チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ヤングアダルトノベルとライトノベル(メモ)

2006年05月07日 16時13分40秒 | 備忘
ここ数日ヤングアダルトノベルとライトノベルについていろいろ調べたり考えたりしたことを整理してみます(まあ半分以上思いつきですのであしからず)。

① ヤングアダルトは本来アメリカ図書館の分類概念で、単に14歳から18歳という年齢層向けの小説という意味だった。日本ではこれを日本の実情に沿わせたのだろう、12、3歳から19歳つまりほぼティーンエージャー向け小説として定義された。
かかる定義はただ年齢のみに依拠しており、それ以外の条件はなかった(従ってアメリカでは殆どのSFはヤングアダルトの範疇とみなされた(SF⊂YA)。ゆえにアメリカSFシーン内にYAを定立する小川の論点(SF⊃YA)は論理的にもありえない)。

② ところが、日本においては、ジュブナイルという分類概念が1970年前後に現れた。この結果、上記「ティーンエージャーの小説」としてのYAは、事実上ティーン前半のジュブナイル、後半の年齢層のヤングアダルトに二分化された。

③ 一方、ジュブナイルとYA は時間的前後関係としても捉えられ、ジュブナイルは1980年ごろ(?)、YAに取って代わられたという認識もある。

④ 他方、ジュブナイルとYA の違いを小説としての性格に求める議論もあり、ジュブナイルは作者と読者の関係は傾斜的で、基本的に上から下へ教え諭す性格があるのに対して、YAでは作者と読者は同じ立ち位置であり、教え諭すという要素はなくなっている。

⑤ 上記②③④より、これはジュブナイルの出自が児童文学にあることを示していると共に、児童文学→ジュブナイル→YAというリニアな流れとして理解できることを示している。

⑥-1 それは二つの意味があり、ひとつは、歴史的3段階(児童文学からジュブナイルが発生し、JVからYAが発生した)であるといことで、③の現象はこれにより説明される。

⑥-2 いまひとつは、②の言い換えだが、読者の年齢の3段階(ティーン以前の児童文学、ティーン前期のJV、ティーン後期のYA)でもあるということ。④の現象はこれより説明されよう。なぜなら年齢が上がれば上がるほど教え諭しの要素は減っていかざるを得ないからで(自意識の確立と共に上からの圧力は忌避されるので、そのような要素の多い小説は淘汰される)、その意味では、読者のと作者の相対的上下関係もこの3段階で減少していくともいえる(当然ながら大人の小説ではかかる傾斜自体が意味を持たない)。

⑦ さてライトノベルは、かかるYAの更なる発展形式で、もはや小説としては児童文学→JV→YAという流れから断絶した小説形式といえる。それは近代小説よりもむしろ前近代的な黄表紙・読本の復活であるらしい、というのが新城や大塚や大森の言説から想像される(と書くのは私が殆ど読んだことがないからだが)。

⑧ 以上から導出されること、(新城等の)ライトノベルの条件に照らせば、(さすがに私も読んでいる)クラッシャー・ジョウはライトノベルとはいえないだろうということで、かといってジュブナイルの条件(傾斜的関係)も希薄だ。それでは何なのかといえば、やはりYAとしか言いようがない。
つまり次のような図式が想定される。

近代小説…>…>児童文学→JV→YA
近代小説…>…>児童文学→JV→
源氏物語…>…>黄表紙…>…>ライトノベル

⑨ この図から読み取れるのは、(ライトノベル発生後では、YAとライトノベルは別ジャンルと考えるべきで、YAはJVが上の年齢層へ広がる過程で、読者-作者の傾斜を失っていったものなのであり、いまだ近代小説の要件を維持しているのに対して、ライトノベルはYAから発展していく過程で近代小説の性格そのものを失い或いは能動的に捨て去り、突然変異的に断絶的に一挙に飛び超えて前近代的な読本的性格を獲得するに至ったものと言えるのではないだろうか。

⑩ 結局現状別の小説形態であるライトノベルとYAは読者層を共有するので区別しにくいが、違う形態として存続している。クラッシャージョウはYAではあってもライトノベルではありえない。小川一水などSF系ライトノベル作家(とみなされている作家たち)も厳密にはライトノベル作家ではなく、実はクラッシャージョウの後を襲うヤングアダルトノベルの作家というべきなのではあるまいか。
コメント
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