機本伸司『恋するタイムマシン 穂瑞沙羅華の課外活動』(ハルキ文庫、16)読了。
本書には(解説で眉村さんが指摘しているように)ふたつのテーマがあります。
一つはタイムマシン(はなかなか難しいとわかりタイムプロセッサーにダウンサイジングされるのだけれど)を実現しようとするハードSF的物語(必然的に時間とは何かが考究される)。
「そもそも時間は、生きているからこそ感じられると思わないか」両備さんは、自分の胸のあたりを指さした。「時間の本質はまだ分からないにせよ、それを測る何らかの”物差し”は、こっちの中にあるのかもしれない」(107p)
「わしなんかには、そもそも時間なんて、客観的ではあり得ないような気がしてるんだ。何故なら外に流れる時間を、自分の”体内時計”と照合して認識しているわけだろ? たとえは良くないかもしれないが、死人に時間はないじゃないか」(233p)
どうやら著者は、時間の流れは外的には存在せず、主観の側にあると言っているようです。これは橋元淳一郎さんの時間論に触れたことがあるものにはよくわかります。ミンコフスキー時空図に表現されるように、時間は流れているのではなく、高次元から見ればそこに(定まって)在るもので、それをエントロピー増大の方向に向かって時間の流れとして感じさせる(発生させる)のは、生の意志だとされます。
それでふと、話は飛びますが、筒井康隆『モナドの領域』の宇宙論を思い出しました。
筒井的GOD宇宙では、始源から終焉まで、時間は確定している(運命)。但しこの宇宙は並行世界の存在する宇宙です。そしてその無数にあるのだろう並行世界も確定世界である。主体I(人間とは限らない)は、任意の宇宙で運命は定まっているのですが、無数の並行宇宙には無数のIがいるわけです(いない宇宙もある)。だとすればある任意の宇宙でのIの未来は確定しているのだとしても、無数の並行世界は無数のIが、少しずつ違う可能性を体現して(ただしその世界では確定した生を)生きている。結果としてIは、全ての可能性を運命として生きている事になるのです(イーガンかよ)。
つまり未来は改変できないが、すべての可能性の未来は体験されているのですねえ(^^;
閑話休題。次にもうひとつのテーマ。主人公である天才少女は、天才らしくサバン的傾向があって、「人の気持ちがうまく理解できない」ところがある(それがために他者との関係を結べず研究の世界に逃避している面があるように読み取れる)。
本篇の視点人物である「僕」は少女のマネージャー兼お守役的人物なのだが、なんとかしてその孤立的な性格を(世界に対して開かれるように)「直し」てあげたいと考えている。本篇の一連の事件を通じて、少女は「僕」の導きもあって「改善」されていく(のですが、このゆくたては、ちょっと私には首肯しかねる部分があります※)
それはさておき、その説明として上に「死人に時間はない」と引用しましたが、それを言い換えれば「時間なんて、他に誰かがいてくれるから流れるようなものかもしれない」(234p)となる。なるほど、そうかもしれません。そしてこのアナロジーを少女の孤立性に対置している。
これは正しいといえば正しいのですが、少女がサバンだったなら、むしろ苦しませるだけではないか、とも思いました。
解説で眉村さんは「未発達性」と書かれていますが、私は、著者はサバンとして設定しているんじゃないかなと思いました。ただしサバンとみなせば異常にコミュニケーション能力のあるサバンではある。だとしたらラストシーンがまたよくわからなくなる。やはり未発達とすべきか。まあ発達障害とサバンの境目は曖昧ではあるのですが……
はじめて読みましたが、予想以上に面白かったです。このシリーズ、第一話から読んでみたくなりました。
※補記。「ちょっと私には首肯しかねる部分」を説明しておきます。私は、第一のテーマの面白さに比して、第二のテーマの部分に少し抵抗を感じさせられたのでした。それは「僕」の沙羅華に対する態度が(本心から彼女をおもってのものであるにしても)いささか既存のありふれた観念を疑いもなく振りかざしているように見えたからにほかなりません。
眉村さんが指摘された「未熟」とは、沙羅華のそれに対して向けられたものですが、むしろ私は「僕」のほうにそれを感じてしまいました。
私に言わせれば、沙羅華はラファティ世界によく現れる人物なんですね。ですから沙羅華に対する「僕」の衷心よりの忠告やら何やらは、たとえば『蛇の卵』の歩くコンピュータ女子イニアールに対して、人間てひとりでは生きられない存在なんだよ、と教え諭しているかのような、また教え諭しているものに対しては、なにを的はずれな説教を、というなんとも居心地のわるい感覚になってしまったのでした。
ラノベというものを読んだことがないので見当違いかもしれないのですが、ラノベの原則としてこのような公式的な常識を書き込まないといけないのでしょうか(それはある意味了解できます)。「これはまあ、作者が意図的に書いたのであろうが」という眉村さんの言葉からそう推測した次第なんですが、たしかに眉村さんの評言「この(1)と(2)の奇妙なアンバランス」は、私も感じないではいられませんでしたねえ。
本書には(解説で眉村さんが指摘しているように)ふたつのテーマがあります。
一つはタイムマシン(はなかなか難しいとわかりタイムプロセッサーにダウンサイジングされるのだけれど)を実現しようとするハードSF的物語(必然的に時間とは何かが考究される)。
「そもそも時間は、生きているからこそ感じられると思わないか」両備さんは、自分の胸のあたりを指さした。「時間の本質はまだ分からないにせよ、それを測る何らかの”物差し”は、こっちの中にあるのかもしれない」(107p)
「わしなんかには、そもそも時間なんて、客観的ではあり得ないような気がしてるんだ。何故なら外に流れる時間を、自分の”体内時計”と照合して認識しているわけだろ? たとえは良くないかもしれないが、死人に時間はないじゃないか」(233p)
どうやら著者は、時間の流れは外的には存在せず、主観の側にあると言っているようです。これは橋元淳一郎さんの時間論に触れたことがあるものにはよくわかります。ミンコフスキー時空図に表現されるように、時間は流れているのではなく、高次元から見ればそこに(定まって)在るもので、それをエントロピー増大の方向に向かって時間の流れとして感じさせる(発生させる)のは、生の意志だとされます。
それでふと、話は飛びますが、筒井康隆『モナドの領域』の宇宙論を思い出しました。
筒井的GOD宇宙では、始源から終焉まで、時間は確定している(運命)。但しこの宇宙は並行世界の存在する宇宙です。そしてその無数にあるのだろう並行世界も確定世界である。主体I(人間とは限らない)は、任意の宇宙で運命は定まっているのですが、無数の並行宇宙には無数のIがいるわけです(いない宇宙もある)。だとすればある任意の宇宙でのIの未来は確定しているのだとしても、無数の並行世界は無数のIが、少しずつ違う可能性を体現して(ただしその世界では確定した生を)生きている。結果としてIは、全ての可能性を運命として生きている事になるのです(イーガンかよ)。
つまり未来は改変できないが、すべての可能性の未来は体験されているのですねえ(^^;
閑話休題。次にもうひとつのテーマ。主人公である天才少女は、天才らしくサバン的傾向があって、「人の気持ちがうまく理解できない」ところがある(それがために他者との関係を結べず研究の世界に逃避している面があるように読み取れる)。
本篇の視点人物である「僕」は少女のマネージャー兼お守役的人物なのだが、なんとかしてその孤立的な性格を(世界に対して開かれるように)「直し」てあげたいと考えている。本篇の一連の事件を通じて、少女は「僕」の導きもあって「改善」されていく(のですが、このゆくたては、ちょっと私には首肯しかねる部分があります※)
それはさておき、その説明として上に「死人に時間はない」と引用しましたが、それを言い換えれば「時間なんて、他に誰かがいてくれるから流れるようなものかもしれない」(234p)となる。なるほど、そうかもしれません。そしてこのアナロジーを少女の孤立性に対置している。
これは正しいといえば正しいのですが、少女がサバンだったなら、むしろ苦しませるだけではないか、とも思いました。
解説で眉村さんは「未発達性」と書かれていますが、私は、著者はサバンとして設定しているんじゃないかなと思いました。ただしサバンとみなせば異常にコミュニケーション能力のあるサバンではある。だとしたらラストシーンがまたよくわからなくなる。やはり未発達とすべきか。まあ発達障害とサバンの境目は曖昧ではあるのですが……
はじめて読みましたが、予想以上に面白かったです。このシリーズ、第一話から読んでみたくなりました。
※補記。「ちょっと私には首肯しかねる部分」を説明しておきます。私は、第一のテーマの面白さに比して、第二のテーマの部分に少し抵抗を感じさせられたのでした。それは「僕」の沙羅華に対する態度が(本心から彼女をおもってのものであるにしても)いささか既存のありふれた観念を疑いもなく振りかざしているように見えたからにほかなりません。
眉村さんが指摘された「未熟」とは、沙羅華のそれに対して向けられたものですが、むしろ私は「僕」のほうにそれを感じてしまいました。
私に言わせれば、沙羅華はラファティ世界によく現れる人物なんですね。ですから沙羅華に対する「僕」の衷心よりの忠告やら何やらは、たとえば『蛇の卵』の歩くコンピュータ女子イニアールに対して、人間てひとりでは生きられない存在なんだよ、と教え諭しているかのような、また教え諭しているものに対しては、なにを的はずれな説教を、というなんとも居心地のわるい感覚になってしまったのでした。
ラノベというものを読んだことがないので見当違いかもしれないのですが、ラノベの原則としてこのような公式的な常識を書き込まないといけないのでしょうか(それはある意味了解できます)。「これはまあ、作者が意図的に書いたのであろうが」という眉村さんの言葉からそう推測した次第なんですが、たしかに眉村さんの評言「この(1)と(2)の奇妙なアンバランス」は、私も感じないではいられませんでしたねえ。