チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

テラの秘密調査官

2005年08月21日 12時02分00秒 | 読書
ジョン・ブラナー『テラの秘密調査官』関口幸男訳(ハヤカワ文庫、78)

 関口幸男訳である。あいかわらずの隔靴掻痒訳。文脈を咀嚼せず(脳を通さず)機械的に英単語を日本語(極端な話、英和辞書を引き最初に出てくるような一番一般的な日本語)に置き換えているだけのように思われてならない。たとえば64pの「教育」は「education」の訳なのだろうけれど、この場面でこの訳語は妥当だろうか。

 ――きわめて辺境の惑星ツァラトゥストラは750年前、主星のノヴァ化で滅びたと考えられていた。実は一部の住人は船団を組んで宇宙に逃れ、複数個の近傍の太陽系に分散避難していた。それが銀河連邦軍団のパトロール隊によって発見されたのは、やっと120年前のことだった。そのときには避難者世界の文明は退化し歪んだものに変化していた。

 銀河連邦の方針は、干渉せず、それら諸世界の自然な発展を見守る(ただし銀河連邦以外の勢力が介入しないよう、数名の秘密調査官を、気づかれないよう現地に常駐させ、監視は怠らない)というものだった。

 さて、それら諸世界のひとつであるZRP(ツァラトゥストラ避難民惑星)第14号惑星が本書の舞台。
 この惑星の最大都市キャルリッグでは毎年一回、一年のはじまりである春分の日に対応する<最初の新月>の日に、「王狩り」を行ない、「王殺し」を果たした者が、その一年間キャルリッグの支配者となることになっていた。

 ただしこの「王」とは、キャルリッグの北面を領するスモーキング山脈に生息する「翼竜(パラダイル)」のことで、「翼竜」氏族以外のトーテム氏族からそれぞれ代表を出し、グライダーで「王」と闘うのだ。ただし誰も「王」を倒せなかったときは、「翼竜」トーテムのパラダイル氏族が(暫定的)支配者となる。

 このところ10年以上、(パラダイル氏族の策謀もあり)王を倒した者はなく、年輪を経て王はますます強大化していた。しかし今年はトウィウィット氏族の族長の息子サイクマルが成長し、「王」を倒す者があるとすればそれはサイクマルであろうというのが巷間専らの噂であった。

 ところが当日、異例にも何処の出身者とも判然とせぬベルフェールなる異国人が参戦を表明し、不思議な稲妻めいた光線で、あっけなく「王」を斃してしまう。そうして彼は「一族」を率いて、キャルリッグの支配者としておさまってしまったのだ。

 実は彼らは銀河連邦傘下の惑星キュクロプスの無法者たちで、偶然(軍の秘密条項であった)ZRPの存在を知り、かつスモーキング山脈に大量の核物質が埋蔵されていることを聞きつけ、上記の振舞いに及んだのである。

 これより以前、キャルリッグ駐在の連邦軍秘密調査官はベルフェールによって殺害されており、上記の情報を連邦軍が把握するまでになお半年が経過していた。

 遅まきながらの連邦軍の反応は、新任の調査官を現地に派遣することであった。選任されたのはマッダレナ・サントスという若い女性で、資格はまだ正式登用以前の「仮及第者」、しかも美人ではあるが地球本国出身であることをはなにかけ、我儘にして驕慢、口を開けば不平不満しか出てこないという、札付きの問題児で、地球へ戻されることが決まっていた。しかし幸か不幸か、軍団に余剰の人員がなく、急遽彼女を派遣するということになったのであった……。


 というのが設定。ここまでで既に本書のボリュームの半分が消費されている。

 ――彼女を乗せた着陸艇がZRP14軌道に実体化したとき、謎の宇宙船からの攻撃を受ける。マッダレナは緊急脱出し、北極に近い高緯度地帯に不時着する。

 そこで彼女が見たのは、750年前に避難民を乗せツァラトゥストラを出発してこの惑星に不時着した避難船の残骸であった。それはいまだ半分機能しており、この世界の「逃げ込み寺」としてきわめて年老いた尼僧によって支配運営されていた。そこには、キャルリッグを脱出したサイクマルが匿われていた。そして彼はこの厳寒の地に生息するはずがない若い翼竜を上空に見出す――


 という風に、この後どうなるのかと、わくわくさせられるのだが、後半はシノプシスみたいに急速に話は流れていく。本来ならば400ページは必要な物語が、実にあっさりとした中編小説に収まってしまったのは残念。

 また、「翼竜」がかなり高い知能を有することが明らかになるのだが、その「知能」が、ほとんどペットのイヌ並みに扱われているのには、これは私が日本人だからかもわからないが、不満が残った。

 サイクマルと若い翼竜の関係が、対等な「友情」ではなく、飼い主と飼い犬の関係なのだ。人間と動物の間に厳然たる一線を引く英米的な無意識の認識的慣性から、著者は免れていない。この辺がブラナーのスペキュレーションの弱さだろう。多作も関係しているに違いない(原著、62年)。
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アイルランド幻想

2005年08月16日 22時40分03秒 | 読書
ピーター・トレメイン『アイルランド幻想』甲斐萬里江訳(光文社文庫、05)

 いやこれは思いがけない拾い物でした。
 タイトルから受ける硬質なイメージとは違って、ほとんどが現代小説。ただし主人公は、すべて(現代アメリカ人であっても)元を辿ればアイルランド人であり、彼らのもとに(思いがけなく、もしくは運命に導かれて)訪れるケルティックな超自然との交感がストーリーを織り成す。

 角書きは<ゴシックホラー傑作集>となっていますが、原題の「Irish Tales of Terror」が示すとおり、ホラーではなくテラー。というわけで、恐怖は恐怖でも、ホラーのような直接的暴力的なものは少なく、一種「遠景的」と表現したい幻想的な恐怖が主に描かれています。
 しかもアイルランド人の感性が日本人と似ているのでしょうか、まるで日本人作家を読むように、すーっと馴染みます。「異形コレクション」に近い感覚です。

 マイベストは、音楽恐怖譚というべき「恋歌」に止めを刺す。哀調に満ちた傑作です。
 「ニューバリーポート」へ向かうアイルランド人ビジネスマンによって届けられた手紙が語る不思議な話を読み終わった主人公の目に、「イニシュ・マウス」(ゲール語でマウス島)への航路を示す灯が映る「深きに棲まうもの」も絶品。

 あと、バン・シーが怖ろしい「髪白きもの」、都筑道夫に同趣向があったと思うのですが転換の切れ味鋭い「メビウスの館」、モダンホラーなのかゴシックホラーなのか判断に迷う結末の「妖術師」

 他に、異形コレクションそのものというべき「石柱」、宿命によって浮上する「幻の島ハイ・ブラシル」、ハロウィーンの原意が怖ろしい「冬迎えの祭り」

 いずれも、まさにこの時期、お盆の読書にぴったりの幻想恐怖譚で、楽しめました。巻末の訳注は、基本的に不必要だったと思うものの、これを読むことで、より一層、小説にアイルランドの風味が加わっており、これはこれでオッケー。

 ただ、カバーを外した本体表紙の著者名が「トレイメン」となっているのは些か興醒め。重版の際に訂正して頂きたい。まあカバーをはずしてしまうのは私ぐらいかも知れませんが。
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次元侵略者(補足)

2005年08月16日 18時12分18秒 | 読書
 下記「次元侵略者(下)」で、同作品について「ブラナー最初期の傑作SF小説」と書いた。
 これは『幻影への脱出』の、(K・I)氏の巻末解説に「本格的な作家活動に入ったのは1958年頃からで」とあったので、「デヴュー3年目なんだから最初期だろう」という当て推量でそのように記してしまったのだが、なんとなく胸騒ぎがして、ネットで当ってみたら――やはりその表現は妥当ではないことがわかった。→こちらのサイト

 上掲サイトによれば、ブラナーは実に1951年から長篇を上梓していたのである。つまり『次元侵略者』は、作家デビュー10年目、(シリーズ除く)単発長篇としては21作目に当る。これではとても「最初期」とはいえない。失礼しました。

 ただ、1作目から10作目まではギル・ハント名義で書かれていて、その筆名は上記『幻影への脱出』の巻末解説にも載っていないものなのだ。つまり、『幻影への脱出』翻訳出版の時点(76年)では、日本ではその事実は知られておらず、それゆえ58年頃デビューという誤伝も生じたのだと思われる。

 ところでギル・ハント名義最後の作品は52年刊(つまり2年間で10冊書いた!)、そして11作目の、ブラナー名義最初の作品が59年刊だから、その間に7年のブランクがあったことになる。つまり7年ほどブラナーは、一旦はSFシーンから消えてしまっていたのだろう(短編は55年から発表しているので、早くも3年で再起の足掛かりは掴んでいた?)。

 結局7年後のブラナー名義での復活は、ペンネームではなく本名に戻しての、復活というよりは、過去のキャリアは一切振り捨てての、全き新規デビューだったとみるべきだろう。だから上記(K・I)氏が、ギル・ハントが実はジョン・ブラナーだったという、その辺を把握できなかったのも宜なる哉なのだ。

 ではブラナー名義としてなら、この『次元侵略者』、「最初期」の作品といえるのか。いや、それも難しい。
 たしかに再デビュー2年後の作品ではある。ところがその2年間で、ブラナーは実に11作の作品を書き上げ、本書はまさにその11作目の作品なのだ! やはりブラナー名義としても「最初期」という言葉は使えないだろう。

 この旺盛な筆力は70年代半ばまで続く。
 (59年=5冊、60年=4冊、61年=2冊、62年=5冊、63年=4冊、64年=5冊、65年=7冊、66年=1冊、67年=3冊、68年=5冊、69年=8冊、70年=3冊、71年=4冊、72年=3冊、73年=4冊、74年=4冊、75年=1冊、76年=1冊>但し単発長篇のみ)

 大作『ザンジバルに立つ』が上梓された1968年ですら5冊、その前年の67年も3冊の長篇がある。その怪物的筆力には驚くばかり(日本でもホラーやミステリならこれくらい書ける作家はいる。でもSFは無理。きっと水増し状態になってしまう。ブラナーはどうだったんだろう)。

 いや怪物的というなら、ひとりのSF作家の長篇をコンスタントに15年間にわたって年に4~5冊、平気で消化吸収してしまう英米SF市場の胃袋が、もっと怪物的かも知れませんな(^^;
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次元侵略者(下)

2005年08月15日 15時38分59秒 | 読書
ジョン・ブラナー『次元侵略者』関口幸男訳(ハヤカワ文庫、76)

(つづき)
 ――数学者タケットが発見した原理は、この太陽の周囲に(πの値が異なる)地球の姉妹世界が数十万個もめぐっている(つまり数十万の並行世界が地球に「重なって」存在している)ことを明らかにした。人々はタケットの原理を応用した装置で、これらの世界へと冒険に乗り出していき、その諸世界に数々の文明が栄えていることを知る。

 しかし小数点以下数万桁まで来てやっと数字が異なるようになる世界がほとんどで、そのような微小の差異は時間が加味されれば無効になってしまう。
 結局、そのうちの一万程度の姉妹世界が、容易に接近でき、かつ永続的に存在することがわかる。その諸世界との間に貿易が開始され、富が地球へともたらされる。

 しかしそれもつかの間、いずれの世界よりか、「白死病」が地球にもたらされ、地球は壊滅的打撃を受ける。
 この結果、貿易は<市場>と呼ばれる組織の厳重なコントロール下におかれることとなり、<市場>より免許を与えられた少数の<豪商>が、それぞれに許された世界(フランチャイズ)との貿易を独占する。


 ――以上が本書の前提的設定。

 さて<市場>を根城の何でも屋ルイス・ネバダの美貌の妻、オーリン・ヴェイジは、火事で全身重度の大火傷を負い、異世界からもたらされた医療具<R(ロウ)機能場装置>によって辛うじて生命を保っている。彼女はその火事が、ネヴァダが自分を殺そうとしたものだとして、自分にぞっこんの副保安官キングズリー・アスロンを使嗾してネヴァダを追わしている。

 逃走中のネヴァダは<豪商>のひとりデヴィッド・ヨーレルをみかける。進退窮まっていたネヴァダは、ヨーレルに向かって、一か八か、偶然彼の(ヨーレル関連の)情報網に引っかかっていた(彼にも意味がわからない)「アッキルマー!」という謎の言葉を叫ぶ。

 そのときヨーレルは、他の豪商たちの罠にかかって、<市場>の最高長官マニュエル・クロストライデスによって免許を剥奪されたところで、急遽本拠の(剥奪されることになる)並行世界へ戻って、軍備を整えようとするところだった。ネヴァダが吐いた言葉はヨーレルの起死回生の秘密兵器に関連する言葉だった。ヨーレルはネヴァダの要求を受け入れ、彼をつれて自領世界(フランチャイズ)へと帰還し、地球との間の通路を爆破して閉じる。

 ヨーレルは大量の募兵を行い、ヨーレルと他の豪商連合との戦闘が目前に迫る。豪商側がヨーレルのフランチャイズ世界のπの値を解読したとき、その世界への入り口が再び開かれるのだ!

 その頃オーリン・ヴェイジは<R(ロウ)機能場装置>の真の機能に気づき、自らを生霊のようにどこへでも出現させることができるようになる。 と同時に、この装置を作り、地球に送り込んだ異世界人アッキルマーの意図を理解する。そう、アッキルマーとは、ヨーレルのフランチャイズに棲む未開民族(実は違う!)にして、<R(ロウ)機能場装置>の制作者だったのだ。 オーリン・ヴェイジは出陣前の豪商の一人ハル・ランチェリーのもとに出現し、彼を自己のコントロール下に置き、ある作戦を指示する。

 別に、地球首都のダークサイドをたばねるヤクザのボス、若きジョッキー・ホールは、なりゆきでクロストライデスに協力、麾下のチンピラどもを率いて出陣するようになっていたが、彼もまた、別の面からアッキルマーの陰謀(真の意図)に近づいていた。……


 ――という、なんとも絢爛豪奢な遠未来絵巻物というべき作品で、ディックというよりむしろヴォクトのようなきらきらとめくるめく感覚がすばらしい。
 ところが、ラストにいたってオーリン・ヴェイジが洩らす思いがけないことば――そのひと言が、眩暈的ドライブ感覚溢るるヴォクト的世界を180度倒立させてしまうのである。そうして、そこに唐突に姿をあらわす驚愕の真相は、読者をして、結局ディック的な現実崩壊感覚の奈落に突き落とさずにはおかない。
 61年刊行の、ブラナー最初期の傑作SF小説!
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次元侵略者(上)

2005年08月13日 21時50分26秒 | 読書
ジョン・ブラナー『次元侵略者』関口幸男訳(ハヤカワ文庫、76)

 まず、翻訳が酷いのであった。

 時計の針は、見知らぬ人間たちがかわすあいさつの心底からの偽善に協調する(9p)

 ――て、何よ。中学生の英文解釈並みの日本語ではないか。

 以前からこの翻訳家の訳業には、うすうすながら疑問符を感じていたのだが、今回はっきりとダメ翻訳家であると認識しました。 だいたい、訳に熱意が感じられないのだ。横のものをただ縦に置き換えているだけのやっつけ仕事のような気がして仕方がない。

 一般に翻訳者は、ただ英語を日本語に置き換えるだけではなく、それと同時に、その訳文が日本人読者に理解しやすくなるように、工夫を凝らす努力を並行しているのだと思う。

 たとえば本書の場合、2、3人による会話が続く場面で、「と、かれはいった」という類の話者指定文の主語がすべて「かれ」という場面があって、読んでいて混乱するところがあったのだが、これは原文がそうなっているのに違いないとしても、翻訳の際これでは読者は混乱するだろうと感じたら、翻訳者は適宜代名詞「かれ」を固有名詞に戻して、混乱を予め避けようとするのではないだろうか。

 以前i池内紀訳と長谷川四郎訳のカフカを比べたことがありましたが、このような改変がどこまで許されるかは別として、池内訳の抜群の読みやすさは、池内の工夫(原文離れ)と相関的であることは明らかだ。

 ここまでドラスティックであるべきかどうかは、翻訳家の信念も絡んでくるだろうが、いまここで問題としているのはそんな根本的な話ではない。翻訳に「やる気」があるかどうか、というだけの話なのだ。
 その意味で、関口訳は、小説の翻訳としてはとても及第点をつけられるものではないと断ぜざるを得ない。

 そんな悪訳にもかかわらず、本書は実に面白かった。
 実は本書、再読である。20年ほど前に一度読んでいる。ちょうど『ユービック』と同じ頃読んだらしく、似ているなと思った記憶がある。その『ユービック』をほとんど覚えてないので、一体何が似ていると思ったのか、今となっては判然としないのだが、本書『次元侵略者』に出てくるR(ロウ)機能場装置によって生霊めいた行動をとるオーリン・ヴェイジが、『ユービック』の何かと似ていたのではないだろうか(「ユービック」も読み直さなくては)。<つづく>
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幻影への脱出

2005年08月05日 22時23分02秒 | 読書
ジョン・ブラナー『幻影への脱出』巻正平訳(ハヤカワ文庫、76)

 「ほんとうはね、マーチンズ、ぼくには人類は地球をまかされる資格がないんじゃないかと思ってるんだ」(147p)

 人口爆発と資源の枯渇により末期的症状を呈した近未来地球に、突如蔓延する謎の麻薬・ハッピードリーム。それは異常な低価格と無尽蔵の供給で爆発的に流行するのだが――やがて、そのハッピードリーム常用者が忽然と世界から姿を消しはじめたのだ!

 *以下ネタばらししますが、本書をこれから読もうと思われる方、全然心配無用です。一般にSFはネタばれしたからといって楽しみが奪われることはなく、本書もその例に漏れません。

 さて、本書のメインアイデアは、 レオ・ペルッツ『最後の審判の巨匠』と同じ。ハッピードリームを注射されてしまった主人公は、夢(?)のなかで、「ヴァーム色」という8番目の色を認識する。これはハッピードリームによって知覚の幅が広がり、今まで感じられなかった光を感じられるようになったということ。

 上の例に明らかなように、外部現実の知覚は、脳の電気化学的反応によるのであり、外界の事物を直接「知覚」することはできない。外部がいかに現実らしくとも、それは人間の知覚にとっては可塑的である。

 ところがハッピードリームは脳の構造を変化させる。このハッピードリーム脳は、それまでの脳が所謂「現実」を知覚していたように、今度は「別の現実」を知覚する。「別の現実」を知覚するからには、「この現実」は知覚し得ない。結果としてこの現実内存在者は、逆にハッピードリーマーを知覚できなくなるわけだ。なるほど!

 と、そういうメインアイデアのもと、物語はこのメインアイデアを少しずつ解明しつつ進行して行く。この部分は、実に面白い。
 またハッピードリーマーに絡んで普通人(非常用者)が描かれるのだが、そこに描かれる一般市民の行動は、まさに上の引用を読者に納得させる。

 ところが――ラストで読者が遭遇するのは、著者は田中光二であったかとクレジットを検めたくなるような陰謀史観なのだ。この結末は本書のミステリ性、意外性を読者に印象付けはするが、物語自体の一貫性は破壊されないまでも腰砕けにされてしまったといわざるを得ない。

 まず、なぜそんな陰謀が必要だったのか不審である。むしろ正々堂々と「移民」を募ってはなぜいけないのか。その理由を私は思いつけなかった。

 そのようなスペキュレーションの貫徹の弱さがブラナーの弱点なのかもしれない。翻訳が進まなかったのはその辺が原因ではなかろうか。

 せっかくのメインアイデアが、ラストにいたって(ミステリ的に)矮小化されてしまったのは、返す返すも残念とはいえ、そのような欠点も含めて本書には、意外にも日本の70年代SFにきわめて近い味わいがあり、充分に楽しめた。著者ブラナーは34年生まれ。つまり眉村卓と同い年。偶然にも原著も63年、「燃える傾斜」と同年刊。
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