういうことか。イスラエルがノーベル賞の元締めであるスエーデン・アカデミーと何らかの太いパイプを持っていると言うことなのだろうか、具体的にはよく分からない。
 それとは別に、僕は「村上春樹はイスラエル(エルサレム賞授賞式)に行くべきではなかった」という持論を彼には説明したのだが、中東問題(イスラエルとイスラムとの対立)に関して、石油を輸入しているという以外の具体的にはその「当事者」性を持ち合わせていない僕ら日本人と、日常的に中東問題を抱えざるを得ない人たちとでは、受け止め方が違うのだな、ということを実感した。彼とはこれからも付き合いが続くのではないかと思うので、機会を捉えて何度でも中東問題について意見交換しようと思っている。
 なお、それとは別に、彼から今後トルコで訳して貰いたい現代作家はどういう人がいますか、と聞かれたので、まず僕が外国人に読んで貰いたい作家として現在1番に考えている「林京子」を上げ、次いで「立松和平」、「三浦綾子」を上げ、それぞれについてその文学的特徴を説明した。どこまで実現するかどうか分からないが、長崎で被爆した林さんの作品や戦後の文学史において重要な意味を持つ「遠雷」を書いた立松和平の作品がトルコで読まれるかも知れないと思うと、実に愉快な気持になった。近いうちに翻訳刊行されることを期待しようと思う。