チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

批評理論入門

2005年04月29日 11時01分41秒 | 読書
廣野由美子『批評理論入門 『フランケンシュタイン』解剖講義(中公新書、05)

 本書のタイトルについて著者は、もともと「新・小説真髄」というのを考えていたそうなんですが、編集部によって変更されたとのこと。
 元の原題の方がずっと内容を体現しています。大体編集による改変が改悪でなかったためしがなく、本書もその弊を残念ながら免れておりません。
 そういうわけで、本書の狙いは原題どおり、小説の真髄すなわち小説とは何か、あるいは「小説を読むとは何か」ということで、それを『フランケンシュタイン』というテクスト一本に絞って解説してみせてくれます。

 小説の真髄を明らかにするのに、必ずしも多くの材料は必要としないからだ。むしろ焦点を拡散させず、徹底的にひとつの作品に集中することによって、小説とは何かという問題を探求することが、本書の狙いである。(まえがき)

 こうして(上の狙いに沿って)書き上げられた本書は、しかし他方(当然の帰結として)優れた『フランケンシュタイン』作品論としても読めるものとなっています。わたし的には、むしろそちらの意味でとても刺激的な面白い本だった。

 そのような次第で、私が本書を「読者反応批評」(133p)するならば、「小説『フランケンシュタイン』は紛れもなくSFである」ということを証明する批評と読めます。

 この小説を視覚化することは、怪物を一方的に「見られる存在」に規定してしまうことにほかならず、怪物の側から「見る」可能性を遮断してしまう。ところが小説では、怪物自身の視点から眺められた「怪物に語り」が、数章にわたって挿入されている。したがって『フランケンシュタイン』は、「語り」という小説形式特有の構造に立脚した作品であるといえる。(まえがき)

 以前から各所で言っている持論なので解説は省きますが、これは『フランケンシュタイン』をホラー(ゴシックホラー)から排除する要素だろう。128pでベックフォードがこの作品に反感を抱いていたことが書かれているが、その反感はゴシックホラーとの位相の差異に由来することは明らかだ。

 人造人間を作るという非現実的出来事についても、具体的説明は伏せているものの、それが魔術や奇術によってではなく、科学的発見によって実現されたという設定であるゆえに(・・・)ある種のリアリティ作品に帯びさせている。(130p)

 『フランケンシュタイン』は、単に先行する神話や文学作品と間テクスト性があるのみならず、18世紀中葉ころに出ていた人間を機械とする新しい見方をも取り込んでいると言えるだろう。(221p)


 しかも130ページでは怪物が何語を喋ったのか、獲得した言語が作中から読み取られており(フランス語だったのですが)、このことは本書を読む姿勢に、SFを読むのと同様の姿勢が要請されているということで、逆に言えば、作者の小説作法自体に、読者のSF的読みが前提されていると考えることが出来る。

 このように、複数の「信頼できない語り手」の声と声が呼応し合い、あるいは衝突するなかで(・・・)人間というものがいかに現実を歪めたり隠したりする存在であるかが、次第に露わになってくるのである。(33p)

 というのはまさに「ケルベロス」と同趣向ではないか!

 その意味では56pに展開される年代推理は見事というほかない。同様に105pのエリザベスはどのようにして殺されたかの推理も実に面白い。舌を巻かざるを得ません。
 途中で消息が消えてしまうフランケンシュタインの弟アーネストについて、かれはどこへ消えたのか?という推理も(232p)、いかにもSFファンがやりそうな議論(^^;

 という風に抜粋していてもキリがないので止めますが、とに角「小説を読むとはこういうことなんだ!」という著者の意気込みがストレートに伝わってくる本であります。
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最後の審判の巨匠

2005年04月22日 21時23分51秒 | 読書
レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』垂野創一郎訳(晶文社、05)

 「……(ポカーン)……」
 上記は、翻訳者による解説文「ペルッツ問答」の出だしです。確かに本篇末尾に付された「編者による後記」まで読んだ読者は、そのような、鳩が豆鉄砲を食らったような、はたまた置いてきぼりを食わされたような理不尽な呆然たる思いに捉えられるかもしれません(とりわけ真摯なミステリ読者は)。
 しかし私自身はそのような思いは感じなかった。というのは、本篇そのもののラストでなされる謎解明にいたく感銘を受けたためで、それは「編者による後記」のどんでん返しすら凌駕するものだったからなんです。ていうか、実は解明された謎が発するセンス・オブ・ワンダーに舞い上がってしまって、「編者による後記」をちゃんと読んでなかったということなんですけど(汗)、その直後に翻訳者自身による読解「作者の消滅」を読み、さらなるセンス・オブ・ワンダーの奔流に呑み込まれてしまいました。翻訳者畏るべし! 
 翻訳者自身は、「作品自体からは決定できない」、と慎重なんですが、私は全面的に翻訳者の説を採りたいです。いや、全くそうでなくてはならない。

 ややネタを割りますが、作中話者であるヨッシュ男爵が「編者による後記」を捏造することで追い払おうとした怪物とは、今日的用語でいうならば、一種の「ドラッグ」である。
 そしてそのドラッグをビショーフやその他の人々が求めた理由は、まさしく「芸術」のためでした。「想像できないものを想像したい(体験したい)」という芸術家ならば当然もっている欲求、すなわち芸術家としての性がそれを求めたわけです。その意味で本書は「ドラッグ小説」であると同時に伝統的な「芸術家小説」という側面も併せ持つ。

 さて物語は、まず本格ミステリとして幕を開けます。密室殺人(?)の謎解きに、俄か探偵たちが活動を開始する。ただその捜査の過程は、実に行き当たりばったりで、そのありさまはまさに「虚無への供物」の「少年少女探偵団」の面々の推理に等しいものがあります(^^;。このへんなどは、日本のアンチミステリ系の作風と似た肌触りです。

 ところが、不思議な密室ミステリ風に始まった物語は、SFに収斂するのです。
 本書の読みどころの過半を占める謎めいた「喇叭赤」とは(作中の擬古文の手記が圧巻)、実は人間の視覚の限界を超えた場所に存在するものだった。そのような解釈がなされます。その推論の手続きは論理的で、たしかに疑似科学的な、SF的な論理なのです。

 謎の喇叭赤は論理的に説明される。それは本格ミステリ的ともいえますが、しかし論理的帰結された当の喇叭赤はあくまで論理的帰結にとどまるのです。それは当時では(現在でも)検証できない推論だからです。
 いわばそれは未来に属するのです。

 つまりこの「喇叭赤」は、レムの「ソラリスの海」とはちょっと違いますが、やはり想像できないものを想像(解釈)したものだといえます。
 もちろん作者がSFを試みたというのではありません。本書が発行された1923年はアメージング誌創刊の3年前なんです。とはいえそのような科学的(因果的)思考がようやく大衆化し始めた潮流の中に、本書もあることは間違いないでしょう。

 話がそれましたが、この不思議な、ある意味人を食ったような小説は、しかし、何度もいいますが、実際のところはきっちり(内的にも外的にも)論理を通した合理的な小説でなんです。「幻想的」な要素は毫も含まれておりません。ところが、そうでありながら読中読後感は、まさに「幻想小説」そのものでした。実に面白かった。まさに稀有な傑作というべきでしょう。
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