黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

殺人的な10日間が過ぎて

2009-02-03 05:36:22 | 仕事
 ここ10日間ほど、他の大学もこの時期は同じなのかも知れないが、筑波大学の私が所属する研究科(大学院)は例年通り、否例年を遙かに増した「殺人的」と言っていい忙しさの中にあった。大学院修士生の発表会(当然、修士論文は読了しなければならない。今年は1人だったが、長さは270枚ほどであった)、3日後の卒論発表会(6人のゼミ生は、平均196枚の卒論を書いた。他に副査として2人分の卒論を審査)、それぞれ1人に付き2枚ほどの「講評」を書くという作業があり、その他、会議が5つ、さらに加えて大学院入試の面接官、最後にこれは来週に備えてということになるが、スケジュールの都合で博士論文審査会のために論文を読まなければならなかった、からである。もちろん、この間、3学期制の筑波大学で授業やゼミは通常通り行われており、それらが休みだったわけにはではない。
 そんなわけで、ともかく忙しかった。この忙しさが今年だけのものならいいのだが、理系分野を中心に「生産性」とか「効率性」とかを求め始めた昨今の大学事情を鑑みると、かつてのように「研究」と「教育」に専念していればいいという状況は、当分は望むべくもなく、同僚との束の間の話にも「忙しくなったね」というのが決まり文句みたいに差し挟まれるのが実情である。これでは、教師も学生も「視野狭窄」を起こし、結果的に「学問・研究」(特に、長期的な積み重ねが要求される文系では)が遅滞するのではないかと思うが、果たしてどうだろうか。
 そんな大学の現状を反映してか、この超多忙な時期を迎える1週間ほど前のことになるが、ある授業の課題で現代文学作品のテーマを見つけ、その理由を5,6行書いて提出せよ、としたところ、何と30人ほどの受講生のうち半数近くがほぼ同じ内容のテーマとその理由を書いて提出したということがあって、その理由を考えたのだが、彼ら・彼女らが話し合って(課題の答えを見せ合って)ということなどではなく、どうもネット上に流れている「情報」に依拠した結果だということが判明した(僕自身が確認したが、ほぼそうだな、と結論づけた)。授業でそのことを「責める」口調でなく、問い質したところ、悪びれることなく「情報源」はネットであると答えたので、僕の推測は当たっていたわけだが、自分一個の「思考」に頼るのではなく、いかに「情報源」を見つけ、その情報を処理するか、それも今時の学生には「能力」の一つと思われているのかも知れないが(現に「そうだ」と思っている大学教師たちがいることも承知している)、あの小泉郵政改革の時に露頭した「洗脳」とか「ファシズム」的風潮、及びその結果が現在にまで影響を残している「政治」状況のことを考えると、薄ら寒い気がしてならない。
 文学研究(批評)の世界においても、まず自分の頭と心で(思想と感覚を動員して)作品を読むという行為があるはずなのに、作品と正対する前に、いかにその作品に関する「情報」を集め(知り)、その上で自分の「読み=鑑賞」とは関係なくその作品の価値を手際よく提出することができるか、に専念するような風潮が最近は目立つような気がしてならない。まず「読む」という行為から出発せず、何よりもいかに「情報」を集めるか、から始まる文学研究(批評)というのは、「人間の生き方と関わる」という文学の存在理由を危うくするのではないかと思うが、どうだろうか。(これを書くと、また総攻撃されそうだが、僕がこの欄で作品評などを書くと、すかさずその作品についての自分の批評を対置するのではなく、その方法や言葉尻などを捉えて批判する輩の在り方と、この「情報」に頼る風潮は深い関係があるのかも知れない)
 なお、「東京新聞」の文芸時評を担当している沼野充義が、今月号の時評で昔サルトルが提起した「飢えた子供の前で文学は有効か」という文学に関わる永遠のアポリアと共にイスラエルのガザ侵攻について述べ、そして青山七恵の新作について揺れ動く若い女性の心を良く捉えた「佳品」と認めながら、「ガザで起こっている出来事からは遠い」といった趣旨のことを言っていたが、我が意を得たりという思いがした。
 そして、今日からはルーティンワークに入る予定です。