日本史学習拾遺

日本史よもやま話、授業の補足、学習方法

ジャガタラお春

2012-10-10 05:39:56 | 江戸時代
授業では、江戸時代の鎖国の話に入ってきています。江戸初期には、日本から東南アジア方面へ貿易船がさかんに行き来し、現地に住みつくような日本人の移民も多くなり、日本町が形成されました。
授業であまり触れることができない話題について少し補足的に書いておきます。

フィリピンのマニラに移住した日本人について、17世紀のはじめにフィリピンの副総督であったアントニオ・モルガが、このように述べています。

「日本人は気概ある人民であって、その性質は佳良で勇敢である。・・・腰には大小の刀をおび、ひげはすくなく、風采・挙動が高尚な国民である。またかれらは儀式と礼節をとうとび、名誉と秩序をおもんじ、困苦欠乏にのぞんでも果断である。」

これは、当時の農民や商人出身の移民の性格ではなく、関ヶ原の戦いや大坂の役、その後も大名の改易で発生した牢人(浪人)が商人に転向した者で現地に移住した人々の品性を伝えたものであろうと考えられています。日本人を随分立派な人間と見てくれていたのですね。

当時、インドネシアのジャカルタは、ジャガタラとかバタビアと呼ばれていました。鎖国によって、在留外国人に対する目が厳しくなり、日本で生まれた混血児にはジャガタラに追放される者が多くありました。その中に、「ジャガタラお春」とよばれる女性もいました。追放当時15歳。21歳で平戸生まれのシモンセンと結婚し、7人の子供が生まれましたが、最後には6人に先立たれ、1人の娘と3人の孫だけが残ったそうです。追放されて約60年、鎖国のために日本に帰国することができずにジャガタラで亡くなりました。お春の遺言状が残されていますが、同様に、故郷に帰れずにこの南国でつぎつぎに死んで行った日本人の遺言状は、他にもたくさん残っているということです。
(以上 岩生成一『日本の歴史14 鎖国』中公文庫 を参照)

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