黒古一夫BLOG

文学と徒然なる日常を綴ったBLOG

この閉塞感は、何?

2009-02-07 05:50:47 | 近況
 自民党を離党した渡辺嘉美ではないが、この社会に充満している「閉塞感」は何なんだ、と思う日々が続いている。この閉塞感は、様々なメディアが伝えるのと同じように、国民の大半から見捨てられていながら「権力」にしがみついている政治指導者の在り方に、その直接的な原因のほとんどがあるのだと思うが、さらにそのような現今の政治状況下にあって、この閉塞感をもたらす本質的な原因は何であるのか、というようなことを考えると、結局資本主義体制を越えた(あるいは、資本主義体制をできうる限り良い方向に改良した)社会の仕組み=体制を誰もが提示できず、「未来の展望」を描けないことにあるのではないか、と思わざるを得ない。
 粗っぽい言い方になるが、かつてマルクスは資本主義体制の先に「各人が各人の労働や働きに応じた対価を得、飢える者が一人も存在せず、支配-被支配の関係も消滅した社会」、つまり共産主義(社会主義)体制を構想し、その思想の実現を目指してロシアで「革命」が起こり、以後続々と社会主義国家が誕生したが、1980年代後半から始まった社会主義国の「民主化」運動によって社会主義諸国の盟主であったソ連が解体し、70年余り続いた「バラ色の国」建設構想も瓦解し、以後どんな「未来」への展望も示されないまま、現在に至っている。
 現在、巷では「革命」を目指した小林多喜二の「蟹工船」がブームとなり、カストロと共にキューバ革命を実現したチェ・ゲバラがその半生を描いた映画がきっかけになったのか、人気だという。しかし「蟹工船」ブームもチェ・ゲバラ人気も、僕には格差社会の片隅に咲いた徒花なのではないか、としか思えない。感受性が鈍くなったからではないと思うが、これらの「徒花」的現象はどう考えても、「革命」(現体制を打倒・否定し、次なる体制を模索・展望する、という意味の)への道を予感させないからに他ならない。ブームだからという理由で「蟹工船」は読んだが、そこから「革命」へと繋がる思考など全く感じられない学生達の姿を日常的に見ていると、余計そのように思えてならない。誰かが「今の若者から<怒り>が感じられない」と言っていたが、たぶん今の若者(学生)達だってこの現状を見れば「怒り」を感じているはずだと思うのだが、その「怒り」が権力や体制の指導者達へと向かわず内攻してしまえば、「革命」など夢のまた夢ということになるだろう。内攻した「怒り」は、自損、あるいは身近な他者(家族、など)への攻撃という形で顕在化する。余談になるが、昨今珍しくなくなった「親殺し・子殺し」も、そのような「内攻する怒り」という側面から考えることができるのではないか。
 また、「未来」へのビジョンが描けなくなった(資本制社会の)現在、ということで思い出すのが、アメリカ発の「金融危機」=ブッシュの退陣が象徴する「新自由主義」(ネオコン=新保守主義)の敗退という事実に絡んで、かつて吉本隆明(若い人たちには「よしもとばなな」の父親と言った方が分かりやすいか?)が、バブル経済期にそれが「バブル」と気付かなかったからなのか未だに不明だが、「現在の資本主義は、超資本主義というような状態にあり、近い将来、普通のOLが何十万もするようなコートで身を包むことができ、労働時間も短縮され、週休3日になり、多くの労働者が余暇を楽しむような社会になるだろう」、と言っていたことである。現在の「大不況」やそれに伴う「派遣切り」やリストラの横行を知れば、吉本の「予想」が大ハズレであったことは誰も否定できないと思うが(吉本も、自分の予想が外れたことを自己批判していないようで、この「思想家」の在り方は今後検討されるに価するだろう)、それとは別に、吉本の「外れた予想・未来展望」は、まさに資本主義にも「希望」がない、と証明したことになった。
 右を見ても左を見ても「お先真っ暗」という状態に今はあるが、果たして僕らに「未来」はあるのか? そのことを思うと何とも遣り切れない気持ちに襲われるが、ともかく足元(自分の生、あるいは生活)を見据えて、おのれが信じる(考える)道を一歩一歩歩いていくしかないのかも知れない。そうすれば、甘い「夢」かも知れないが、同じような歩みをしている人(たち)にどこかで出会い、共に手を携えて「共生社会」を建設するといった展望も開けてくるのではないか。今は、そのような「ささやかな希」を胸に抱いて生きるしかないというのも、何とも悲しいが、そうでもしなければ押しつぶされてしまうかも知れない。
 1週間前、職人として最高の栄誉を得た高校時代の友人の訃報を聞いた。確かめる術はないのだが、「自殺」だったという。昨年暮れに元気な姿を見せてくれ、事業も順調だと言っていたのだが、彼に何が起こったのか? 彼の自裁もまたこの社会を覆う「閉塞感」と何らかの関係があるとしたら、「老い」にさしかかった僕らは、危険水域にある世代、と言っていいかも知れない。