チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

アジアの岸辺

2005年01月04日 20時23分11秒 | 読書
トマス・M・ディッシュ『アジアの岸辺』若島正編(国書刊行会、04)

 非常にバラエティに富んでいて、著者の筆巧者ぶりに驚かされる。わたし的には表題作や「リスの檻」にディッシュらしさを感じる口なので、案外軽い話も書いているんだなあと再認識させられた。
 とはいえ、基本的にはどの作品も「不条理小説」である。その根本は変わらない。この「不条理」とはもちろんカフカ的な意味でのそれで、通俗的な「小説」のお約束である「主人公はその正邪善悪にかかわらず小説内で特権的である」といった根本命題ははなから無視される。

「降りる」(64)の主人公は、何の理由もなく下降エスカレータに閉じ込められ、理由もなく死んでいく。

「リスの檻」(66)というイメージは、著者に強いインパクトがあるらしく本集でも何度か言及される。本篇のシチュエーションは、編者あとがきにもあるように、まさに「絵にかいた」ようなカフカ的不条理。

「リンダとダニエルとスパイク」(67)は、一種社交性に問題があるリンダの妄想が妊娠と勘違いした子宮癌細胞を内宇宙的に「出産」してしまうのだが、15年後、末期癌で死んだリンダを「息子」は火葬にしてほしいと希望する。凄絶な不条理。

「カサブランカ」(67)は、これぞ小松左京が「続日本沈没」で書き上げねばならなかった不条理。傑作!

「アジアの岸辺」(70)は、イスタンブールという西洋と東洋の交点を舞台にした、バラード的熱気に満ちた幻想小説。ものすごい迫力ながら、この作品の意図が実はまだピンと来ていません。なぜトルコ人に(あるいは東洋に)包摂されてしまうのか? 理由などないそれも不条理ということでしょうか。
 と考えていたら、次作でなんとなく腑に落ちる。

「国旗掲揚」(73)は皮フェチのおかまを矯正し、社会的に成功した男が、栄転した先のアトランタという風土に絡め取られてしまう、ある意味表題作と同テーマで、表題作の主人公同様、この結末は「際限なき不条理」からの「救い」であるのかも。

「死神と独身女」(76)は、ベスターが書きそうなアイデアストーリー。

「黒猫」(76)は結末が端折りすぎで、失敗している。

「犯ルの惑星」(77)は、ディレーニイ的な線を狙ったのかもしれないが、SF的世界構築がきっちり出来ていないので、いまいちピンと来ない。

「話にならない男」(78)は、近未来社会テーマの、眉村卓が書きそうなシチュエーション。原題はThe Man Who Had No Ideaで、他人の話に対して受け答えできても、自分の考えを持っていない、能動的に話が出来ない男の話なので、邦題はやや不適切か。一種のファルスである。

「本を読んだ男」(94)、これも近未来社会テーマの、眉村さんが書きそうな話、というか既に似た話を書いている。本の売り上げではなく、各種補助金で成り立つ作家業という、おそらくアメリカの状況を自嘲しているのだろう。日本の純文学も同様かも。

「第一回パフォーマンス芸術祭、於スローターロック戦場跡」(97)も前作と同じテーマで、ただし本作では出版ではなく、パフォーマンス芸術が揶揄される。日本の演劇や大道芸でも同様の状況が認められるのではないだろうか。

 というわけで、本集は、ほぼ発表年代順に並んでおり、おおむね後になればなるほど幻想性は薄れ、身も蓋もない世界が展開される。もともと殺伐とした認識が著者の持ち味なのだけれども、表題作にあったような一種装飾性というかうるおいというか芳醇さは消えてしまい、まさに現代アメリカ文学と区別がつかなくなってしまうのはやや残念な気がします。
 81年の出版ということもあるけれども、ディレーニイ編のベスト集 Foundamental Disch(岡本さん経由で知ったファンサイトに掲載されています) で、ディレーニイがセレクトした作品は全て75年以前の作品であるというのも、なんとなく分かる気がした次第。


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