チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

眠れる人の島

2006年01月18日 00時37分24秒 | 読書
エドモンド・ハミルトン『眠れる人の島』中村融編(創元文庫、05)

 『反対進化』に引き続く中村融編日本オリジナル短編集である。前掲書がSF編なら、本書は幻想怪奇編ということになる。
 いずれにしても編者の 「キャプテン・フューチャーだけがハミルトンではないんだよ、それは大間違いだよ」という強い信念がひしひしと伝わってきて、「なるほど、ハミルトンはキャプテン・フューチャーだけではないんだ!」と深く頷いてしまう。「むしろこっちが本領なんだよな」ということが自然に納得できる。そういう編者のセレクションが効いた傑作集である。

 とにかく面白い。面白いだけでなく、いろんなタイプの作品が収録されていて、ハミルトンの作風の幅の広さに驚かされる。

 今回特に感心したのが、描写の映像喚起力のすばらしいこと。必要最小限の描写なのに、ありありと解像度の高いイメージが目の前に浮かんでくる。必然的にその作物は、良くも悪くも、というより否応なく「映画的」とならざるをえず、そのことは本書の全ての作品によって検証されるだろう。

 その点、キャプテン・フューチャー作品にはかかる技倆の冴えが充分には発揮されていないように思う。というかスペオペの描写にクリアな解像度はあまり必要ないのだろう。キャプテン・フューチャーしか知らなかった読者は、とりわけこの辺を吟味されたい。(*以下、収録作品は全てウィアードテールズ誌に初出、タイトル横の括弧の数字は掲載年)

 「蛇の女神」(48)は典型的メリット譚。ヒロイック・ファンタシーではなく、まさにメリット的な善悪二元論的世界設定に主人公が巻き込まれていくタイプの物語である。アウターリミッツのような映像が浮かんでくる逸品。
 原題はserpent princessなので邦題は間違いではないのだが、ヘビといってもsnakeではなく、ここに描かれるのはウミヘビなので、私は「海蛇姫」を提案したい(>却下!)

 「眠れる人の島」(38)はホジスン風海洋幻想譚。上掲作品と違ってSF的アイデアがあり、私は辛うじて数行手前で気がついた。
 このオチは、ある意味ヴォークト的といえるものなのだが(たとえば非Aは48年なので前後関係的にはヴォークト的というのはおかしいかもしれない。しかしわたし的にはこういうのはヴォークト的と認識されてしまう)、しかしながら、ヴォークトなら「眠れる人は目を覚ました」でプツンと断ち切って終わるに違いない。そういう意味では、その後の記述は蛇足ともいえるが、逆に(説明的という意味で)SF的ともいえる。私はヴォークト的が好み。

 ところで、思いついたのだけれど第3の結末がありえるのではないか。それは[ 目を覚ます→消える→目を覚ます ]というもので、最後の「目を覚ます」場所は、浜辺の漂着した船の中とする。つまり無限ループするというものなのだが……ダメ? しつれいしました!

 「神々の黄昏」(48)は、タイトルで判るように北欧神話をベースに展開するヒロイック・ファンタシー。
 ただし北欧神話世界を、この世界と重なって存在する平行世界(≠分岐世界)に設定してたところがミソ。しかもその異世界がなぜこの世界の神話に混入したかもうまく説明できている。

 ストーリーは「行って帰ってくる(また行く)」というハミルトンストーリーのいつもの基本型(ただし「来て戻って帰ってくる」という風に変形複雑化がなされてはいる)で、安心して楽しめる。北欧神話異次元世界の風景描写が実に魅力的で素晴らしい。

 「邪眼の家」(36)は、いわゆるゴーストハンターもので、まるでハマー・プロの映画を観ているような感じ。一気に読んでしまった。
 ホームズとワトスンを踏襲するデール博士と助手のオウエンが、悪なる存在と契約して「邪眼」を手に入れた男(ピーター・ミオーネ)に挑むのだが、わたし的には同種のカーナッキやジョン・サイレンスもののそれよりずっと面白かった。

 とはいえその面白さは上述のように良くも悪くも映画的なのであって、後で思い返せば、ラストのミオーネが「邪眼」を放棄する場面は、ただ「取り消す」と叫ぶだけというのは、契約の破棄にしてはあまりにご都合主義で呆気なさ過ぎるし、邪眼という超自然的なものに対するデールの武器もまた、超自然的なのはSF読みとしてはいささか物足りない気がしたのだけど、読んでいる最中は全然気にならなかった。

 20世紀初頭のマサチューセッツ州トーリストンの町並みの描写がいかにも怪奇探偵小説らしい味を出していて、実によかった。余談だが、ハマー・プロで映画化するならば、やはりピーター・ミオーネはクリストファー・リー、デール博士はピーター・カッシングだな(原作の描写とはちょっと違うけど)。
 
  「生命の湖」(37)は、170pの中長篇(ノヴェラ)。あとがきに「メリット流秘境冒険譚」とあるが、「ハガード流」という方がふさわしいのではないだろうか? いやこれは巻措く能わずの面白小説であった。

 ――アフリカは仏領コンゴの奥地に、死の山脈と呼ばれる峻険な環状山脈があるという。その内側盆地に、光る水を湛えた<生命の湖>があり、その水は飲むと永遠の生命を得られると、現地の民は信じている。
 ただその山脈は魔法がかけられており、足をかけただけでその者に死が訪れる。よしんば山脈を越えることができて湖に到達したとしても、そこには恐ろしい<守護者>がいて湖を守っている――らしい。
 探検家の主人公は、死に瀕して生に執着するアメリカ有数の金持ちに雇われ、他の4名のはみ出し者を率いて永遠の生命の水を求めて死の山脈をめざす。……

 というわけで、まさにハガード「ソロモンの洞窟」の向うを張ったような秘境冒険小説なのだ。ただ違うのは、本作がある意味「チーム小説」でもある点だろう。そのチーム小説という点でいえば、本書は、実に山田正紀を彷彿とさせるところがある。

 とりわけ出だし、彼らの船がフランス軍艦に発見され追跡されるシーンから、環状山脈へ流れ込む川を筏で急流くだりしていくシーンまで、息を継がせぬアクションが連続するのだが、とりわけここで私は「あ、山田正紀だ!」と思った。主人公を中心にそれぞれの特技を生かして、いわば分業的にミッションを進めていくところはそっくり。
 それと同時に、このシーンはいかにも映画のプロローグ的な見せ場になっていて、まさにつかみばっちりな開幕部分となっている。

 山脈の内側に到達してからは、2部族の抗争に巻き込まれたり、「プリンセス」と相思相愛になったりと、この辺はバロウズ的お約束どおりに進行していくのだが、終盤、メンバーがひとり、またひとりと斃れていく筋立ては、また山田正紀的なストーリー展開に復帰するものだ。

 ラストに展開される「不死(永遠)こそ業苦」という一種東洋思想的ニヒリズムは、ハミルトンのスペースオペラにおいても時折見られるものなのだが、一般的なアメリカン大衆小説には類例がないのではないだろうか。
 たとえばバロウズならば「不死」は肯定されこそすれ、ネガティブに捉える視点はありえないように思う。これはあるいは、ハミルトンの体内に流れる(我々日本人とも繋がっているらしい)ネイティブ・アメリカンの血のしからしめるものなのかも知れないと、いま思いついた(汗)

 ともあれ、本篇もまた、映画そのものといってよいフレームで作られており、いうなれば文字で刻まれた映画といって過言ではないだろう。それは一に著者のすぐれて映像的な描写力の賜物なのであって、わずか数語で、著者の技倆は読者の裡にありありとした映像を喚起する。一から十まで蜿蜒と描写したところで(最近の作家の悪弊である)、だからといってクリアなイメージが読者に伝わるとは限らないことを、ハミルトンは身をもって証明している。

 さてこの作品、私ならばどんなキャスティングにするだろう。主人公はやはりインディジョーンズのハリソン・フォード? いやいやこの映画は、わたし的にはもっと古いイメージ。しかしチャールトン・ヘストンではごつすぎてこの主人公のイメージではないのだよなあ。グレゴリー・ペックではどうだろうか(^^;
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悪役レスラーは笑う

2006年01月17日 21時05分58秒 | 読書
森達也『悪役レスラーは笑う 「卑劣なジャップ」グレート東郷(岩波新書、05)

 子供の頃は、年齢が1才違うだけで、その見る「世界」がずいぶん違ってしまうものだ。
 56年生まれの著者は「グレート東郷」をリアルタイムでは観ていないそうだ。が、55年生まれで一歳年上の私はよく覚えている。
 まあ祖父がプロレス大好きだったので、そういう特殊な事情もあるかも知れない。世紀の力道山vsデストロイヤーの対決も祖父は眠っていた私を起こして見せてくれた記憶がある。

 といっても「グレート東郷」、今となってみれば大方は忘却の霧のかなたで、実際のところはその風貌と頭突きをほんの痕跡程度に覚えているに過ぎないのだが、私はけっこうこの「グレート東郷」が好きだったように思う。
 ずんぐりむっくり体型で技といったら頭突きだけ、いわばカッコよさの対極に位置する選手だった。ところが、そこがどうも私好みだったようだ。というか子供は(本場米国での暴れっぷりは知らないから)こういうちょっと滑稽味がある選手が好きなものなんだろう。

 それはさておき、この謎に満ちたプロレスラー「グレート東郷」とは一体誰だったのか、が本書のテーマ。
 で、著者が調べれば調べるほどに、彼の人物像は矛盾し拡散しぼやけていくのだ。
 ここが本書の面白いところだと私は思う。
 わたしは、この矛盾全てが事実なんだろうと思う。すべてを併せ持って「グレート東郷」なんだろうと考える。

 たとえば、アメリカ修行中、同じように東郷の世話になるジャイアント馬場とグレート草津の、ふたりの東郷観が正反対なのは、どっちが間違っているというようなものではなく、合うとか合わないとかも含めて、どちらも真実だったに違いない。東郷に限らず、人間ってそういうものではないだろうか?

 本格パズラー小説における手がかり(ピース)は、結局すべて盤上にピタリとハマり、最終的に「唯一」の真相を明らかにする。ところが、同様にパズル的な構造を持つジーン・ウルフの小説の場合、その手がかり(ピース)は、いうなれば同じ形をしているのであって、その結果ピースを入れ替えてもパズルは完成してしまう。つまり真相は「不定」となってしまうのだが、この「現実」もどうやら探偵小説よりはウルフの小説に似ているのに違いない。

 そういう次第で、(当然ながら)「現実」に属する「グレート東郷」もまた、唯一の解などありえるはずがないのであって、真相は「不定」とならざるを得ない。

 同じことは力道山にもいえる。ニッポン精神、大和魂を鼓舞する力道山は、その時本心よりそう思っているのであり、決して演技しているのではないはず。そして38度線の北に向かって吼える力道山もしかり。どちらかに決め付けるほうが間違っている。

 本書は唯一の解を求めつつも、その結果解が不定であることを正直に記述している(解が得られなかったからといって都合のよい解を捏造していない)。一見「泰山鳴動して」的な印象を持つかもしれないが、実にそれこそが本書の読みどころなのだ。
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考えないヒト

2006年01月12日 20時36分25秒 | 読書
正高信男『考えないヒト ケータイ依存で退化した日本人(中公新書、05)

 まあ、主張はそれなりに首肯できるのだが、書き方が荒っぽいと思う。非常に纏めにくい。そして纏めにくいのは、実は本書に統一的な論旨がないからではないかという気がする。たんに私が把握しきれてないだけなのかもしれないが。

 IT化就中ケータイの普及が人間をサル化してしまうという論旨なのだが、やや強引ではないか。サル化(東浩紀の所謂「動物化」とほぼ同じニュアンス)とIT化(同様東の所謂「データベース化」)は対応関係は認められるとしても、必ずしも因果関係といえるものではない。なぜならそれは、情報洪水による準拠枠の喪失=結果的に「私」の弱化というかたちで、70年代からすでに警告されていたもので、21世紀に入って突如起こってきた問題とはいえないからだ。

 管見ではやはり脱産業社会化・情報社会化として顕在化していく資本主義の進展、管理社会化――すなわち多様化(脱産業社会化・情報社会化)と一元化(資本主義の進展、管理社会化)の同時進行という事態が必然的に惹起した問題だと思う。
 その意味で、著者のように脳の廃用性萎縮なんていう生物的変容を持ってこなくても説明できるように感じた。

 とはいえ、そういう(私が考えるような)考え方も、ところどころに散見できるので、どうも本書の主張を著者自身全く信じきっているというわけでもなさそうだ。一種鬼面人を驚かす、ショック療法的(悪く言えばキャッチコピー的)態度で執筆されたものかも。

 とりあえず個々の内容はそれなりに説得力があるのだが、いろんな思いつきを個別に理屈付けしたにとどまり、それを更に統一する論理はないように思った。IT化ケータイ化との対応関係に収束させるのではなく、もっと大きな因果関係、社会関係を想定する必要があったのではないだろうか。
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なつかしく謎めいて

2006年01月10日 23時16分57秒 | 読書
アーシュラ・K・ル=グウィン『なつかしく謎めいて』谷垣暁美訳(河出書房、05)

 これは面白かった。ル=グインにしては一見地味な印象だが、傑作ではないだろうか。しかし――
 この邦題は違うやろ、と私は思うのであった。

 原題の「Changing Planes」は、飛行機の「乗り継ぎ」という意味で、もとより内容に即している。
 すなわち飛行場での乗り継ぎ待ち時間の、あの退屈で不快なストレス(著者いわく、時間つぶしに本でも読もうかと思っても、「空港の本屋に本はない。あるのはベストセラーだけだ(10p)」!)に晒されたシータ・ドゥリープによって、それは発見された!

 何が発見されたのか?
 「Changing Planets」の原理がだ。
 それって何?

 ここでの「Changing Planets」とは、「他の次元(plane of existence)への移動」(訳者あとがき)という意味であり、けっきょく原題は、Changing Planets(乗り継ぎ待ち時間)のストレスをドライヴィングフォースとする次元移動法としてのChanging Planets――という二重の意味を担っているのだった。
 ところが、この原題のニュアンスが邦題には全然生かされてない。それどころか邦題は本書の内容すら反映したものではないのである。

 それについてはあとで触れることにして、ともあれこのシータ・ドゥリープ式次元間移動法、飛行場での乗り継ぎにうんざりしていた人々のあいだに瞬く間に広がり、彼らは乗り継ぎの時間つぶしに、いろんな異次元へと跳んで行き、結果としてたくさんの奇妙な異次元が発見されただけでなく、いつの間にか旅行者と異次元現地との調整を行なう「次元間旅行局」なんてのも存在するようになっていた。

 本書には、そういう背景のもと、シータ・ドゥリープの友人である「私」が、実際に訪れたり、友人に寄稿してもらったり、異次元現地の図書館で調べたことなどが、すなわち様々な異次元世界の見聞録が収められている。

 それはある意味民族学者が記述する「エスノグラフィ」に似ており、小説だからそこまで厳密な形式のものではないが、実際のところ民族学の素養がある著者がやりたかったのは、まさに「異次元諸世界のエスノグラフィ集」だったに違いない。

 そうして記述された諸世界は、あるいはボルヘスのようであったり、レムのようであったり、ときには底意地の悪いディッシュのようであったりと、なんとも魅力的なのだが、少なくとも邦題の「なつかしく」という語が指し示すようなノスタルジーに充ちたものは皆無だ。謎めいているのは確かだとしても。

 少し先走った。それはさておき、エスノグラフィは異文化の観察報告なのだけれども、しかしその最終目的は、我々の自文化(近代・西欧)を再考することにある(魚にとって水のように、人間にとって空気のように、我々は自らの文化にどっぷり浸かっているが故に、その文化自体を客観視できない)。
 本書のエスノグラフィもまた、その効果を狙っており、描かれている異次元人やその文化は、確かに「謎めいて」いるとしても、その実は我々自身の投影であったり、裏返しであったり、結局我々自身なのだ。

 「玉蜀黍の髪の女」のアーイエース次元は遺伝子操作の結果徹底的に痛めつけられた世界だし、「アソヌの沈黙」が炙り出すのは言葉が「隔て」をもたらしたという事かもしれない。
 「その人たちもここにいる」は前作を受けて我々が自明として疑わない「個人」あるいは「私は私である」とはなんだろうかという自問ではないだろうか。
 「ヴェクシの怒り」は極端な話だが、私的所有について再考させてくれるし、「渡りをする人々」は近代産業社会をあえて受け入れない。
 「夜を通る道」では再び「隔てられた個人」とは何かが問われ、「ヘーニャの王族たち」は、たくさんの王族たちの中の少数の平民は王族であるというパラドックスが描写される。
 「四つの悲惨な物語」は傑作で、その滑稽な不条理は、まるでボルヘスのよう。
 「グレート・ジョイ」では「アメリカ」あるいはアメリカ的なものが嘲笑されており、「眠らない島」では「より良く」しようというある種の進歩思考が招来したディストピアが描かれ、「海星のような言語」では、実現したユートピアの悲惨が描かれる。
 「謎の建築物」でもまた所有とは何かが問われているようだし、「翼人間の選択」は、飛び立てるものは(全てを捨てられるものは)幸いなるかなという人生の苦渋が表現される。
 「不死の人の島」は、永遠なるものの悲劇と永遠を日銭とせざるを得ないコンプレックスを活写した傑作。
 ラストの「しっちゃかめっちゃか」も、掉尾を飾るにふさわしい傑作で、フリージャズの演奏のような描写に溺れました。(以上は勿論各作品を構成する一部分に過ぎない。実際の作物はもっと豊かだ)

 かくのごとく本書は、実に様々な異世界を想像/創造し、そこに我々の内界をさまざまにデフォルメして映し出して見せてくれるのであるが、上述のように「ノスタルジー」だけはそこにない。
 なぜならノスタルジーとは、現実には存在しなかった(脳内改変された、都合のいい)過去への未反省的な惑溺に他ならず、一方著者の態度は、ある意味未反省的な惑溺者を正気に戻そうとするものなのであって、両者は全く正反対のベクトルを持つ。原理的に相容れない、水と油なのだから、本書にノスタルジーが入り込む余地などあるわけがないのだ。

 そういうわけで、この邦題は不適切といわざるを得ない。というだけでなく、読者をある先入観へ誘導するような胡散臭さを感じてしまうのは私だけではあるまい。このような売らんがための小細工は、とりわけ本書にはふさわしくないように思う。なぜなら、そんな話ではないからだ。

 さてそれでは、私ならなんとタイトルをつけよう?
 ストレートに内容に即して「次元見聞録」はどうか? で、副題として原題の意を汲んだ「乗継便を待ちながら」をつける……

 『次元見聞録 乗継便を待ちながら

 ……うーむ、センス悪し(汗)
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「感動」禁止!

2006年01月08日 21時30分34秒 | 読書
八柏龍紀『「感動」禁止 「涙」を消費する人びと(ベスト新書、06)

 年始早々出版されたばかりの本。
 スポーツ番組などで、ここ数年よく聞くようになった「感動をありがとう」はおかしいのではないか、と著者は言う。 「勇気をもらいました」なども同類。
 感動は内発的にするもので、勇気はわくものではないのか、と著者は首を傾げる。
「人びとは、あたかも自らの感情や判断は捨て去ったかのごとく、均一的な「感動」や「涙」を高濃度に消費している」(8p)

 著者はその変質を70年代、団塊の世代以降の現象とみる。すなわち80年代以降日本を圧倒的に覆い尽くす消費こそ美徳という均質化圧力にもとめるのだ。
 すなわち高度消費社会化によって価値観の基準が「マネー」のみに均一化したため、自己のアイデンティティは「所有」によって図られるようになる。

 ところがこの「所有」物は、金銭によって所有するもので、個人の内面と無関係だから、「私」は「他者」の視線によってのみ規定されることになる。
「いいかえるなら「ブランド」によって、「あなた」という個性が生まれてくる」(100p)

 これはいわば「欲望のフロンティア」開拓が極限にまで進んだ果ての事態といえるだろう。
 そういうことの積み重ねは、やがて自分の「感情」すらも、「外部」に根拠を求めるように進んでいくことは容易に予想できる。極端な言い方をすれば自分の内部にもはや感情さえ内発しなくなってしまうというわけだ。

 その結果が、近年よく言われるコミュニケーションが取れないという事態であろう。コミュニケーションとは大袈裟にいえば「考え」のキャッチボールなのだが、内面に「考え」が内発していなければ、そりゃキャッチボールも出来ない道理である。

 結局著者も書くように、「大量でしかも高度化した消費社会の進展のなか、チョムスキーの言葉を借りれば、人びとは「一個の原子のように孤立した」消費者に仕立てられてしまった」(220p)
 その結果、人びとは根本的に受動的な「観客」としてしか存在できず、スポーツも能動的には感動を内発させず、感動は与えられるものとなったし、他者とのコミュニケーションは内発的に成立せず、他者の視線を受け入れ再現する、コピー&ペーストしかできなくなってしまったといえるのではないか。
 
 学生の論文が、実はネットからのコピペだったというのはよく聞く話。しかしやっている本人は全然悪意も悪いことをしているという自覚もないはず。なぜなら内面は、もともとその「自然状態」が、他者の言説で埋められている、あるいは東浩紀がいうようにデータベースダウンロード型となってしまっているのだから、彼にすればごく当たり前のことをしたに過ぎないからだ。

 こういう事態に対して、著者は結論として「主体性の回復」を期待するのだが、それは甘いと思う。もともとこういう事態を招来したのは、資本主義の原理そのものであることは明らかではないか。
 なぜなら(下の『「資本」論』にもあったと思うが)資本主義を根本的に成立させている「私的所有」と「交換(市場)」は、主体同士が離れて(空間を空けて)存在することに根拠付けられているのであり、資本主義の進化形態たる消費資本主義社会では主体間の距離は限りなく離れてしまうことにならざるを得ない。
 それを埋めるのは他者の視線を踏襲すること、「みんなが笑うところでは、速攻で笑い、みんなが怒るところでは、ダッシュで怒る。仲間からはぐれないよう、オレだけへんじゃねえよねとふるま」(235p)うしか、実際のところありえないのかもしれないからだ。

 本書の記述は、やや雑駁なところがあるのだが、啓発されることも多く、以上のようなことを考えさせてくれた。
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おかしなおかしな転校生

2006年01月06日 00時11分54秒 | 読書
高井信『おかしなおかしな転校生』(青い鳥文庫、05)

 タイトルには<よろず諜報員ミッション0>という角書が附されている。もとより「万朝報」のもじりなのだが、そうであるからには当然というべきか、戦前の探偵小説、就中黒岩涙香ファンだという今どきめずらしい中学生が主人公。

 その彼が、見ず知らずの美少女に挨拶されるところから物語は始まる。人違いではないのかと驚きあやしむ彼に、なんとその少女は、彼と学校は違うが同学年で、同じマンションに3年前から住んでいるという。そしてその少女は翌日、彼の中学に転校してきたのだった……。

 「なぞの転校生」、「時をかける少女」といった懐かしき良き70年代ジュブナイルの世界を現代に復活させる「ネオ・ジュブナイル」というべき佳品である。
 だいたい涙香ファンの中学生っていう設定から既にして、この最新刊の物語から「今らしさ」、「同時代」らしさを中和し、消し去ってしまう。
 しかもなぞの少女もまた、涙香ファンで、ふたりは涙香に関する(中学生とは思えない)薀蓄で盛り上がり、打ち解けていくのだから、何ともはやすごい設定というべきだろう(実は少女が涙香ファンである理由があとで判る)。

 バラしてしまえば、本書は並行世界テーマに分類されるSF小説。バラしてしまう、なんて大仰に書いたが、そんなことは数ページ読めば、SFファンなら(でなくても)察しがつくというものだ。
 並行世界SFは、私自身とても大好きなSFのジャンルなのだけれど、このテーマに属する作品は実にどっさりとあり、今更このジャンルで独自性を出すのはなかなか難しいのではないだろうか。

 しかしながら、前著『ショートショートの世界』での博識振りでも判るように、著者はSF研究家としても一流の作家である。その辺の匙加減はおさおさ怠りなく、並行世界小説独特の、いわば<ドッペルゲンガー感覚>とでもいうべきセンス・オブ・ワンダーを実にうまく小説世界にふんわりと纏わりつかせている。

 たとえば、少女が住んでいる(筈の)908号室で、主人公が体験するフシギに、それはよく表されているように思う。こういう場面を読むと、ほんとうにワクワクしてくる!

 ところで、この場面で主人公は、少女の本来の世界を覗いてみたいと、一瞬その気になるのだが、気が変わる。私はここが一番気になった。
 彼我の世界を繋ぐ機械は、実のところ実験段階のもので、なにやら不都合があるらしいことが少女によって仄めかされる。
 ひょっとしたら、あちらの世界の住人であれば(機械もその世界の物質で作られているのだから)問題なく往来できるところが、あちらの世界の物質に非ざるこちらの世界の物質で形成された主人公の身体は、往来できない、あるいは行ったら帰って来れないというような設定が隠されているのではないだろうか?

 そういえば(と私の妄想は限りなく拡がっていく)、少女がこの世界に現れた理由は小説内で説明されているわけだが、わたし的にはやや納得できない、そんな理由でわざわざ来るだろうかという気なしとしないのだ。
 実は少女は本当のことを語ってないのではあるまいか? 本当は主人公をあちらの世界へ攫って行くつもりなのではないか! 上のシーンでは危うくその毒牙を逃れたのだ! という妄想は、まあありえないだろうな(笑)。著者も想定外のトンデモ説で苦笑するかも。

 とはいえ、機械の不具合の謎は、これは確かに謎として残されており、次回以降この謎が大きな意味を持ってくるに違いない。
 次回以降の新結成された「よろず諜報員」たちのミッションがとても楽しみ。今後よろず諜報員たちが複数の並行世界を股にかけて活躍する展開になるとしたら、ローマーの混戦次元シリーズあたりに近い感じになるのではないだろうか。

 ともあれ、「なぞの転校生」や「時をかける少女」に親しんだ身としては、本書はとても懐かしく楽しい時間(まあ3時間くらいで読んでしまったんだけど、あとで後悔しきり)をもたらしてくれた。もちろん本来の読者である中高生が読んでもきっと面白いに違いない。むしろ本書を読んで楽しい時間をすごせたのなら、遡って上記70年代ジュブナイルにチャレンジしてほしいなと思ったりもするのだ。
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「資本」論 取引する身体/取引される身体

2006年01月04日 17時00分26秒 | 読書
稲葉振一郎『「資本」論 取引する身体/取引される身体(ちくま新書、05)

 これは理路整然たる好著で、とても面白かった。
 著者はまず、統治権力が存在しない自然状態から国家が成立していくメカニズムについて諸家の思弁を整理している。ロジカルでとても判りやすい。結局ジョン・ロックの所説が汎用的であるとしてその説を現在に通用するよう(ホッブスを入れ子にしたりして)解釈しなおしている。

 著者によれば、ロックの国家論は、国家を土地によって定義し、庶民(土地を持たない人々)を国家の成員ではないとするのだが、実のところ、それはマルクスの資本こそ社会(関係)であるとする認識とおおむね軌を一にするものだった。

 つまりマルクスの資本制社会では、無産者(労働者)は資本を持たない人々なのだから、資本を持たない労働者は社会関係を構成し得ない、弾かれていることになり、よってマルクスの労働者は、そういう疎外される社会を覆す方向に向かわざるを得ない。

 しかしながらその方向は、人間そのものの進化(変容)に向かわざるを得ず、マルクス自身は、人間そのものが「共産主義的人間」に進化していくことを予想しているのだが、現実の共産主義国家をみればそれは成功しなかった。(所有を捨てるということは「生身の人間」には無理と著者は考えているようだ)

 またマルクスの社会論は時代を下るにつれて現実と乖離して行くのだが、それはマルクスの予想とは違ってインサーヴァント系の無産者の新中間層化というフェイズが進行したからに他ならない。

 著者によれば資本を持たない労働者という認識が、マルクスをして、かかる労働-労働力=疎外という藪道に入り込ませたのであって、見方を変えて労働者は労働力という特殊な資産(人的資本)を持つとすれば(みなせば)、労働者も資本制的社会関係に入り込んでいることになる。

 とはいえそれは特殊な資産なのであって、セーフティネットといった様々な制度的下支えがなくてはならない種類の資産である。結局著者は、無産者の労働力=人的資本との擬制(みなし)を貫くことで、そのような財産権の主体として労働者を位置づけるものとして福祉国家を構想すべきとする。

 上に所有を捨てることは無理と書いたが、著者はもっとポジティヴに、所有こそ人間の契機であり、所有と交換(市場)は表裏一体であるから、私的所有、市場経済、資本主義という秩序は、たとえ生身の人間存在にストレスをかけるものであるとしても、基本的に肯定されなければならないとする。

 エピローグにおいて、ロボットやサイボーグの存在する社会における労働力=人的資本のありようを想像しており、これが一種のユートピア論としてとても面白いのだが、ここに至って著者は、「人間以外の者を主体とするのであれば、マルクス主義の未来構想は実践しうる」としていて、実に興味深く感じた。
 参考文献に「最後にして最初の人間」を挙げているのだが、まさに19世紀~20世紀初頭のウェルズら空想社会主義的思弁小説の21世紀的展開が目に浮かんでくるようなエピローグだった。

 しかしながら私自身は、今日の日本(世界?)は行き過ぎた市場原理に冒されているように感じている。今や社会のあらゆる部面で、市場原理に端を発する弊害が顔を覗かせているのではないだろうか。
 とりわけそれは、テレビを通じて、一般の人間の内面すら変容させ始めてきたように思われてならない。

 たしかに共産主義的人間の境地に、人間が達することは私も不可能だろうと思う。しかしながら昨今の状況は、市場原理の高度な進展に、人間がついて行けなくなっているのではないだろうか。
 著者の言葉を援用するならば、生身の人間存在にかけるストレスはもはや肯定できるレンジを超えたのではないかとさえ思われる。

 このような認識は、一般的な認識だと思うのだが、かかる問題について著者はどのように考えているのだろうか。それを聴きたい気がする。
 ともあれ刺激にみちた好著です。 
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乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない

2006年01月04日 16時34分15秒 | 読書
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない(集英社新書、05)

 タイトルに感応して読み始めた。非常に大雑把な記述なのだが、それゆえ「経済」について原義に立ち還り、「体験」的に再考する部分はとてもよく判る。
 無駄を省くという意味の「経済」が、いまや「不経済」という単語にしか残っていないとして、「我慢」(現状に抗する力)の消失がいまの日本社会を招来したというのが著者の見解。

 現状に抗する力が失われて、個人が「現状に追随する者」となっているのは同感なのだが、その「我慢」が、状況によってではなく、「主体的」に喪われたとする説明は、私にはやや疑問。

 やはりまず「現状」である「欲望というフロンティアの発見」という市場資本主義の最終進化形態の完成が先にあったと考える。 
 そしてそれを個人に内面化したのは「テレビ」だろう。
 その意味で本書には、「テレビ」の影響に関する記述が皆無だ。このあたりは片手落ちかも判らない。

 日本経済が開発した欲望のフロンティアは、個別的には「女」であり、「若者」、さらには「オタク」etcであったわけだが、それをさらに一般化すれば「オヤジ」以外の全てという指摘はとても面白い。

 「オヤジ」を唯一フロンティア化しうるのは「過去(ノスタルジー)」なのだそうだが、それは厳密には「オヤジになる前の過去」だからで、「オヤジ」そのものは市場化できない。それは「オヤジ」たち(具体的には30年代に幼少期を過ごした団塊の世代)が「欲望」で生きる世代ではなく「必要」で生きる世代だからというのも納得する。

 これはポスト団塊の世代を最初の「おたく」世代とした大塚英志の所論と対応するだろう。
 八つぁん熊さん相手にご隠居が説をたれるような内容だが、聴いていてとても面白いご高説ではあることは間違いない。
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