チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

眠れる人の島

2006年01月18日 00時37分24秒 | 読書
エドモンド・ハミルトン『眠れる人の島』中村融編(創元文庫、05)

 『反対進化』に引き続く中村融編日本オリジナル短編集である。前掲書がSF編なら、本書は幻想怪奇編ということになる。
 いずれにしても編者の 「キャプテン・フューチャーだけがハミルトンではないんだよ、それは大間違いだよ」という強い信念がひしひしと伝わってきて、「なるほど、ハミルトンはキャプテン・フューチャーだけではないんだ!」と深く頷いてしまう。「むしろこっちが本領なんだよな」ということが自然に納得できる。そういう編者のセレクションが効いた傑作集である。

 とにかく面白い。面白いだけでなく、いろんなタイプの作品が収録されていて、ハミルトンの作風の幅の広さに驚かされる。

 今回特に感心したのが、描写の映像喚起力のすばらしいこと。必要最小限の描写なのに、ありありと解像度の高いイメージが目の前に浮かんでくる。必然的にその作物は、良くも悪くも、というより否応なく「映画的」とならざるをえず、そのことは本書の全ての作品によって検証されるだろう。

 その点、キャプテン・フューチャー作品にはかかる技倆の冴えが充分には発揮されていないように思う。というかスペオペの描写にクリアな解像度はあまり必要ないのだろう。キャプテン・フューチャーしか知らなかった読者は、とりわけこの辺を吟味されたい。(*以下、収録作品は全てウィアードテールズ誌に初出、タイトル横の括弧の数字は掲載年)

 「蛇の女神」(48)は典型的メリット譚。ヒロイック・ファンタシーではなく、まさにメリット的な善悪二元論的世界設定に主人公が巻き込まれていくタイプの物語である。アウターリミッツのような映像が浮かんでくる逸品。
 原題はserpent princessなので邦題は間違いではないのだが、ヘビといってもsnakeではなく、ここに描かれるのはウミヘビなので、私は「海蛇姫」を提案したい(>却下!)

 「眠れる人の島」(38)はホジスン風海洋幻想譚。上掲作品と違ってSF的アイデアがあり、私は辛うじて数行手前で気がついた。
 このオチは、ある意味ヴォークト的といえるものなのだが(たとえば非Aは48年なので前後関係的にはヴォークト的というのはおかしいかもしれない。しかしわたし的にはこういうのはヴォークト的と認識されてしまう)、しかしながら、ヴォークトなら「眠れる人は目を覚ました」でプツンと断ち切って終わるに違いない。そういう意味では、その後の記述は蛇足ともいえるが、逆に(説明的という意味で)SF的ともいえる。私はヴォークト的が好み。

 ところで、思いついたのだけれど第3の結末がありえるのではないか。それは[ 目を覚ます→消える→目を覚ます ]というもので、最後の「目を覚ます」場所は、浜辺の漂着した船の中とする。つまり無限ループするというものなのだが……ダメ? しつれいしました!

 「神々の黄昏」(48)は、タイトルで判るように北欧神話をベースに展開するヒロイック・ファンタシー。
 ただし北欧神話世界を、この世界と重なって存在する平行世界(≠分岐世界)に設定してたところがミソ。しかもその異世界がなぜこの世界の神話に混入したかもうまく説明できている。

 ストーリーは「行って帰ってくる(また行く)」というハミルトンストーリーのいつもの基本型(ただし「来て戻って帰ってくる」という風に変形複雑化がなされてはいる)で、安心して楽しめる。北欧神話異次元世界の風景描写が実に魅力的で素晴らしい。

 「邪眼の家」(36)は、いわゆるゴーストハンターもので、まるでハマー・プロの映画を観ているような感じ。一気に読んでしまった。
 ホームズとワトスンを踏襲するデール博士と助手のオウエンが、悪なる存在と契約して「邪眼」を手に入れた男(ピーター・ミオーネ)に挑むのだが、わたし的には同種のカーナッキやジョン・サイレンスもののそれよりずっと面白かった。

 とはいえその面白さは上述のように良くも悪くも映画的なのであって、後で思い返せば、ラストのミオーネが「邪眼」を放棄する場面は、ただ「取り消す」と叫ぶだけというのは、契約の破棄にしてはあまりにご都合主義で呆気なさ過ぎるし、邪眼という超自然的なものに対するデールの武器もまた、超自然的なのはSF読みとしてはいささか物足りない気がしたのだけど、読んでいる最中は全然気にならなかった。

 20世紀初頭のマサチューセッツ州トーリストンの町並みの描写がいかにも怪奇探偵小説らしい味を出していて、実によかった。余談だが、ハマー・プロで映画化するならば、やはりピーター・ミオーネはクリストファー・リー、デール博士はピーター・カッシングだな(原作の描写とはちょっと違うけど)。
 
  「生命の湖」(37)は、170pの中長篇(ノヴェラ)。あとがきに「メリット流秘境冒険譚」とあるが、「ハガード流」という方がふさわしいのではないだろうか? いやこれは巻措く能わずの面白小説であった。

 ――アフリカは仏領コンゴの奥地に、死の山脈と呼ばれる峻険な環状山脈があるという。その内側盆地に、光る水を湛えた<生命の湖>があり、その水は飲むと永遠の生命を得られると、現地の民は信じている。
 ただその山脈は魔法がかけられており、足をかけただけでその者に死が訪れる。よしんば山脈を越えることができて湖に到達したとしても、そこには恐ろしい<守護者>がいて湖を守っている――らしい。
 探検家の主人公は、死に瀕して生に執着するアメリカ有数の金持ちに雇われ、他の4名のはみ出し者を率いて永遠の生命の水を求めて死の山脈をめざす。……

 というわけで、まさにハガード「ソロモンの洞窟」の向うを張ったような秘境冒険小説なのだ。ただ違うのは、本作がある意味「チーム小説」でもある点だろう。そのチーム小説という点でいえば、本書は、実に山田正紀を彷彿とさせるところがある。

 とりわけ出だし、彼らの船がフランス軍艦に発見され追跡されるシーンから、環状山脈へ流れ込む川を筏で急流くだりしていくシーンまで、息を継がせぬアクションが連続するのだが、とりわけここで私は「あ、山田正紀だ!」と思った。主人公を中心にそれぞれの特技を生かして、いわば分業的にミッションを進めていくところはそっくり。
 それと同時に、このシーンはいかにも映画のプロローグ的な見せ場になっていて、まさにつかみばっちりな開幕部分となっている。

 山脈の内側に到達してからは、2部族の抗争に巻き込まれたり、「プリンセス」と相思相愛になったりと、この辺はバロウズ的お約束どおりに進行していくのだが、終盤、メンバーがひとり、またひとりと斃れていく筋立ては、また山田正紀的なストーリー展開に復帰するものだ。

 ラストに展開される「不死(永遠)こそ業苦」という一種東洋思想的ニヒリズムは、ハミルトンのスペースオペラにおいても時折見られるものなのだが、一般的なアメリカン大衆小説には類例がないのではないだろうか。
 たとえばバロウズならば「不死」は肯定されこそすれ、ネガティブに捉える視点はありえないように思う。これはあるいは、ハミルトンの体内に流れる(我々日本人とも繋がっているらしい)ネイティブ・アメリカンの血のしからしめるものなのかも知れないと、いま思いついた(汗)

 ともあれ、本篇もまた、映画そのものといってよいフレームで作られており、いうなれば文字で刻まれた映画といって過言ではないだろう。それは一に著者のすぐれて映像的な描写力の賜物なのであって、わずか数語で、著者の技倆は読者の裡にありありとした映像を喚起する。一から十まで蜿蜒と描写したところで(最近の作家の悪弊である)、だからといってクリアなイメージが読者に伝わるとは限らないことを、ハミルトンは身をもって証明している。

 さてこの作品、私ならばどんなキャスティングにするだろう。主人公はやはりインディジョーンズのハリソン・フォード? いやいやこの映画は、わたし的にはもっと古いイメージ。しかしチャールトン・ヘストンではごつすぎてこの主人公のイメージではないのだよなあ。グレゴリー・ペックではどうだろうか(^^;
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