黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

これを機会に、原爆文学を!

2009-08-08 00:00:19 | 文学
 昨日の続きのようになるが、メディアが伝えるところに拠れば、例の「狂信的」としか思えない核武装論者の前航空幕僚長田母神俊雄が、こともあろうに「8・6ヒロシマデー」と同じ日に広島市のホテルで持論の核武装論をとうとうと語り、850人の聴衆が彼の演説に聴き入ったという。講演会の主催は、戦後も生き残った国粋主義・民族主義の信奉者達が集う「日本会議」の広島支部だという。この反核・反戦運動をあざ笑うかのような「日本を憂う」ナショナリスト達の目論見が、日本国憲法(とりわけ「前文」や第9条等々)が体現している戦後的理念を否定するところに成立しているものであることは火を見るより明らかであるが、そのような「日本会議」の目論見とは別に、北朝鮮の核武装をきっかけに国内で盛んになってきつつある核武装論がいかに危うい論理であるか、そのことについて書いておきたいと思う。
 まず、何故「核武装論」が危うい論理の上になったものであるか、といえば、それは核兵器(原水爆)をあくまでも「戦争の道具」としか見ていない、ということがある。新聞に拠れば、田母神氏の「核武装論」は、「核廃絶は絶対できない。夢物語に過ぎない。(何故なら)各国首脳も核武装して強い国になった方が国が安全になると考えている。核兵器の戦争に勝者はない。だから大きな戦争にもならない。日本も世界の中で生きるために核武装を追求すべきだ」というものであるという。保守党の政治家を初めとする大方の核武装論者も、田母神氏と同じような論理に基づいているように僕には思えるが、彼らの論理が間違っていると思う理由には二つある。
 一つは、「ニュークリア・バランス=核抑止論」は冷戦時代の産物であり、確かに東アジアにおいては「北朝鮮VS日本」という形の冷戦構造が残っているという論理も成り立つかも知れないが、「核戦争に勝者はない」ということが分かっていながら、それでも核武装を推進すべきというのは、仮想敵国からの核ミサイル発射に関して、これまで何度「誤認」があったか、またそれに基づいて核戦争の一歩手前まで何度行ったか、を歴史的に検証していないということで、核武装すれば核戦争は絶対起こらないというのは、幻想に過ぎない。これは、スリーマイル島やチェルノブイリ、あるいは日本各地で小規模ながら繰り返し原発で事故が起きているにもかかわらず、「原子力発電は安全である」という「神話」を信じているのと同じ精神構造と言える。核戦争がこれまで起こらなかったのは、ただ単に「偶然」の所産にすぎない。「やられたら、やり返せ」が戦争の本質だとするならば、兵器としての原水爆など(田母神氏のような)「狂信的」な指導者が存在した場合、いとも簡単に使用されるのではないか。核兵器が使用されたら、「ヒロシマ・ナガサキ」の何十倍も威力のある原水爆によってどれほどの被害が出るか(人類が滅亡するか)、容易に想像できる。
 もう一つの理由は、「核・原水爆」の問題は、「ヒロシマ・ナガサキ」の出来事が実証したように、文明論的・歴史的な側面からも考えなければならないことで、もし万が一にも全面核戦争が起こったら、「核の冬」現象のことを考えても、そこで私たち人類の歴史は終わり(あるいは今までのものとは異なり、大きく変質したものになる)、「猿の惑星」ではないが、営々と築き上げてきた「文明」に終止符を打つことになる。そのことについて、核武装論者達は一顧だにしていない、そこが最大の問題なのである。このような「文明論的」「歴史的」観点の欠如は、「ヒロシマ・ナガサキ」について報じたり論じたりしているマスコミ・ジャーナリズムも同じで、薄っぺらな感じを免れることができない。その意味では、マスコミが高く評価しているオバマの「核軍縮」論も同断である。
 しかし、「日本の原爆」(全15巻 83年 ほるぷ出版)のどこを繙いても理解できることだが、日本の文学者達は、戦後間もなくの原民喜(「夏の花」など)や大田洋子(「屍の街」など)を初めとして一貫して上記のような「文明論的」「歴史的」観点から「核・被爆」の問題を考えてきた。「核廃絶」を言うのなら(あるいは「核武装論」を唱えるなら)、「夏の花」や「屍の街」、あるいは井伏鱒二の「黒い雨」、小田実の「HIROSHIMA]、井上光晴の「明日―1945年8月8日・長崎」、そして林京子の「祭の場」他の作品を読んでからにして欲しい。海外にだって「ヒロシマ・ナガサキ」の出来事を真摯に受け止めた上で書かれたと思われる原爆文学(大方はSF)がある。
 「熱い夏」は良い機会だから、僕らはそれら「原爆文学」の成果を今一度じっくり考えるべきなのではないか。