圧倒的な支持(日本の麻生政権に比べて、という意味だが)を得て誕生したアメリカのオバマ政権、どのような形でアメリカを「再生」させるのか、まだ歩み始めたばかりの政権の前途について云々するのは早計だが、一つだけ「やはりアメリカ、同じ穴の狢だな」と思わせたのは、イラク戦争に派遣している軍隊は撤退するが、その分と言うか、相変わらず「テロの発信地」という位置付けでアフガニスタンには増派して「民主化」(という名のアメリカ支配)に全力を尽くすという方針を曲げなかったことである。
イラクとアフガニスタン、どこがどう違うのか、専門外の僕には分からないが、一つだけはっきりしているのは、「テロリストの温床」「テロの発信元」ということで大量の軍隊を送り、「内政」に干渉し、抵抗勢力(タリバン)はもちろん、多くの市民を殺傷している―必然的に若いアメリか兵士も殺され傷付いている―ことである。つまり、アメリカ・オバマ政権におけるアフガン増派は、「戦争」を激化することはあっても、決してテロ撲滅を実現する「最良の方法」ではないということである。せっかく、何百年も続いていた「黒人(カラード・有色人種)差別」(白人優先主義)を打破してオバマ大統領を選出したのに、第二次世界大戦後に露わとなったアメリカの「世界の警察」意識は変わらないのか?
そんな折、民主党の党首小沢一郎による「在日米軍は第7艦隊だけでいい」発言を機に、保守派から一斉に「小沢ドクトリン批判」が飛び出したが、それらの発言を聞いていて、戦後間もなくの時代から言われてきた「日本はアメリカの属国」、「日本はアメリカの51番目の州」というような考え方が保守派の政治家には染みついてしまっているのだな、と思わざるを得なかった。これでは、日本全国(とりわけ沖縄)から在日米軍基地は永久になくならないし、毎年2000億円を超える「思いやり予算」もなくならないだろうと思ったが、それ以上に、先のアメリカ・オバマ政権のアフガン増派に伴う自衛隊の派遣も「当然」のこととして受け入れることになるのだろう、と暗澹たる思いに陥った。
日米安保条約(軍事同盟)によって、世界最強の軍事力を誇るアメリカ軍と世界第6位とか第7位とか言われる自衛隊が合同でアジア全域(中近東からアラスカまで)に睨みをきかせる構造が当たり前になったのは、いつからか? 自衛隊の装備は今や核兵器だけを持っていないだけで(その核兵器だって専門家に言わせれば、半年あればいくらでも作れるという。件の専門家は、「何のために日本はプルトニュウムを備蓄しているのか」、と言っていた)、世界最強の最新兵器を備えた立派な軍隊になっている、ということを考えれば、小沢一郎が「在日米軍は第7艦隊だけでいい」と言ったというのは、リアルな政治感覚(正統的ナショナリズムと言い換えてもいい)に基づいた認識だと言えるかも知れない。
折しも国会では「本年度予算」が通過した後、「海賊対策・退治」という名目で、自衛艦をソマリア沖まで派遣するための「新法」が作られようとしている。そもそもソマリアの「海賊」が何故発生したのか、という論議抜きで、である。考えてみれば、ソマリアもアメリカの介入で「無政府状態」になってしまった国である。その「尻ぬぐい」のために、自衛艦が「日本国憲法」の「前文」や「第9条」の趣旨を無視して、はるばるアフリカ近海まで出て行く。どこまで「自衛」の範囲は広がっていくのか。シーレーン防衛からPKO、そしてイラク派兵、かつて「普通の国」構想を発表した元自民党幹事長・小沢一郎の頭の中には、自衛隊が「自立」した強力な軍隊という認識があって、先のような発言になったのではないか、と推測される。どちらにせよ、「戦争のできる国=日本」という構図の下での議論、現在の日本が「恐ろしい状態」になっているのではないか、ということの証でもある。
「100年に一度の大不況」だという。こういう状況下において軍隊が前面に出てくるというのは、「5.15」や「2.26」を経験した日本の歴史が教えるところである。今、何冊か並行して読んでいる(読み直している)小説の中に、辻井喬の野間文芸賞を受賞した「父の肖像」があるが、辻井の父・堤康次郎のことを書いたこの本にも、満州事変以後急速に台頭してきた軍部と政治家との戦いが描かれている。「民主主義」の基本は何であるか、あるいは「殺すな!」ということの意味を、もう一度僕らは真剣に考えないといけないのではないか、と思う。
イラクとアフガニスタン、どこがどう違うのか、専門外の僕には分からないが、一つだけはっきりしているのは、「テロリストの温床」「テロの発信元」ということで大量の軍隊を送り、「内政」に干渉し、抵抗勢力(タリバン)はもちろん、多くの市民を殺傷している―必然的に若いアメリか兵士も殺され傷付いている―ことである。つまり、アメリカ・オバマ政権におけるアフガン増派は、「戦争」を激化することはあっても、決してテロ撲滅を実現する「最良の方法」ではないということである。せっかく、何百年も続いていた「黒人(カラード・有色人種)差別」(白人優先主義)を打破してオバマ大統領を選出したのに、第二次世界大戦後に露わとなったアメリカの「世界の警察」意識は変わらないのか?
そんな折、民主党の党首小沢一郎による「在日米軍は第7艦隊だけでいい」発言を機に、保守派から一斉に「小沢ドクトリン批判」が飛び出したが、それらの発言を聞いていて、戦後間もなくの時代から言われてきた「日本はアメリカの属国」、「日本はアメリカの51番目の州」というような考え方が保守派の政治家には染みついてしまっているのだな、と思わざるを得なかった。これでは、日本全国(とりわけ沖縄)から在日米軍基地は永久になくならないし、毎年2000億円を超える「思いやり予算」もなくならないだろうと思ったが、それ以上に、先のアメリカ・オバマ政権のアフガン増派に伴う自衛隊の派遣も「当然」のこととして受け入れることになるのだろう、と暗澹たる思いに陥った。
日米安保条約(軍事同盟)によって、世界最強の軍事力を誇るアメリカ軍と世界第6位とか第7位とか言われる自衛隊が合同でアジア全域(中近東からアラスカまで)に睨みをきかせる構造が当たり前になったのは、いつからか? 自衛隊の装備は今や核兵器だけを持っていないだけで(その核兵器だって専門家に言わせれば、半年あればいくらでも作れるという。件の専門家は、「何のために日本はプルトニュウムを備蓄しているのか」、と言っていた)、世界最強の最新兵器を備えた立派な軍隊になっている、ということを考えれば、小沢一郎が「在日米軍は第7艦隊だけでいい」と言ったというのは、リアルな政治感覚(正統的ナショナリズムと言い換えてもいい)に基づいた認識だと言えるかも知れない。
折しも国会では「本年度予算」が通過した後、「海賊対策・退治」という名目で、自衛艦をソマリア沖まで派遣するための「新法」が作られようとしている。そもそもソマリアの「海賊」が何故発生したのか、という論議抜きで、である。考えてみれば、ソマリアもアメリカの介入で「無政府状態」になってしまった国である。その「尻ぬぐい」のために、自衛艦が「日本国憲法」の「前文」や「第9条」の趣旨を無視して、はるばるアフリカ近海まで出て行く。どこまで「自衛」の範囲は広がっていくのか。シーレーン防衛からPKO、そしてイラク派兵、かつて「普通の国」構想を発表した元自民党幹事長・小沢一郎の頭の中には、自衛隊が「自立」した強力な軍隊という認識があって、先のような発言になったのではないか、と推測される。どちらにせよ、「戦争のできる国=日本」という構図の下での議論、現在の日本が「恐ろしい状態」になっているのではないか、ということの証でもある。
「100年に一度の大不況」だという。こういう状況下において軍隊が前面に出てくるというのは、「5.15」や「2.26」を経験した日本の歴史が教えるところである。今、何冊か並行して読んでいる(読み直している)小説の中に、辻井喬の野間文芸賞を受賞した「父の肖像」があるが、辻井の父・堤康次郎のことを書いたこの本にも、満州事変以後急速に台頭してきた軍部と政治家との戦いが描かれている。「民主主義」の基本は何であるか、あるいは「殺すな!」ということの意味を、もう一度僕らは真剣に考えないといけないのではないか、と思う。