チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

狼の一族

2007年07月26日 00時18分54秒 | 読書
若島正編異色作家短篇集18狼の一族アンソロジー/アメリカ篇(早川書房、07)

 旧版異色作家短篇集の18巻はアンソロジー『瓶づめの女房』だった。しかしながらこの旧版、本書の編者あとがきによれば、1)編集方針がはっきりしていない。2)今日の目で見るとかなり出来不出来がある。3)作品の内容と訳文が古びてしまっている。とのことで、そういう欠点があるので、この際全く新しく作り直したとある。
 でもそれまでの17巻をそのままで復刊しておいて、18巻だけ殊更にそういいたてるのも変な話ではないかと私は感じるのである。『壜づめの女房』が玉石混淆だったり、内容も訳文も古びているというけれども、それは今回復刻刊行されたすべての巻に就いていえることではないのか。それに、「異色作家短篇集」として復刊すると決定したからには、全てをそのままに復刻してこそ意義もあるのではないかという気もしないではないのだが、まあラファティとデイヴィッドスンの当該作品が収録されているのでカタいことはいうまい。

 ということで、R・A・ラファティ「浜辺にて」(浅倉久志訳)とアヴラム・デイヴィッドスン「眠れる美女ポリー・チャームズ」(古屋美登里訳)である。
 前者は、らっぱ亭さんの先行訳(「らっぱ亭奇譚集その弐」所収)と付き合わせて読んでみた。全体的にはらっぱ亭さんのは「トールテール」を意識した「語り」のスタイルになっていて、小説的な浅倉訳より、ラファティらしさがよく出されていると思った。ただ浅倉訳のほうがらっぱ亭訳ではぼんやりしていた部分がくっきりしている場面もあり(たとえば――らっぱ亭訳「一線となってせめぎ合いながら」は、浅倉訳「一列横隊で」の方が、たしかに位置関係がはっきりして、オリヴァーにしか発見できなかった不思議さもくっきりイメージできる)、私に許されるならば両方のよいところを混ぜ合わせて(らっぱ亭スタイルで内容は主に浅倉解釈で)第三の訳文を構成したいという気持ちにかられてしまう。
 あと、いつものとおり原文は与り知らねど、文脈的に類推して、浅倉さんが正しいと感じられる解釈もあれば、らっぱ亭さんのほうが正しいと感じられる解釈もあって、その意味でも両訳を混ぜ合わせたくなる。たとえば浅倉訳「奇妙な現象に関する報告書を受け取った」はどう考えても文脈的にはらっぱ亭訳「奇妙な出来事について、報告してきた」の方が正しく思われるのですが、如何?

 今回再読して、本篇が意外にも『宇宙舟歌』のセンであることに気付いた。どういうセンかというと、それはリンク先に書いたとおりで、一種時空オデュッセイア的な哀感(コズミック感覚?)が感じられてとてもよかった。

 後者は殊能訳がネット上に公開されていて、私はそれを読んでエステルハージイ・シリーズの面白さを知ったものなので、ラファティ作品同様訳文を比較して読みたかったんだけれども、サイトでなぜか発見できなかった。仄聞するに『狼の一族』に訳出が決定したと知った時点で削除されたとのこと。残念。
 ともあれ久しぶりに読んだけれども、やっぱりいい小説ですねえ。勝手な想像ながら、この国の隣にマラキア国があっても不思議ではないと感じた(実際マラキアはユーゴスラビアの何処かに設定されていると私は睨んでいるのだ)。幻想小説の逸品。

 フリッツ・ライバー「ジェフを探して」(深町眞理子訳)
 つ、つまらん。数ページ読めば結末まで予測できる定型小説。ライバーの悪達者な面ばかりあらわれた駄作で、こんな話をSF読者は求めてはいないんですよ>若島さん。え、本双書はSF読者のみ対象とはしていないって? なるほど失礼しました。確かに軽ミステリというのかハードボイルドから雰囲気だけを抽出した一種小洒落た小説を求める向きには面白いのかも知れないが、SF的見地からみれば「異色作」という地点の対極にある「凡作」。ライバーならではというべき、訳さなければならないのが、他にあると思うんだけどねえ。

 ハーラン・エリスン「どんぞこ列車」(若島正訳)
 「危険なヴィジョン」とは正反対な「安全地帯」のベタベタ通俗小説で、いかにも下手ウマ(笑)なエリスンらしい仕上がりになっている。その意味で確かに悪くはないが、むろんSFではない(>いやだから本双書は……以下略)。

 ジョン・スラデック「他の惑星にも死は存在するのか」(柳下毅一郎訳)
 ディッシュの盟友のスラデクだけど、私はたぶん本作が実質的な初読かも。若島氏はラファティを連想するみたいだが、私はむしろ「脱走と追跡のサンバ」の筒井を連想した。いずれにしても奇妙な(異色な)話で楽しめた。

 トーマス・M・ディッシュ「狼の一族」(若島正訳)
 や、これは傑作。もしも荘園の狩場番人が狼男だったら?という、いかにもディッシュらしい皮肉なまなざしが効いた作品。このアイデアが、本篇を単なる人狼もの即ちホラーから決定的に遠ざけてSFとして自立させている。つまり一方向的で不可逆的なホラーの視線を逆方向から見かえす交差的な視線が導入されて、いわゆる「一線」が相対化されるわけだ。まさにSFの教科書的なつくりといえよう。しかしそうするとこの邦題は片手落ちであるな。原題His own kindは狼と人間の両方に掛っているのだから。

 ウィリアム・コツウィンクル「象が列車に体当たり」(若島正訳)
 うーん、作中の「メウシ」は原文はcowなんだろうけど、でも「メウシ」では文脈上意味が通らないよなあ……そう思われたので辞書を引いてみた→英和辞書
 どうやらcowには、「雌牛 ((bullの対))」の他に、「(ゾウ・クジラなどの)雌」の意味もあるようだ。
 というわけで、もし原文がcowなんだったら「メウシ」は誤訳でしょう。ごく普通に「雌ゾウ」でよかったんだね(原書に当たって下さった方がいて、やはりcowだったそうです。うーむ発見しろよ>編集者)。
 それはさておき内容は、一風変わった童話風の話で、するする読まされた。変な話だった(もちろん内容がです)(^^;

 ジャック・リッチー「貯金箱の殺人」(田村義進訳)は、阿刀田高が書きそうな「よく出来た」短編小説。読んでいる間は面白いが読後何も残らない。読み終わってみれば皮肉だがありきたりな話。わたし的には異色短編の範疇に入らない作品。
 チャールズ・ウィルフォード「鶏占い師」(若島正訳)も同様で、皮肉で興味は最後まで持続するけれど、読み終わってみれば「それが?」という感じになって虚しいばかり。

 このような小説の面白さが判らないわけではないが、今の私は「こんなん読むんだったら他に読まねばならないのがあるな」という心境。 うまく使ってはいるけど、アイデアの構造自体は全然新しくなく、使いまわしなのだ。

 ロバート・クーヴァー「ベビーシッター」(柳下毅一郎訳)はつまらない。冗漫で途中から読む意欲も失せる。やりたい意図はわからんでもないが、筒井康隆が既に60年代に中間誌でやっている。しかもそっちの方が数段キレもよく面白い。これでは訳す価値がない。

 ジーン・シェパード「スカット・ファーカスと魔法のマライア」(浅倉久志訳)は異形コレクション風の話で、これはこれで面白いのは面白いんだけど、今の私としては別に読まなくてもかまわない話(実際異形コレクションも読まなくなって久しい)。

 この(リッチー以下の)4篇に共通するのはテクニックで読ませる小説だということ(ライバーやエリスンのもそうだ)。浅倉久志が好みそうな話ではあるけれども、こういうのは私にはもう必要ないんやね。読書の総時間が計れるようになってきた身としては、残りの読書時間は専ら後半のラファティ、スラデック、ディッシュ、デイヴィッドスンのような(軟投ではなく)直球力勝負の小説を読むことに充てたいわけで、そういう意味では(個人的には)編集方針が分裂した印象のあるアンソロジーでした。
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グランダンの怪奇事件簿

2007年07月18日 21時02分21秒 | 読書
シーバリー・クイン『グランダンの怪奇事件簿』熊井ひろ美訳(論創社、07)

 あの傑作ファンタジー「道」のシーベリイ・クイン本邦初短篇集――ながら、「道」のような作風を期待するとエライ目にあいます。実は私がそうで、巻頭の「ゴルフリングの恐怖」を読み、あまりの乖離感にがっかりして投げ出してしまったのでした。

 ところがミクシイでそのことを記したら、某氏にそれはあまりにも勿体ないと諌められ、それではと気を取り直して再度着手。着手して正解でした。
 2篇目の「死人の手」もいまいちだったんですが、3篇目「ウバスティの子供たち」あたりからどんどん面白くなってき、あとはラストの「フィリップス家の悲運」まで尻上がりに面白さが上昇していき読了。いや面白かった(>勝手な奴です!)

 途中から読みのスタンスが判ってきたこともあるでしょうが、内容自体も最初の2篇の薄っぺらさから回を追うごとに厚み(ウンチク度?)を増していく。初出情報の記載がないのですが、発表順に並んでいるんだとすれば、作者自身もこの形式に慣れていき自在に操れるようになっていったんだと思います。

 とりわけ「フィリップス家の悲運」は、いわゆるフレンチ・アンド・インデアン戦争が背景にあり、本篇によれば、戦後アカディア人(カトリック系仏人植民者)たちがその宗教性(プロテスタントからすれば偶像崇拝の異教徒となる)により英国人植民者(WASP)に、大変な迫害を受けたみたいですね。本篇で初めて知りました。ちなみに彼らの多くは戦後南部のルイジアナに逃れたようで、「ケイジャン」とはアカディア人の米語発音。としますとレオン・ラッセルの名曲「ケイジャン・ラヴ・ソング」のケイジャンはアカディア人ということになる。それにしてはケルティックな印象なんですが。

 閑話休題。
 「回を追うごとに」と書きましたが、まさに60年代に流行したテレビの連続探偵ドラマの雰囲気なんです。良くも悪くもチープさが横溢しています。作中に多用される「行アケ」も、いかにもここでCMが入るんだな、という感じで、憶測するにクインってテレビの仕事もしていたのじゃないでしょうか。

 ともあれ「道」のクインとは別作家と思って読むべきですね。これはぜひ続きを読みたい。グランダン・シリーズの続刊を希望します。
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空の果てまで

2007年07月04日 18時48分31秒 | 読書
高橋たか子『空の果てまで』(73、新潮社)

 いやこれは圧倒的でした(そういえば昔はこういう小説が書きたいと思っていた。そんなことを思い出した。もちろん眼高と手低のあまりの懸隔にさっさと諦めましたが)。
 中盤過ぎあたりまでは「普通」の小説で(といっても内容は全然普通ではない)、淡々と進んでいくのだけれど、終盤、とりわけ猫を連れた奇怪な老婆が登場してからは俄然リアリティをほっぽり出し、ビンビンの幻想小説と化す。あとはラストまで一気呵成に無限上昇していく(それにしてもこの老婆の存在感は高橋和巳の登場人物を髣髴とさせますね。珠子と晴子が惹かれあうという設定も高橋和巳的なオブセッションを感じた)。

 尤も終盤のどこが幻想小説なんだとご不審の方もあるかも知れない。よし「幻想小説」というのに違和感があるなら「観念小説」といい換えてもよい。既に老婆出現以前、第5章以降、いろいろな事実関係が明らかにされていく段階から、一般的な小説の「リアリティ」はぐずぐずと崩れていく。たとえば神隠しが主人公の仕業だったことが明かされるが、あまりにも(いわばディック的に)ご都合主義的だし、老婆の登場は伏線もなく唐突で現実離れしている。小説としてのリアリティは破綻しているという他ないだろう。淡々とした前半は、かかる後半の現実離れの布石だったことが理解される。

 こうして明らかになったひとりの(特異な)女の半生――行き着くところ、地の果てまで行き着いた女に、しかし「救済」はない。地の果てにたたずむ女の眼前には、ただひたすら無限に広がる空があった。本篇で唯一パースペクティヴが開かれるシーンだが、その空の果てに女が見たものは……

 挟み込み付録の中村真一郎との対談で、著者は「今度の作品にも、やはり救済はないのです」と語っている。読んで私は首をひねった。ではこのタイトルはなんなのだ?
 どうやら著者自身、当時は意識では気づいてなかったのかも知れない。実はこのラストシーン(そしてこのタイトル)には、すでに無意識理に著者の向かうべき先が(実際に数年後に向かった先が)はっきりと示されているのだ。本篇は著者の処女長篇であり、無意識的な直覚(直観)と意識との齟齬が顕わに認められ、その意味でも興味深い作品となっている。
 
 猶これは余談だが、本篇は昨今ニュースに見出せる(ばかりか、例えばミクシイの若者たちの言説にうんざりするほど溢れ返っている)、「子供を虐待する親」への、十把一絡げに一線の向こうに排除する論調の、ある意味「グローバリズム」に通底する単一性、想像力の貧困への、「文学的」回答として読むことができそうだ。その意味で『ベラス・レトラス』「もしあなたがその話を小説に書かれたらとしたら、そこから先が文学になるんですけどね」をまさに実践している作品でもあるともいえよう。
 確かに上述したように「特異な」女の半生なのだけれども、かかる(著者の用語での)「悪」は、多かれ少なかれ、というよりも「人間」を構成する必然的な契機のひとつとして、我々に例外なく付属するものなのだから。
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