若島正編『異色作家短篇集18狼の一族アンソロジー/アメリカ篇』(早川書房、07)
旧版異色作家短篇集の18巻はアンソロジー『瓶づめの女房』だった。しかしながらこの旧版、本書の編者あとがきによれば、1)編集方針がはっきりしていない。2)今日の目で見るとかなり出来不出来がある。3)作品の内容と訳文が古びてしまっている。とのことで、そういう欠点があるので、この際全く新しく作り直したとある。
でもそれまでの17巻をそのままで復刊しておいて、18巻だけ殊更にそういいたてるのも変な話ではないかと私は感じるのである。『壜づめの女房』が玉石混淆だったり、内容も訳文も古びているというけれども、それは今回復刻刊行されたすべての巻に就いていえることではないのか。それに、「異色作家短篇集」として復刊すると決定したからには、全てをそのままに復刻してこそ意義もあるのではないかという気もしないではないのだが、まあラファティとデイヴィッドスンの当該作品が収録されているのでカタいことはいうまい。
ということで、R・A・ラファティ「浜辺にて」(浅倉久志訳)とアヴラム・デイヴィッドスン「眠れる美女ポリー・チャームズ」(古屋美登里訳)である。
前者は、らっぱ亭さんの先行訳(「らっぱ亭奇譚集その弐」所収)と付き合わせて読んでみた。全体的にはらっぱ亭さんのは「トールテール」を意識した「語り」のスタイルになっていて、小説的な浅倉訳より、ラファティらしさがよく出されていると思った。ただ浅倉訳のほうがらっぱ亭訳ではぼんやりしていた部分がくっきりしている場面もあり(たとえば――らっぱ亭訳「一線となってせめぎ合いながら」は、浅倉訳「一列横隊で」の方が、たしかに位置関係がはっきりして、オリヴァーにしか発見できなかった不思議さもくっきりイメージできる)、私に許されるならば両方のよいところを混ぜ合わせて(らっぱ亭スタイルで内容は主に浅倉解釈で)第三の訳文を構成したいという気持ちにかられてしまう。
あと、いつものとおり原文は与り知らねど、文脈的に類推して、浅倉さんが正しいと感じられる解釈もあれば、らっぱ亭さんのほうが正しいと感じられる解釈もあって、その意味でも両訳を混ぜ合わせたくなる。たとえば浅倉訳「奇妙な現象に関する報告書を受け取った」はどう考えても文脈的にはらっぱ亭訳「奇妙な出来事について、報告してきた」の方が正しく思われるのですが、如何?
今回再読して、本篇が意外にも『宇宙舟歌』のセンであることに気付いた。どういうセンかというと、それはリンク先に書いたとおりで、一種時空オデュッセイア的な哀感(コズミック感覚?)が感じられてとてもよかった。
後者は殊能訳がネット上に公開されていて、私はそれを読んでエステルハージイ・シリーズの面白さを知ったものなので、ラファティ作品同様訳文を比較して読みたかったんだけれども、サイトでなぜか発見できなかった。仄聞するに『狼の一族』に訳出が決定したと知った時点で削除されたとのこと。残念。
ともあれ久しぶりに読んだけれども、やっぱりいい小説ですねえ。勝手な想像ながら、この国の隣にマラキア国があっても不思議ではないと感じた(実際マラキアはユーゴスラビアの何処かに設定されていると私は睨んでいるのだ)。幻想小説の逸品。
フリッツ・ライバー「ジェフを探して」(深町眞理子訳)
つ、つまらん。数ページ読めば結末まで予測できる定型小説。ライバーの悪達者な面ばかりあらわれた駄作で、こんな話をSF読者は求めてはいないんですよ>若島さん。え、本双書はSF読者のみ対象とはしていないって? なるほど失礼しました。確かに軽ミステリというのかハードボイルドから雰囲気だけを抽出した一種小洒落た小説を求める向きには面白いのかも知れないが、SF的見地からみれば「異色作」という地点の対極にある「凡作」。ライバーならではというべき、訳さなければならないのが、他にあると思うんだけどねえ。
ハーラン・エリスン「どんぞこ列車」(若島正訳)
「危険なヴィジョン」とは正反対な「安全地帯」のベタベタ通俗小説で、いかにも下手ウマ(笑)なエリスンらしい仕上がりになっている。その意味で確かに悪くはないが、むろんSFではない(>いやだから本双書は……以下略)。
ジョン・スラデック「他の惑星にも死は存在するのか」(柳下毅一郎訳)
ディッシュの盟友のスラデクだけど、私はたぶん本作が実質的な初読かも。若島氏はラファティを連想するみたいだが、私はむしろ「脱走と追跡のサンバ」の筒井を連想した。いずれにしても奇妙な(異色な)話で楽しめた。
トーマス・M・ディッシュ「狼の一族」(若島正訳)
や、これは傑作。もしも荘園の狩場番人が狼男だったら?という、いかにもディッシュらしい皮肉なまなざしが効いた作品。このアイデアが、本篇を単なる人狼もの即ちホラーから決定的に遠ざけてSFとして自立させている。つまり一方向的で不可逆的なホラーの視線を逆方向から見かえす交差的な視線が導入されて、いわゆる「一線」が相対化されるわけだ。まさにSFの教科書的なつくりといえよう。しかしそうするとこの邦題は片手落ちであるな。原題His own kindは狼と人間の両方に掛っているのだから。
ウィリアム・コツウィンクル「象が列車に体当たり」(若島正訳)
うーん、作中の「メウシ」は原文はcowなんだろうけど、でも「メウシ」では文脈上意味が通らないよなあ……そう思われたので辞書を引いてみた→英和辞書。
どうやらcowには、「雌牛 ((bullの対))」の他に、「(ゾウ・クジラなどの)雌」の意味もあるようだ。
というわけで、もし原文がcowなんだったら「メウシ」は誤訳でしょう。ごく普通に「雌ゾウ」でよかったんだね(原書に当たって下さった方がいて、やはりcowだったそうです。うーむ発見しろよ>編集者)。
それはさておき内容は、一風変わった童話風の話で、するする読まされた。変な話だった(もちろん内容がです)(^^;
ジャック・リッチー「貯金箱の殺人」(田村義進訳)は、阿刀田高が書きそうな「よく出来た」短編小説。読んでいる間は面白いが読後何も残らない。読み終わってみれば皮肉だがありきたりな話。わたし的には異色短編の範疇に入らない作品。
チャールズ・ウィルフォード「鶏占い師」(若島正訳)も同様で、皮肉で興味は最後まで持続するけれど、読み終わってみれば「それが?」という感じになって虚しいばかり。
このような小説の面白さが判らないわけではないが、今の私は「こんなん読むんだったら他に読まねばならないのがあるな」という心境。 うまく使ってはいるけど、アイデアの構造自体は全然新しくなく、使いまわしなのだ。
ロバート・クーヴァー「ベビーシッター」(柳下毅一郎訳)はつまらない。冗漫で途中から読む意欲も失せる。やりたい意図はわからんでもないが、筒井康隆が既に60年代に中間誌でやっている。しかもそっちの方が数段キレもよく面白い。これでは訳す価値がない。
ジーン・シェパード「スカット・ファーカスと魔法のマライア」(浅倉久志訳)は異形コレクション風の話で、これはこれで面白いのは面白いんだけど、今の私としては別に読まなくてもかまわない話(実際異形コレクションも読まなくなって久しい)。
この(リッチー以下の)4篇に共通するのはテクニックで読ませる小説だということ(ライバーやエリスンのもそうだ)。浅倉久志が好みそうな話ではあるけれども、こういうのは私にはもう必要ないんやね。読書の総時間が計れるようになってきた身としては、残りの読書時間は専ら後半のラファティ、スラデック、ディッシュ、デイヴィッドスンのような(軟投ではなく)直球力勝負の小説を読むことに充てたいわけで、そういう意味では(個人的には)編集方針が分裂した印象のあるアンソロジーでした。
旧版異色作家短篇集の18巻はアンソロジー『瓶づめの女房』だった。しかしながらこの旧版、本書の編者あとがきによれば、1)編集方針がはっきりしていない。2)今日の目で見るとかなり出来不出来がある。3)作品の内容と訳文が古びてしまっている。とのことで、そういう欠点があるので、この際全く新しく作り直したとある。
でもそれまでの17巻をそのままで復刊しておいて、18巻だけ殊更にそういいたてるのも変な話ではないかと私は感じるのである。『壜づめの女房』が玉石混淆だったり、内容も訳文も古びているというけれども、それは今回復刻刊行されたすべての巻に就いていえることではないのか。それに、「異色作家短篇集」として復刊すると決定したからには、全てをそのままに復刻してこそ意義もあるのではないかという気もしないではないのだが、まあラファティとデイヴィッドスンの当該作品が収録されているのでカタいことはいうまい。
ということで、R・A・ラファティ「浜辺にて」(浅倉久志訳)とアヴラム・デイヴィッドスン「眠れる美女ポリー・チャームズ」(古屋美登里訳)である。
前者は、らっぱ亭さんの先行訳(「らっぱ亭奇譚集その弐」所収)と付き合わせて読んでみた。全体的にはらっぱ亭さんのは「トールテール」を意識した「語り」のスタイルになっていて、小説的な浅倉訳より、ラファティらしさがよく出されていると思った。ただ浅倉訳のほうがらっぱ亭訳ではぼんやりしていた部分がくっきりしている場面もあり(たとえば――らっぱ亭訳「一線となってせめぎ合いながら」は、浅倉訳「一列横隊で」の方が、たしかに位置関係がはっきりして、オリヴァーにしか発見できなかった不思議さもくっきりイメージできる)、私に許されるならば両方のよいところを混ぜ合わせて(らっぱ亭スタイルで内容は主に浅倉解釈で)第三の訳文を構成したいという気持ちにかられてしまう。
あと、いつものとおり原文は与り知らねど、文脈的に類推して、浅倉さんが正しいと感じられる解釈もあれば、らっぱ亭さんのほうが正しいと感じられる解釈もあって、その意味でも両訳を混ぜ合わせたくなる。たとえば浅倉訳「奇妙な現象に関する報告書を受け取った」はどう考えても文脈的にはらっぱ亭訳「奇妙な出来事について、報告してきた」の方が正しく思われるのですが、如何?
今回再読して、本篇が意外にも『宇宙舟歌』のセンであることに気付いた。どういうセンかというと、それはリンク先に書いたとおりで、一種時空オデュッセイア的な哀感(コズミック感覚?)が感じられてとてもよかった。
後者は殊能訳がネット上に公開されていて、私はそれを読んでエステルハージイ・シリーズの面白さを知ったものなので、ラファティ作品同様訳文を比較して読みたかったんだけれども、サイトでなぜか発見できなかった。仄聞するに『狼の一族』に訳出が決定したと知った時点で削除されたとのこと。残念。
ともあれ久しぶりに読んだけれども、やっぱりいい小説ですねえ。勝手な想像ながら、この国の隣にマラキア国があっても不思議ではないと感じた(実際マラキアはユーゴスラビアの何処かに設定されていると私は睨んでいるのだ)。幻想小説の逸品。
フリッツ・ライバー「ジェフを探して」(深町眞理子訳)
つ、つまらん。数ページ読めば結末まで予測できる定型小説。ライバーの悪達者な面ばかりあらわれた駄作で、こんな話をSF読者は求めてはいないんですよ>若島さん。え、本双書はSF読者のみ対象とはしていないって? なるほど失礼しました。確かに軽ミステリというのかハードボイルドから雰囲気だけを抽出した一種小洒落た小説を求める向きには面白いのかも知れないが、SF的見地からみれば「異色作」という地点の対極にある「凡作」。ライバーならではというべき、訳さなければならないのが、他にあると思うんだけどねえ。
ハーラン・エリスン「どんぞこ列車」(若島正訳)
「危険なヴィジョン」とは正反対な「安全地帯」のベタベタ通俗小説で、いかにも下手ウマ(笑)なエリスンらしい仕上がりになっている。その意味で確かに悪くはないが、むろんSFではない(>いやだから本双書は……以下略)。
ジョン・スラデック「他の惑星にも死は存在するのか」(柳下毅一郎訳)
ディッシュの盟友のスラデクだけど、私はたぶん本作が実質的な初読かも。若島氏はラファティを連想するみたいだが、私はむしろ「脱走と追跡のサンバ」の筒井を連想した。いずれにしても奇妙な(異色な)話で楽しめた。
トーマス・M・ディッシュ「狼の一族」(若島正訳)
や、これは傑作。もしも荘園の狩場番人が狼男だったら?という、いかにもディッシュらしい皮肉なまなざしが効いた作品。このアイデアが、本篇を単なる人狼もの即ちホラーから決定的に遠ざけてSFとして自立させている。つまり一方向的で不可逆的なホラーの視線を逆方向から見かえす交差的な視線が導入されて、いわゆる「一線」が相対化されるわけだ。まさにSFの教科書的なつくりといえよう。しかしそうするとこの邦題は片手落ちであるな。原題His own kindは狼と人間の両方に掛っているのだから。
ウィリアム・コツウィンクル「象が列車に体当たり」(若島正訳)
うーん、作中の「メウシ」は原文はcowなんだろうけど、でも「メウシ」では文脈上意味が通らないよなあ……そう思われたので辞書を引いてみた→英和辞書。
どうやらcowには、「雌牛 ((bullの対))」の他に、「(ゾウ・クジラなどの)雌」の意味もあるようだ。
というわけで、もし原文がcowなんだったら「メウシ」は誤訳でしょう。ごく普通に「雌ゾウ」でよかったんだね(原書に当たって下さった方がいて、やはりcowだったそうです。うーむ発見しろよ>編集者)。
それはさておき内容は、一風変わった童話風の話で、するする読まされた。変な話だった(もちろん内容がです)(^^;
ジャック・リッチー「貯金箱の殺人」(田村義進訳)は、阿刀田高が書きそうな「よく出来た」短編小説。読んでいる間は面白いが読後何も残らない。読み終わってみれば皮肉だがありきたりな話。わたし的には異色短編の範疇に入らない作品。
チャールズ・ウィルフォード「鶏占い師」(若島正訳)も同様で、皮肉で興味は最後まで持続するけれど、読み終わってみれば「それが?」という感じになって虚しいばかり。
このような小説の面白さが判らないわけではないが、今の私は「こんなん読むんだったら他に読まねばならないのがあるな」という心境。 うまく使ってはいるけど、アイデアの構造自体は全然新しくなく、使いまわしなのだ。
ロバート・クーヴァー「ベビーシッター」(柳下毅一郎訳)はつまらない。冗漫で途中から読む意欲も失せる。やりたい意図はわからんでもないが、筒井康隆が既に60年代に中間誌でやっている。しかもそっちの方が数段キレもよく面白い。これでは訳す価値がない。
ジーン・シェパード「スカット・ファーカスと魔法のマライア」(浅倉久志訳)は異形コレクション風の話で、これはこれで面白いのは面白いんだけど、今の私としては別に読まなくてもかまわない話(実際異形コレクションも読まなくなって久しい)。
この(リッチー以下の)4篇に共通するのはテクニックで読ませる小説だということ(ライバーやエリスンのもそうだ)。浅倉久志が好みそうな話ではあるけれども、こういうのは私にはもう必要ないんやね。読書の総時間が計れるようになってきた身としては、残りの読書時間は専ら後半のラファティ、スラデック、ディッシュ、デイヴィッドスンのような(軟投ではなく)直球力勝負の小説を読むことに充てたいわけで、そういう意味では(個人的には)編集方針が分裂した印象のあるアンソロジーでした。