チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

自殺卵

2013年09月16日 11時07分00秒 | 読書
眉村卓『自殺卵』(出版芸術社 13)

 本書は眉村卓の最新作品集で、10年ほど前に雑誌掲載されながら単行本未収録だった「豪邸の住人」と「月光よ」以外は、すべて去年から今年にかけて書き上げられたものを収録した、文字どおりの新作集です。

1) 「豪邸の住人」
 これ、眉村版「聊斎志異」ではないでしょうか!? 一読、まずその思いが頭に浮かんだ。しかしまあ、そう思ったのには伏線がありまして、本書収録作「ペケ投げ」に、主人公が「聊斎志異」を愛読していたという記述があり、そしてこれは著者の小説では通例と言ってよいのですが、作中人物は何程か著者自身を反映している。
 とすれば著者自身が「聊斎志異」を子供の頃愛読し、その影響を受けたのではないかと考えるのは、さほど間違っていないと思われます。(後記:というか、そもそも東京堂書店の「眉村卓が選ぶ10冊」に、著者は「聊斎志異」を選んでおられましたね)
 ですから本篇について「聊斎志異」っぽいと気づいたのは「ペケ投げ」を(初出媒体で既に)読んでいたからでありまして、そうでなければ気づかなかったかもしれません。
 そうと知って振り返れば、それは本篇にかぎったものではなく、たしかに著者の(とりわけ怪異系の)小説には、その怪異の存在の形式に、「聊斎志異」がみとめられることに気づいた(初期の「わがパキーネ」なども、初期作品だけに外観はかっちりしたSFで固めていますが、いわゆる「狐魅譚」の変形と解釈できそうです)。
 とはいえそれは一見ではわからない。いわば「内在」しているのであって、上記のような「ヒント」を与えられてはじめて気づくという感じだったと思います。
 しかし本篇「豪邸の住人」では、そういう「聊斎志異」の雰囲気が直接に私には感じられました。

 男がお屋敷町を散歩していると、空地だったところに豪邸が建てられていた。表札を見てびっくりする。記された名字が男のそれと同じだったのです。また何日かしてそこを通りますと、中に奥さんらしき女性の姿が見え、それがなんと、男の妻にそっくりだった。
 その後、男は自分がその豪邸に住んでいる、つまり豪邸の主人になっている夢を頻繁に見始める。その夢の中で、主人となっている男は、自分の身が、逮捕とかピストルで撃たれるとか、そんなふうに破滅する予感に怯えているのです。
 そしてついに或る日、男は豪邸の主人の姿を見かけてしまいます……

 これ、舞台を唐宋明清のどこかの都市の、栄えている役人とうだつのあがらない書生止まりに置き換えても十分通用する設定ではないでしょうか。
 本篇はSF的に解釈すれば並行宇宙が混在してしまう話ですが、中国古小説的にいえば夢とか生霊ということになる。以下は「聊斎志異」じゃなく唐代の伝奇ですが、「邯鄲夢」は夢のなかで権勢を体験してそのはかなさを知り、平凡な自分に不満を持つことをやめる。似ています。一方、生霊的には「離魂記」が想起されます(どちらも活動している点は違いますが)。
 そしてとりわけ重要だと思うのは、本篇の主人公を、「私」でも「彼」でも「佐藤一郎」でもなく、「男」としている点ではないでしょうか。ごく一般存在の「男」なのです。これは眉村作品としては、初期のショートショートを別にすれば珍しいと思います。視点人物を「男」としたことによる距離感――私はこれが決定的に本篇を「聊斎志異」(もしくは中国古小説)と感じさせる契機(Moment)となっていると思います。

 今まで著者が内在させていた「聊斎志異」的な志向性が、本篇ではじめて(かどうか検証してみないと断言できませんが、とりあえず)外面にまでその姿をあらわした。そしてそれは、どうやら本書『自殺卵』所収の、後続する諸短編*にも、引き続いているようなのです(主人公が「男」なのは本篇だけですが)。
 *本篇は本集中で一番早い時期に書かれた作品(本集は執筆順というか発表順に配列されています)。

2)「月光よ」
 収録順で行くと、次は「アシュラ」なんですが、先にこちらに着手しました。というのには理由がありまして、本集収録作品全8篇は、執筆時期に於いて二つのグループに大きく分けることができます。「豪邸の住人」と本篇「月光よ」は98年の作品なのですが、それ以外の6篇は、2012年以降に初出誌に発表されたもの。したがってこの2グループの間には、実に10年以上の開きがあるのです。
 十年一昔というくらいですから、その時差というのはやはり大きなものがあり、その間*に、著者の文体は少し変化しています。
(*その間にも中篇「エイやん」、長篇「いいかげんワールド」、短篇集「沈みゆく人」が発表されており、執筆活動が途絶えていたわけではありません)

 先回、本書は執筆順に配列されていると、うっかり書いてしまいました。ところが実際は、上述のように「豪邸の住人」の次に「アシュラ」がきており、本篇「月光よ」は3番目に並べられている。こうなった理由が、ちょっと私にはわからないのです。少なくとも、巻末の収録作品一覧では正しく執筆順に配列されておりますし、著者あとがきでも「豪邸の住人」の次に「月光よ」に就いて述べられているのです。
 先に書きましたように、文体(スタイル)が変わってきているので、本文も執筆順のほうがよかったのではないかなあ、という感じが私にはありまして、そういう次第で「アシュラ」より先に本篇を読むことにしました。

 前置きが長くなりました。
 主人公の「私」はフリーライターで、会社勤めを続けていたら一年前に定年退職しているという年齢。定期健診で異常が見つかり、精密検査をしなければならないということになる。それで精神的に落ち込んで、深夜、とぼとぼと路面電車の駅から帰宅の途次、(折からの満月の)月光が強くあたって「月光溜まり」のようになって青く浮かび上がっている場所に行き会う。と、その月光溜まりから、「男」の脳に直接、思念が届いたのです……

 非常に幻想的な、詩的で静謐な小説世界が展開されます。うっとりとして読みおわりました。まさに狂気月食――じゃなくて狂気月光なんですが、ピンクフロイドの幽玄なサウンドが聞こえてきそうな世界です。
 通常は(現代は夜でも光が溢れているため健康な人間には)届かない月光の呼び声が、主人公の落ち込んで弱くなった心には届いたのです。

 こういう詩的な世界表現は、第2グループには殆んど現れません。もっと即物的で乾いた簡潔な表現になっていくのです。また月光の呼び声と書きましたが、主人公と感応したのは月光そのものではなくて、実は何者かが月に設置した装置から月光にのってやってきた「?」としか言えない何かなのですね。そんなクラーク的というかSF的な趣向も、第2グループからは姿を消しています。「聊斎志異」的な趣向へと変化してゆくんですね。
 あ、「豪邸の住人」も聊斎志異なので、むしろ小説をかっちりと構築して虚構世界を作り上げていこう、という(小説家としては当然の)志向性というか呪縛から、解放されて来ていると言い換えましょうか(大家の境地?)。

3)「アシュラ」
 アシュラとは、市販されている抗老サプリメント。精力剤とかそういうものではなく、精神を賦活する作用があるとのことでよく売れているらしい。もちろん小説内存在物です。
 本篇は、この薬以外はすべて、いまここにある現実の世界が舞台です。ですから、ほとんど一般小説を読んでいる感じ。しかしながら、アシュラは未来に属しますから、本篇はやはりSFです。すなわち安部公房的な意味で、アシュラという未来からの贈り物が、現実世界を逆照射する物語だからです。

 主人公の「私」は70歳。アシュラを1か月前から常用している。どのくらい効果があるのかまだわからないが、とにかくきちんと服用している。
 そんな私が、ある日、電車で同じ歳くらいの男(老人)に、身に覚えのない因縁をつけられます。何が気に入らなかったのか、居丈高に謝れというばかり。とりあえず話をしようということになって、男と共に停車した駅のホームに降ります。しかし男は頭に血が上って前後見境つかない様子で、掴みかかってきたのです。
 しかし「私」は、老いたりといえども武道の心得があった。逆にその手首をひねってねじ伏せてしまう。と、突如男が戦意を喪失し、呆然とした面持ちで、まるで憑き物が落ちたかのように私に丁重に謝り、ふらふらと離れていったのです。

 どうやら、精神を賦活するアシュラは、飲み過ぎると賦活を通り越して、老人特有の立腹癖を助長するらしい。そんなことがだんだんわかってくるのですが、「私」は飲み続けます。たしかに元気になってくる実感があるからですね。
 それからさらに1か月が過ぎ、「私」はウオーキングの途次、同様にウォーキングしている50歳くらいの男が、こっちを見て笑っているように感じ、瞬間湯沸かし的に怒りの発作に襲われ、気づいたときには、その男に向かって歩き出していたのでした……

 未来からのギフトは、老化という存在形式が、その形式に組み込まれた人間に、どのような作用を及ぼすものであるかを、かなり冷徹に剔抉してみせます。
 たぶん、著者は、実際に電車の中で因縁をつけられたりしたことなどがあったのかもしれません。本篇は、そういう個人的な体験を元にした私ファンタジーであるのかもしれませんが、本篇ではそれが個人的体験にとどまらず、そこから出発しそれを突き抜けて、老人とか老化といった一般的な命題の考究にまで昇華されて、小説化がなされているのです。
 まさに未来が現在を断罪するという、安部公房的な意味でのSFの、小品ながらひとつの成果となり得ていると作品であると感じました。

4)「自殺卵」
 先々回、「アシュラ」が第1グループの中に挿入されているのが不審と書きました。本篇を読んで少しわかったような気がしました。
 本篇に比べれば、「アシュラ」はまだまだ構築のリアリティに配慮がなされているのです。つまり、ある意味第1グループ的な作品なんですね。アシュラという抗老サプリメントもそれなりに「あり得るもの」と読者に納得できる。そのように書かれています。
 本篇の「自殺卵」はどうでしょうか? あ、そのまえに「自殺卵」は「じさつらん」じゃなくて「じさつたまご」と読むそうです(表紙や扉の題字もそのようにかなが振られています)。「じさつらん」では、なんとなく生殖細胞の「卵子」に関連するものを連想されそうだし、「じさつたまご」なら、ちょっと「温泉卵」みたいでなかなかよろしいんじゃないですか、ということのようです(笑)。

 閑話休題。「自殺卵」も「アシュラ」同様(安部公房的に言えば)未来からのギフト、現代を断罪するために贈られたものです。ところがその(小説内での)存在のあり方は180度違います。
 「自殺卵」を贈りつけている当の存在は、彼らの言に従えば「あなたがたのいうエイリアンでも生物でもありません。あなたがたにも感知も理解もできない、宇宙全体の作用なのです」。宇宙全体の作用みたいなものが、「機嫌よく滅んで下さい」なんて文言をしたためているのです(汗)。

 なんかもうヤブレカブレで、リアリティを装う意志をはじめから放棄しているような設定ではないでしょうか! 前々回、「小説をかっちりと構築して虚構世界を作り上げていこう、という(小説家としては当然の)志向性というか呪縛から、解放されて来ている」と書いたのは、こういう意味なのでした。まことに自由闊達、融通無碍の境地で、本作(以下第2グループの作品)は書かれている。あとがきで著者自身が、「ここから先が、何だこれ、変なものを書くんだな、と言われるだろう作品が並ぶ」と言っています。

 変なものとは、読者が「近代的な小説概念」を(無意識に)念頭して読むとそうだということでしょう。つまり「近代小説」(一般的なSFも当然その範疇です)とは別の表現、別の筆法を、著者は「自殺卵」以降の作品で選択したということです。その別の表現法とは何か? それが「聊斎志異」だったのではないでしょうか。
(ちなみに「聊斎志異」は清代の作物ですが、そのスタイルは同時代の明清の長編小説よりも、唐宋の志怪・伝奇小説により近しい。要するに中国古小説の筆法ということで、遠近法的立体的で幾重にも上から塗り重ねていく西洋の油絵ではなく、淡い淡彩画・水墨画的な世界表現に、著者は向かったといえるように思います)。

 さて、以上のごとく新しい文体(スタイル)で表現された本篇は、そのスタイルの要請と相俟って、独特の世界観(感)を私達に提示しています。一読感じたのは、「淡々と進行していく不気味」といった感覚でした。

 本篇は、分類するならば「破滅小説」です。「宇宙全体の作用」と自称するわけのわからない存在が(それがまた半透明でトコロテンみたいな姿をしている(存在そのものではなく使い走りなのかもしれませんが)というのがなんとなくアンバランスで可笑しい。クラーク描く、もしくはSFが描く、至高存在とのこの落差!
 ばら撒いた自殺卵で、どんどん人口が減っていき、それにつれて社会がだんだん回っていかなくなる様子が、淡々と、何の感慨(哀感)も交えずに描写されており、そこに私は、何ともしれぬ不気味な印象を持ちました。「生」への執着が稀薄な感じなのです。

 「破滅小説」と書きましたが、それは描かれる世界の破滅であると同時に、それを描いている「視点」というか「視線」に含まれている何かでもある。
 小説世界は次第に、かつての戦後的世界・焼跡闇市を彷彿とさせる風になっていくのですが、語られる視点は、むしろそれを喜んでいる気配があります。そういえばあとがきで著者は、「今の時代をそういうかたちにすることに快感があった」と書かれていますね。
 (戦後のゼロから発して)今在る(このようにしか在りえなかった)世界への違和感は、戦後を知らない50代の私にもあります。いわんやゼロを知っている70代の著者には(私のそれと同じかどうかは別にして)当然あるはずです。本篇はそのような意味で、一種の「復讐」なのかも。
「なお、誤解しないようにして下さい。われわれの贈り物で消滅した人は、いわゆる死後の世界に行くわけではありません。消えてしまうだけです。妙な期待は無用です」(107p)

 イギリスSF伝統の破滅ものを中国古小説的な筆法で淡々と描いた異色の傑作といってよいのではないでしょうか。

5)「ペケ投げ」
 本篇は、もろに「聊斎志異」です。いつからそれが始まったのかははっきりしませんが、いつのまにかそれは始まっており、またたく間に全国に波及しました。それとは「ペケ投げ」です。
 「ペケ投げ」とは何か。文字どおりペケポンのペケを投げること。「ペケ投げ」なんていわれますと、「自殺たまご」と同様、その語感に滑稽味を感じてしまうんですが、しかしてその実体はといえば、これまた自殺卵と同じで、人間社会にとってきわめて深刻な現象、事態なんですね。

 不正なことを目撃したり、許せないと感じたりしても、ふつう人間は、即それに対応して行動を起こすことはありません。余程のことがない限り胸のうちに押しとどめて、非難したりはしないものです。自制心が働きます。ところが「ペケ投げ」は、人間の自制心(理性)のコントロールが効かない不随意現象なんです。
 ペケ投げでは、許せないと感じた途端、その気持ちを制御するいとまもなく、その原因に向かって「X」を投げつけてしまっている、という行動です。その瞬間を、当人は自覚しません。とにかく無意識のうちに、当人は「ペケ投げ」をしてしまっているのです。投げつける格好をするというのではありません。不思議なことに、何も持っていない掌から、黒いX印が飛び出して、目標物(や人)にべっちゃりとくっついてしまうのです。

 そもそも人間社会は、曖昧な部分を残すことでギクシャクせずに済んでいる面があるわけですが、ペケ投げにはかかる「大人の理性」は働きません。白黒はっきりと分たれて灰色の余地はない(しかも感情という非理性的なものに立脚している)。
 要するにペケ投げって「ダメ出し」なんですね。これがとんでもない事態であることは、別に想像しなくても分かります。実際にこんなことになったら、共同幻想の上に成立している人間社会は、忽ちにしてバラバラになってしまうのではないでしょうか。そう「ペケ投げ」もまた、現在を断罪するために贈られてきたギフトなんです。

 「ペケ投げ」の原理はまったく不明となっています。怪異だとしても、人はそれをあるがままに受け入れるしかない。
 「アシュラ」はとりあえず工業生産品でした。「自殺卵」もその原理は不明ながら「宇宙の作用」と自称する半透明のトコロテン生物(?)が配って回っていました。
 けれども「ペケ投げ」には、もはやそういった(擬似科学)説明すら放棄されています。ただ「ペケ投げ」という奇怪な現象が、いつのまにか日本中(だけでなく世界中にも)に拡がっているのです。これはまさに、「伝奇」や「志怪」の筆法です。一般的なSFの疑似科学的説明とは一線を画すものです。

 管見では「怪奇」とはレ点を施して読み下せば「奇ナルヲ怪シム」となり、怪異現象を合理的に解釈するという意味に拡大解釈できます(奇怪ナリとはいっても怪奇ナリとは一般に言わないのではないでしょうか)。
 その伝でいえば、「伝奇」は「奇ナルヲ伝フ」であって、怪異を疑わずそのまま伝えるという意味です。「志怪」もまた、(「志怪」の「志」は「三国志」の「志」と同じく記述するという意味なので)「怪ナル志ス(そのまま記す)」となるはずです。
 つまるところ中国古小説の「伝奇」も「志怪」も、同じ意味内容を表現しており、それはともに「怪奇」とは対角的な態度といえる。(「聊斎志異」の「志異」も同様です。聊斎は蒲松齢の号)
 そのような意味に即せば、「ペケ投げ」は「奇ナルヲ怪シミテ」合理的解釈を目指す「SF」ではありえません*。「伝奇」「志怪」「志異」と筆法を同じくするものといえると私は思います。いささか強弁にすぎるでしょうか(笑)。
(*但し言う迄もなく広義のSFではある)
 本篇は、「自殺卵」に比しても伝奇へ傾斜しており、著者のこのような作品群の頂点的な位置を占めているように思われます。

 さて――。ペケ投げ騒動が沈静化してしまってから、主人公はこうしみじみと述懐します。
「白状すると、私は心のどこかで、ペケ投げのあった頃が、なぜか、懐かしい気がするのだが」
 この言葉は、先回引用した「今の時代をそういうかたちにすることに快感があった」に直接繋がっていくものでしょう。何もかもオブラートに包み込んで、一見、平穏平安な現代ニッポンの虚飾を、剥ぎ取ってしまいたい、ゼロへ引き戻したい、という(ゼロ世界を体験した)著者の密かな(そしていささか無責任でヤブレカブレな)願望が、ここには表現されているように私には感じられてならないのですが。

6)「佐藤一郎と時間」
 いわゆる小説の常識的な筆法の拘束から、第2グループの作品群は何ほどか自由になってきていると書きましたが、本篇はそれを批評的(再帰的)に行っているように思われます(後述する「とりこ」参照)。
 冒頭からして異色です。
「どこにでもいそうな名前でいいのだ。ある本によれば、日本で一番多い苗字は鈴木ではなく佐藤だそうである。なら、姓は佐藤で名も(今は少ないかもしれないが)ありふれた一郎でいいだろう」
 なんというテキトーさ。ラノベの命名法とはまぎゃくですね。端から虚構構築を拒絶しています。

 その、主人公である佐藤一郎は、春の或る日、散歩中に不思議な現象に遭遇します。突如、行く手の空中に半透明の物体が現れ、忽ち透明さを失って黄緑色の塊となり、草むらの向こうに落下したのです。恐る恐る首を伸ばして覗きこむと、その物体は人間に変身する最中だった! 変身を完了しどこから見ても人間の男そのものになった「それ」は、逃げ出そうとする主人公に「待たれよ」と声をかけたのです……

 鈴木二郎(!)と名乗った「それ」は、自分は人類の歴史を過去から未来へと時間を飛び越して進んでいる旅行者で、いま、この時代に辿り着いた。ついてはお話を聞かせてもらえないか、と佐藤一郎に言うのです(おそらく「待たれよ」なんて古風な呼びかけをしたのは、江戸時代あたりから跳んできたんでしょうね(^^;)。
 そして鈴木二郎は、人類は老年期にさしかかっていると思いますか、などと訊ねるのです。確かに、原発やバイオ技術やコンピュータなどは、人類の活力を維持するための、副作用も毒もある(生活習慣病の)薬のようなものなのかも、佐藤一郎は漠然と思います。

 鈴木二郎が未来へ去っていったあと、佐藤は不思議な夢を続けざまに見ます。それはケイ素型生物の、その始まりから終焉までを、ピョンピョン跳びながら、七夜で体験してしまう、というものでした。
 佐藤は、卒然と、これは鈴木二郎と同じ体験をしたのではないか、と気づく。おそらく鈴木二郎も、地球人類の終焉のときを、その目で見届けたに違いない。それが遙か遠未来なのか、ほんの数年先(ひょっとしたら数日先?)の事だったのか、それはわかりませんが。
 その後佐藤は、検査で進行性の癌である事を知る。入院しなければならないことになる。医師の雰囲気から、余命はそう長くないようだと感じる。お話は、佐藤が検査の結果を聞いたあと、病院の階段を降りてくるシーンで終わります。「銀杏は次々と黄葉を降らせていた」

 本篇は主人公である佐藤一郎が遭遇した怪現象(夢を含む)の顛末を記述するもので、これは中国古小説でもっとも一般的な「伝」という叙述形式なんですね(例えば「南柯太守伝」)。その意味で、本篇は「佐藤一郎伝」ということになる。

 「南柯太守伝」というのはこんな話。ほんのひとときの午睡に主人公は夢を見ます。門の外に立つ櫂の木の根元の穴を通って行った架空の国で、王に信任され、めきめきと頭角を現し王に次ぐ権勢を得るも失脚し、尾羽うち枯らして故郷に帰ってきたところで目覚める。目覚めて不思議に思った主人公が、当の櫂の木を調べると、果たして穴があり、掘り進めると、巨大な蟻の巣になっていて、その配置が夢のなかの王国と同じなのでした。
 その後主人公は亡くなるのですが、それは夢の中で(現実には死んでいるはずの)父と再会を約束したその日だったのです。

 かくのごとく「南柯太守伝」は、夢と現実に相関関係を張りめぐらせた筋立てなんですが、「佐藤一郎と時間」も同じといえるのではないでしょうか。
 夢のなかで佐藤一郎は、或る文明の発生から終焉までを通観する。鈴木二郎もおそらく地球文明の最期を見届ける。夢から覚めた佐藤一郎は、現実の世界で、自らの生の終焉に突き合わされるわけです。そのゆくたてが、春に始まって銀杏の落葉する秋までの間に嵌め込まれています。

 以上は小説としての本篇の要約ですが、著者の小説の例に漏れず、本篇に於いても著者自身の体験が素材として利用されています。
 実は著者自身も、あとがきにありますとおり、検査で癌が発見され手術されたという事実があるのです。幸い手術は成功し予後も順調で、今現在著者は以前にもましてピンピンされていてお元気なんですが、執筆されたのは癌が発見された直後から手術前という時期で、いろいろ精神的にもしんどかったこともあったのではないでしょうか。本篇の色調にはそれが反映されているようにも感じられます(いまそれを何を憚ることもなく公言できることを、私はとても嬉しくありがたく思います)。ということで、次は「退院後」を読みます。

7)「退院後」
 先回読んだ「佐藤一郎と時間」と本篇「退院後」、そして次の「とりこ」は、三部作ということになるかと思います。
 これまでも著者は自己を小説の基底に据えるのが特徴だったわけですが、しかしそれは小説世界が、著者がこれまで生きてきた、そのことにおいて必然的に遭遇し決断し処置して来た、来ざるを得なかったところの、現実世界(歴史)への対峙(格闘)の仕方と重ね合わせて、納得できなければならない、納得できないことは書けない、といった、一段階高次のレベルでそうだった。
 著者のリアルな、具体的な体験がそのまま小説の素材となることは少なかったはずです。たとえば小説世界が、固有名詞を隠しているだけで大阪南部の土地を知るものには自明であるとか、朝が極端に弱いので目覚まし時計を何個も枕元に置く(というのは私の著者に抱くイメージだけれども、それに類する描写は著者の作品に枚挙にいとまがないはず。「あの真珠色の朝を…」はオブセッションでしょう(^^;)とか、いかにも著者を彷彿とさせる図ですが、前者は主体性に関わってくるものではなく、後者はある意味小説家一般のイメージともいえます。

 今回の三部作はそういうレベルではなく、まさに「著者の現実」が小説の核となっている(傍証として「佐藤一郎と時間」では主人公の職業の記述はないのですが、後二者でははっきり作家であることが、それもどうやらSF作家らしいことが分かるようになっている。本集収録作品中で主人公が(SF)作家となっているのは、この2篇のみ)。まさに、「私小説」そのものです。もっとも、そうはいっても単なる私小説に終始してしまわないのがこの著者らしいところでありまして、最終的にはやはり想像的な領域へと拡大していくのですね。

 さて本篇です。主人公は「私」。名前の記載はないですが「佐藤一郎」ではないと思います(ああ、先に言っておきますが、小説内人物として別人という意味です)。が、その世界設定は引き継いでいます。
 「佐藤一郎……」のラストで、主人公に進行癌が発見されました。それを引き継ぐ本篇では、すでに入院手術は成功しており、主人公「私」は5日前に自宅に戻ってきている。というところから話は始まります。しかし長期の入院生活でまだふらふらの状態。こんなことで回復するのだろうかと「私」はあやしく思っています。
 また主人公は、自分が世の中から遅れ始めていることにも(これは既に10年ほど前から)気づいている。「外の世界」に対する興味も、それに関わっていこうという意欲も、減退してしまっている。 橋元淳一郎的に言うならば「生への意志」が希薄化しているのですね。あともうひとつ、それと同時に現代社会の「棄老」傾向に嫌気がさしているせいでもあるのです。

 話はそれますが、前者に関してはこれは多分に老化の一般現象で、実際私も、近頃とみに「外の世界」への関心は減退していまして、新聞もしっかりとは読まなくなってきました。テレビも別に見たいとは思いません。50代も後半になれば、誰でもそうなのではないでしょうか。違うのか。
 いや政治家をみなはれ、ぜんぜん「生の意志」は希薄化などしてませんがな、ですって? たしかにそうかもしれません。しかしそれは忙しすぎて、実は惰性なのに、それに気づく暇がないだけかも。というのは、仕事関係で、(オーナー)社長を引退し息子に譲った方が、複数、引退した時点では元気だったのが、数年たたず亡くなっているという例を私は知っているからで、「仕事一筋」でやって来た人が、あるいは「社内抗争」に明け暮れていた人が、とつぜん、というか、「生まれて初めて」走るのをやめたとき、一気にそれがやってくるのではないか。

 閑話休題。要するに外界への関心の低下は、老齢化の一般的現象でもあるということを言いたかったのでした。いまひとつの社会の「棄老」傾向も、次の「とりこ」で、客観的に看破されているように「社会」の本質的契機にほかならないので、これまた社会が老齢者から「生への意志」を奪っていくという一般現象の面がありますね。

 さて、退院して5日目の「私」は、ふらふらしながらバスに乗っています。と、とつぜん視界が真っ白になり、バスの中ではないようです。そしてその白い霧の中から、過去の知り合い達がぼんやりと現れ、次第にはっきりとした姿を持ち、近付いてきては、「私」の横を通り過ぎ、通り過ぎると同時に消えていくのでした。そしてその知り合い達は、何ほどか、「私」が記憶しているその人達のイメージとは違うのです。
 そのとき、頭の中で、だれかの声が聞こえてきたのです。声は言います。そもそもあんたの記憶が怪しいんだよ……

 その後も主人公の視界は何度も変化し、そのたびに自分が知っている現実とは少しずつ異なったものが見えてくる。
 その理由を、声の主が言う。「あんたは、あんたたちの共同幻想である世界に生きている」「その中であんたは、その共同幻想からこぼれ落ちようとしている。老化や病気で、もはや共同幻想*のうちにとどまっていられない人だ」

 *この「共同幻想」というのは、おそらく(吉本隆明のでも岸田秀のでもなく)松井孝典が説く共同幻想です。例の東京堂書店のフリーペーパー「眉村卓が選ぶ10冊」に松井氏の『我関わる、ゆえに我あり』が選ばれており、私も読みましたが、基礎素養が達してなくてよくわかりませんでした。課題とします。
 でも要するに、私の知識内解釈でも、世界に参加してこそ生の快感が実感できるというのは社会学の根本命題なので、その視点からしても、上記の理由で「生の意志」が減退すると引力よりも斥力が勝ち始めて、最後には振りほどかれてしまうというのは妥当性があるように思いますね。

 やがて、脳内に言葉を送ってきた当の存在が姿を現す。それはこんな姿。「高さ20センチか30センチ、太さ直径10センチばかりの指サック状」「ちゃんと小さな目が二つと、裂け目のような口があった。両腕もあった。その裾の下からは二つの足が見えている」
 ……えと、それって眉村さんが描くおなじみの「タックン」とか「卓ちゃん人形」と呼ばれているキャラクタでは?(汗)
 
 こいつが、あんたらは自分たちが現実に存在していると思い込んでいるが、そして共同幻想の中に生きているが、実はそもそも、あんたらはわれわれ(タックン)の想像の産物、われわれが「あんたらを生み出した存在だよ」、だからあんた(主人公)を消去することも簡単にできるのだと、のたまうのです。
 ああそうでっか、と主人公、(そもそも生の意志が薄れていますから)じゃあ消してもらって結構と売り言葉に買い言葉。
「そうかそうか」「じゃ、そろそろそういうことにしよう」「消えてもらうよ。さらばだ」
 そのとき主人公は重大なことに気づきます。実は……!?
 ――いやだいたい、タックンが「共同幻想」なんて言葉を弄しているのもそうですが、そもそもそいつが「タックン」であることからも、それは当然の理路なのです(笑)

 ということで、「私」は消滅していない様子ですが、すでに共同幻想から離脱しているからでしょう、世界は確固たる相を失っており、視界は像を結ばず、輪郭のないぼんやりした異空間として現前している。主人公はその流動的な流れの中を漂流するばかりなのです。

 ところで、興味深い記述がありました。「私」が現在の「私」に至ったのには、来し方における重要な分岐点で、こちらに来るように曲がってきた結果なんです。そういうことですよね。
 ところが、上記の白色空間に現れる、自分の記憶とは異なった映像の一つとして、そのような分岐点で、別の道を選択しようとしている「過去の私」が現れます。そしてそのことによって「私」を戦慄させるのです。
「かつて私の書いたものを読んで、この筆者は幼児回帰願望を持っていると決めつけた者がいたけれども、それは錯覚である。過去を語る人間がみな幼児あるいは少年的回帰願望を持っていると思うのは、私に言わせれば文学中毒である」
 として、
「少なくとも私の場合、過去は、そこからうまく今のコースに抜け出せた記念碑なのだ。そこからもしも別の道に行っていたなら、今のおのれはない。今の道を来たから自分は助かっているのである。私はそう信じる。だから過去は、私が憎み恐れる対象なのだ。現在の自己を肯定できなければ、おのれを信じるのは不可能である。現在の自己を肯定するには、過去、自分が選ばなかった方向につながる過去を憎悪すべきなのである」

 だから、白色世界に浮かぶ、過去の「自分」達の「間違った」決断に、主人公の「私」は恐怖したわけです。言われてみればそのとおりですが、ちょっと独特の観点でもありますね。
 いうまでもなくこの部分は、主人公というより、著者自身の生の発言というべきでしょう。本篇の「私小説」性が最も際立った部分です。そういえば著者は何かのインタビューだったかで、人生をやり直せるとしたらどの時点に戻りたいか? との質問に、やり直したくない、と回答していたのではなかったでしたっけ。

 結局、本篇は何だったのか? 老齢化と社会の棄老傾向でいいかげん社会(共同幻想)からの斥力が働いていた主人公の「私」が(もちろんその頃からうすぼんやりと半自覚してはいたのでしょうが)、大病を患ったことで(手術の結果は成功だったけれども)、年齢からしても病気からしても、いつ死んでもおかしくない、いつ死んでも想定内だということをはっきり自覚し、客観的に見られるようになり、ある意味開き直った、その軌跡を定着させたものといってよいのではないでしょうか。

8)「とりこ」
 冒頭の、「今回は、緑映一にしよう」は、もちろん「佐藤一郎」を踏まえています。だから「今回は」となるわけですが、となると、この「今回は、緑影一にしよう」とつぶやいているところの所謂「話者」は、一体だれなのか? 当然主人公である緑映一ではありえませんよね。
 いうまでもなく作者なんです。「佐藤一郎と時間」を書いた(語った)作者が、今回、本篇「とりこ」も書いた(語った)ということが、表現されているわけです。
 そうしますと、「私」が主人公の「退院後」も、形式の慣性で「私」が話者(視点人物)のように見えますが、やはり作者が視点人物として語ったもの、と見てよいのではないか。

「どこにでもいそうな名前でいいのだ。ある本によれば、日本で一番多い苗字は鈴木ではなく佐藤だそうである。なら、姓は佐藤で名も(今は少ないかもしれないが)ありふれた一郎でいいだろう」も、「今回は、緑映一にしよう」も、この二人の主人公を話者と考えると浮き上がってしまう一文ですよね。でも、なぜ著者がこうしたのかに思いを致せば、当然こうでなければならない仕掛けであったことに気づされない訳にはいかない。

 結局(「私」も含めた)この三人の主人公は、著者が演じている、もしくは著者が中に入っている着ぐるみと考えてよい。作品の冒頭で著者は、今から被る着ぐるみに、とりあえず仮の名前をつけたんですね。あ、それからもうひとつ、演じているわけですから、彼らは著者そのままではない、ということも念のため記しておきましょう。

 そうするとどうなるのか。この三部作は単なる私小説ではなく、「作者の内的世界を舞台にした、神の視点から描かれる一般小説」ということになるのです(いわずもがな、作者の内的世界における神の視点とは、つまるところ作者の視点に他なりません)。
 そのような二段階構造を採用することで、ようやく著者は、自身の状況という、ふつう目を瞑ってしまいたい、なかなか客観的に見るということが困難なものをテーマにしたこの三部作を完成させることができたのではないか。私はそのように受け取りました。

 さて、前作「退院後」は、文字どおり退院したばかりの主人公が、バスに乗っていて不思議なヴィジョンを見る話でしたが、本篇では、退院して1か月後の世界が舞台となります。
 もちろん前作とは別の話ですから、「私」と「緑映一」は別人格です。「私」が見たヴィジョンを「緑映一」は見ていません(というか「私」は共同幻想を失って、いつともどこともいえない場所をさまよい続けているはずです(^^;)。
 しかし着ぐるみの中の人は作者自身ですから、この三作は内的に連結しているのです。

 退院して一か月経ったけれども、まだ体力は戻らず、歩くと体がふらふらと傾いてしまうのですが、それでも緑映一は、そろそろ物書きの仕事を再開しようと思いたち、デパートへ原稿用紙や消しゴムなどを買いに出かけます。そのデパートの特設売り場で「幸運をもたらす水晶玉」が販売されているのを見かける。ちょうど入院保険が下りたところだったので、少々高価だったけれども、販売員に勧められるままに購入する。販売員は緑に、一週間したらまた来て下さい。幸福になっていますよ、というのでした。

 帰宅し、水晶玉を取り出し、机においてぼんやり見入っているうちに、緑映一は眠ってしまい、ふと目覚めると、目の前に自分の顔があってぎょっとします。緑映一の「意識」は水晶玉の中に取り込まれてしまって、その視点から、自分自身(いわば魂の抜け殻)を見ていたのです。

 見えている視界は、固定されたテレビカメラのように動かせません。なのでじっと自分の顔を見つめることしかできない。一方、抜け殻の方も微動だにしない(多分まばたきもしない)。凍りついている。
 そのうち過去のいろんなことが思い出されてきます。どんどん記憶が甦ってきて、それこそ意識がめばえてからの70有余年をすべてたどり直したのではないかと思われるほど。その間、眠ったりもするのです。思い出すのにもある程度時間を要しますから、どうやら自分は、10年以上こうしているようだ、と気づきます。一方、抜け殻の方はまったく変化がなく、時間の経過は認められません。

 ふと気づくと、元の体に戻っていました。時計を確認すると、水晶玉を机においてぼんやり見つめた時間からほとんど経過していなかった。水晶玉の中で、自分は10年以上過ごしたという確かな感じがあるのに、です。

 ところで「魚服記」は「夢応の鯉魚」の元ネタですが、周知のように意識が鯉の中に閉じ込められる話です。ただし「魚服記」では抜け殻と意識の時間の流れは同じです。一方「邯鄲夢」は、主人公は夢の世界で20数年過しますが、夢から覚めれば、ほんの一瞬のうたた寝であったことを知る。どちらの設定も中国古小説にはよくあるパターンです。「とりこ」はこの両方の要素を持っています。その辺は中国古小説っぽいのですが、視点の距離感がちょっと違います。本篇の方がずっと近い。この視点距離の近さは、本篇の創作動機からの必然なんですね。

 話がそれました。この異様な体験後、またとり込まれては大変と、緑は水晶玉を仕舞い込んでしまうのですが、その一週間後、病院の検査で癌が再発していることが判明します。体力が落ちているので再手術が可能なものかどうか、抗癌剤治療にするか、様子を見ましょうということになり、病院をあとにする。
 緑は、水晶を購入したデパートに向かう。一週間前購入した際に、販売係の女性に一週間経ったらまた来て下さい、と言われていたのを覚えていたからです。
 特設売り場はまだあり、一週間前の販売係はいなかったけれども、ショーウィンドーの中にはケースに入った水晶玉が並べられ、そのうちの一つは、水晶玉が見えるようにフタを外されていました。
 それに見入った途端、緑の脳内に、わっと、水晶玉に閉じ込められていた10数年間に想起した無数の記憶や想念が、ふたたびとび込んできたのでした。
 が――そのとき緑が感じていたのは、「幸福感」といってよいものだったのでした……

 「退院後」で「開き直る」に至った「主人公」は、本篇では、さらに「肯定」の境地に達したのです。いや、「佐藤一郎……」からでは180度転回したのではないでしょうか。
 うーむ。この感覚(幸福感)、実はちょっとわかりづらかったのです。でもこれが著者の「実感」なんでしょうね。で、ふと「午後の恐竜」を思い出したら、なんとなく類推的に了解できたような気がしたのですが、しかしそれが正しいかどうか、よくわかりません。本当のところは私自身が、著者のように死を間近にしてはじめて、思い至ることなのだと思います。

 ここで書いておくべきだと思うのですが、著者が着ぐるみをかぶって演じた本篇は、当然小説ですから、小説の要請に従って創作もあれば、元ネタである事実を改変して利用しているところもあります。緑映一は癌が再発してしまいますが、現実の著者の場合は、検査で腫瘍が認められたものの、精密検査でそれが良性のものであることが判明し、よかったよかった、ということだったのです(^^)。
 現在の著者は、むしろ手術前よりも仕事量は増えていると思います。事実今年になってからの出版も、本書で既に(復刊も含め)5冊目で、これは70年代80年代の、一番忙しくされていた時期に匹敵するのではないでしょうか。そもそも強靭な基礎体力をお持ちなのです。
 本書を読まれた方の中には、心配された方もいらっしゃるかもしれませんが、そういう次第ですので、どうかご安心下さい!

 以上、眉村卓『自殺卵』読み終わりとします。

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