やはり師走・平日の更新は無理でした。もう少しで冬休みですから、ここでたまっているものをガンガンアップしていきたいと思います。
11月16日の纏向学研究センター東京フォーラムの続きです。今日は、鼎談「邪馬台国東遷説を考える」から私自身の整理のために必要と思う所をピックアップして紹介します。
鼎談は、元國學院大學教授 柳田康雄さん、日本考古学協会会員で俳優の苅谷俊介さん、桜井市纏向学研究センター所長の寺沢薫さんの3人で行われました。寺沢さんは、このディスカッションのコーディネーターという立場で、ご自身の意見はほとんどおっしゃいませんでした。私は寺沢さんの本を読んでいて、ナマでお話が聴けるのならとこのフォーラムにも応募したのですが、とても弁舌さわやかな紳士でいらっしゃいました。
「東遷」というタイトルについて、以前も書いたように首をかしげつつの参加であったのですが、これは、前回から書いている考古学界の古き重鎮・功労者である柳田さん(九州出身)のためにそのような取り上げ方をしたのかなと思いました。
この鼎談は、簡単に言うと、邪馬台国は九州からの勢力が大和に東遷して成立したという柳田さんVS九州からではない(キビからである)という苅谷さん、という構図でした。
この頃、考古学の分野の方が書いたものをよく読むのですが、大塚初重さんとか、白石太一郎さんとか、森浩一さんとか・・・そうすると、考古学の方々は、無邪気で、ロマンチックな、子どものような心を持った人が多いのかなという印象を持つのです。私は大学では文献史学の方でしたので、とにかく論理的で(文献を扱う上で)実証的で緻密な文章を書く先生ばかりの本を読んできました。そういう世界とだいぶ違うなという気がします。
それから、考古学は発掘調査をしますから、体力もあって活動的な方々なのだろうと思います。文献史学は、最近生徒に教えてもらった言葉で、インキャラ(陰キャラ)な人が多いのかも???現に、私の恩師だって(文献史学は)「家でゴロゴロしながらでも考えられる」と言ってましたから。
考古学の方々は、思い込みも強いような印象を受けます。思い込みという言葉が悪ければ、思い入れでもいいですが。
そういう主張の強さも必要な時もあるとは思いますし、私も自分で勉強をしていく上ではそういうものが足りない方なので、考古学の方々の姿勢も見習い、少しは取り入れた方がいいのかなとも思います。
柳田さんは御年71歳、九州男児とお見受けしますが、子どものような純粋さで、邪馬台国のルーツは九州・伊都国にあるということ、そして、ご自身がたくさん発見した鏡の重要性を主張していらっしゃいました。
鼎談の具体的な内容の紹介に入りたいと思いますが、もう、現在では、邪馬台国が九州かヤマトかという議論は古いのだそうです。ヤマト(畿内)にあったということで大体一致しているとのことで、ここでは、ヤマトに存在した邪馬台国の中心勢力は、どこから来たのかというのが焦点でした。
私自身は、今の学校では日本史A(近現代)しかやっていないので、ここ2年、古代は教えていないのですが、2年前までの授業では邪馬台国は九州じゃないかと思う、と話していました。実は、当時は、邪馬台国がどこにあったって興味ない、という態度でした・・・すみません。当時は、文字の使われていない時代のことは興味がなかったのです。私が興味なければ、生徒は輪をかけて邪馬台国がどこにあろうが興味がない感じ・・・すみません。私が悪いんです。あまり邪馬台国や卑弥呼の話をしても盛り上がりませんでした。
自分がなぜ九州と思うのかについては、もしヤマト(畿内)だとしたら、卑弥呼も天皇家の系譜につらなることになると思われるが、そうは思えないからです。そうだとしたら、もっと『記紀』でもそのように書かれるはずですが、そうなっていないですから。
しかし、今では、その点についても別の考え方をするようになり、九州ではなくてヤマト(畿内)なのかなと思うようになりました。そういう、自分の話はまた別の機会にしましょう。いずれにせよ、授業で九州だと言ったけれども、鵜呑みにしないで、当時の生徒の皆さんは、自分で探求してくれたらな・・・と願っています。
あとは、今まで九州だと言われてきたのに、そうでなくなってしまうと、九州の人達がかわいそうだ・・・というのも九州に肩入れしていた理由の一部でもあります。
しかし、纏向遺跡の発掘調査が進んだり、箸墓古墳がクローズアップされたりして、大和説が動かしがたいものになってきました。
そういう中での、柳田さん苅谷さんのバトル?だったわけですが。寺沢さんは、その中間くらいの考えだそうでしたが、苅谷さんも寺沢さんも、キビ(吉備)の勢力が邪馬台国成立に大きく関わっていると考えているようです。
以下、正しいかどうかは別として、私のメモとしても記録しておきます。
「東遷」というよりは「東漸」である。戦争があったというよりは、自然な流れとして(九州から東へと)広がっていくイメージ、北部九州人が青銅器を携えて東に進んだ(柳田)
ひすいは縄文時代は東日本にあったが、弥生時代になると北部九州に集中する。これは日本海に北部九州人が取りに行ったのだ 古墳時代は全国にひすいが広がる(柳田)
前方後円墳の中身を見れば出自がわかるのではないか(パンフレットp.29の表)
鏡・玉・剣の三種の副葬は九州
九州とキビの要素が強いと考える (キビの要素は特殊器台・壺、弧帯文様、墳丘の葺石など)
(以上寺沢)
↑パンフレットp.29です。 「前方後円墳諸属性の系譜と変遷」(寺沢1984)
九州は鏡玉剣を重視するが、キビにはない。別々に葬送儀礼を行っていた(苅谷)
鏡を尊重した政治体制が古墳時代につながる(柳田)
瀬戸内海の制海権をキビが握った。キビが九州の鏡をよこせという発言権を得た(苅谷)
ここで、寺沢さんが、
「倭国乱れ・・・一女子を立てた」というのをわかりやすく言うと?」
と投げかけました。
キビ系のものが纏向には多い。卑弥呼擁立にはキビの力があった(苅谷)
魏志倭人伝の「その国」は倭であって邪馬台国ではない(柳田)
さらに寺沢さんが
「卑弥呼はどこの人?」
「伊都国の血縁の人」(柳田)
「キビの楯築墳丘墓に葬られた被葬者がヒミコのお母さんにあたるくらいの人」(苅谷)
「倭王の筆頭はキビだ」(苅谷)
柳田さんと苅谷さんの壇上でのバトルもやや熱を帯びたところで、寺沢さんが、
「キビと伊都国がなければ邪馬台国は生まれなかった、『倭国乱れる』がこの壇上に現出している」
と言って会場を笑わせました。
寺沢さんは、三人とも大和説であることには違いなく、出自についてはいろいろな考え方がある。纏向がどうしてできたのかに集中していく必要がある。前方後円墳に象徴される新しいヤマト王権は、各地の要素が統合されてできたのではないか、と、寺沢さん自身の言葉はこうではなかったかもしれませんが、そんな趣旨のことを言っていました。要するに、前方後円墳には、九州の要素、キビの要素などが入っている。全部合わせて新しいものを作ったのではないかということです。
大体鼎談の内容は以上ですが、キビの影響を重視しているのが新鮮でした。今の学界の情勢はそうなってきているのだろうか?そして、出雲びいきの私は、出雲の四隅突出型墳丘墓だってあるし、出雲の影響もあるはずだ・・・と考えます。箸墓古墳と同じく、出雲の四隅突出型墳丘墓でも、吉備の特殊器台が発見されています。その特殊器台があるということをどう考えるかです。
吉備を重視すると、瀬戸内海の海運が中心になりますが、私は弥生時代も早い時期は、日本海側から入ってくるルートが重要だと考えます。日本海側は大陸に面していますしね。
ともあれ、このフォーラムを踏まえて、吉備の影響というものを念頭に置きつつ、私も自分なりに纏向遺跡や箸墓古墳について考えていきたいと思いました。
岡山は桃の産地だし、纏向遺跡で大量の桃の種が出たっていうのも単純に気になりますよね(笑)
では今日はこのへんで。
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11月16日の纏向学研究センター東京フォーラムの続きです。今日は、鼎談「邪馬台国東遷説を考える」から私自身の整理のために必要と思う所をピックアップして紹介します。
鼎談は、元國學院大學教授 柳田康雄さん、日本考古学協会会員で俳優の苅谷俊介さん、桜井市纏向学研究センター所長の寺沢薫さんの3人で行われました。寺沢さんは、このディスカッションのコーディネーターという立場で、ご自身の意見はほとんどおっしゃいませんでした。私は寺沢さんの本を読んでいて、ナマでお話が聴けるのならとこのフォーラムにも応募したのですが、とても弁舌さわやかな紳士でいらっしゃいました。
「東遷」というタイトルについて、以前も書いたように首をかしげつつの参加であったのですが、これは、前回から書いている考古学界の古き重鎮・功労者である柳田さん(九州出身)のためにそのような取り上げ方をしたのかなと思いました。
この鼎談は、簡単に言うと、邪馬台国は九州からの勢力が大和に東遷して成立したという柳田さんVS九州からではない(キビからである)という苅谷さん、という構図でした。
この頃、考古学の分野の方が書いたものをよく読むのですが、大塚初重さんとか、白石太一郎さんとか、森浩一さんとか・・・そうすると、考古学の方々は、無邪気で、ロマンチックな、子どものような心を持った人が多いのかなという印象を持つのです。私は大学では文献史学の方でしたので、とにかく論理的で(文献を扱う上で)実証的で緻密な文章を書く先生ばかりの本を読んできました。そういう世界とだいぶ違うなという気がします。
それから、考古学は発掘調査をしますから、体力もあって活動的な方々なのだろうと思います。文献史学は、最近生徒に教えてもらった言葉で、インキャラ(陰キャラ)な人が多いのかも???現に、私の恩師だって(文献史学は)「家でゴロゴロしながらでも考えられる」と言ってましたから。
考古学の方々は、思い込みも強いような印象を受けます。思い込みという言葉が悪ければ、思い入れでもいいですが。
そういう主張の強さも必要な時もあるとは思いますし、私も自分で勉強をしていく上ではそういうものが足りない方なので、考古学の方々の姿勢も見習い、少しは取り入れた方がいいのかなとも思います。
柳田さんは御年71歳、九州男児とお見受けしますが、子どものような純粋さで、邪馬台国のルーツは九州・伊都国にあるということ、そして、ご自身がたくさん発見した鏡の重要性を主張していらっしゃいました。
鼎談の具体的な内容の紹介に入りたいと思いますが、もう、現在では、邪馬台国が九州かヤマトかという議論は古いのだそうです。ヤマト(畿内)にあったということで大体一致しているとのことで、ここでは、ヤマトに存在した邪馬台国の中心勢力は、どこから来たのかというのが焦点でした。
私自身は、今の学校では日本史A(近現代)しかやっていないので、ここ2年、古代は教えていないのですが、2年前までの授業では邪馬台国は九州じゃないかと思う、と話していました。実は、当時は、邪馬台国がどこにあったって興味ない、という態度でした・・・すみません。当時は、文字の使われていない時代のことは興味がなかったのです。私が興味なければ、生徒は輪をかけて邪馬台国がどこにあろうが興味がない感じ・・・すみません。私が悪いんです。あまり邪馬台国や卑弥呼の話をしても盛り上がりませんでした。
自分がなぜ九州と思うのかについては、もしヤマト(畿内)だとしたら、卑弥呼も天皇家の系譜につらなることになると思われるが、そうは思えないからです。そうだとしたら、もっと『記紀』でもそのように書かれるはずですが、そうなっていないですから。
しかし、今では、その点についても別の考え方をするようになり、九州ではなくてヤマト(畿内)なのかなと思うようになりました。そういう、自分の話はまた別の機会にしましょう。いずれにせよ、授業で九州だと言ったけれども、鵜呑みにしないで、当時の生徒の皆さんは、自分で探求してくれたらな・・・と願っています。
あとは、今まで九州だと言われてきたのに、そうでなくなってしまうと、九州の人達がかわいそうだ・・・というのも九州に肩入れしていた理由の一部でもあります。
しかし、纏向遺跡の発掘調査が進んだり、箸墓古墳がクローズアップされたりして、大和説が動かしがたいものになってきました。
そういう中での、柳田さん苅谷さんのバトル?だったわけですが。寺沢さんは、その中間くらいの考えだそうでしたが、苅谷さんも寺沢さんも、キビ(吉備)の勢力が邪馬台国成立に大きく関わっていると考えているようです。
以下、正しいかどうかは別として、私のメモとしても記録しておきます。
「東遷」というよりは「東漸」である。戦争があったというよりは、自然な流れとして(九州から東へと)広がっていくイメージ、北部九州人が青銅器を携えて東に進んだ(柳田)
ひすいは縄文時代は東日本にあったが、弥生時代になると北部九州に集中する。これは日本海に北部九州人が取りに行ったのだ 古墳時代は全国にひすいが広がる(柳田)
前方後円墳の中身を見れば出自がわかるのではないか(パンフレットp.29の表)
鏡・玉・剣の三種の副葬は九州
九州とキビの要素が強いと考える (キビの要素は特殊器台・壺、弧帯文様、墳丘の葺石など)
(以上寺沢)
↑パンフレットp.29です。 「前方後円墳諸属性の系譜と変遷」(寺沢1984)
九州は鏡玉剣を重視するが、キビにはない。別々に葬送儀礼を行っていた(苅谷)
鏡を尊重した政治体制が古墳時代につながる(柳田)
瀬戸内海の制海権をキビが握った。キビが九州の鏡をよこせという発言権を得た(苅谷)
ここで、寺沢さんが、
「倭国乱れ・・・一女子を立てた」というのをわかりやすく言うと?」
と投げかけました。
キビ系のものが纏向には多い。卑弥呼擁立にはキビの力があった(苅谷)
魏志倭人伝の「その国」は倭であって邪馬台国ではない(柳田)
さらに寺沢さんが
「卑弥呼はどこの人?」
「伊都国の血縁の人」(柳田)
「キビの楯築墳丘墓に葬られた被葬者がヒミコのお母さんにあたるくらいの人」(苅谷)
「倭王の筆頭はキビだ」(苅谷)
柳田さんと苅谷さんの壇上でのバトルもやや熱を帯びたところで、寺沢さんが、
「キビと伊都国がなければ邪馬台国は生まれなかった、『倭国乱れる』がこの壇上に現出している」
と言って会場を笑わせました。
寺沢さんは、三人とも大和説であることには違いなく、出自についてはいろいろな考え方がある。纏向がどうしてできたのかに集中していく必要がある。前方後円墳に象徴される新しいヤマト王権は、各地の要素が統合されてできたのではないか、と、寺沢さん自身の言葉はこうではなかったかもしれませんが、そんな趣旨のことを言っていました。要するに、前方後円墳には、九州の要素、キビの要素などが入っている。全部合わせて新しいものを作ったのではないかということです。
大体鼎談の内容は以上ですが、キビの影響を重視しているのが新鮮でした。今の学界の情勢はそうなってきているのだろうか?そして、出雲びいきの私は、出雲の四隅突出型墳丘墓だってあるし、出雲の影響もあるはずだ・・・と考えます。箸墓古墳と同じく、出雲の四隅突出型墳丘墓でも、吉備の特殊器台が発見されています。その特殊器台があるということをどう考えるかです。
吉備を重視すると、瀬戸内海の海運が中心になりますが、私は弥生時代も早い時期は、日本海側から入ってくるルートが重要だと考えます。日本海側は大陸に面していますしね。
ともあれ、このフォーラムを踏まえて、吉備の影響というものを念頭に置きつつ、私も自分なりに纏向遺跡や箸墓古墳について考えていきたいと思いました。
岡山は桃の産地だし、纏向遺跡で大量の桃の種が出たっていうのも単純に気になりますよね(笑)
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