チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

カーゴ・カルト

2008年09月17日 23時38分03秒 | 芝居
劇団オリゴ党『カーゴ・カルト』(作・演出/岩橋貞典、08/9/14於シアトリカル應典院)を観てきました。

 舞台は、とある夫婦の会話から始まります。夫が妻に言います。「金を貸してくれないか」。
そして夫はそのまま失踪してしまう……。
探偵事務所に駆け込む妻。そこで妻は、夫がとある教団の教祖になっていることを知るのだった……(公演案内より)


 なんとなく安部公房を連想させるシチュエーションですが、当然ながら安倍公房的な実存の探求には向かいません。むしろある種の人々がなぜ神を求めるのか、人々は様々なるそれぞれの個人的な理由により神(信仰)に救いを求めるわけですが、その神を(信仰を)求めないではいられない「心」の分析がテーマのようです。

 この芝居においても、あるものは経営する工場がにっちもさっちも行かなくなってこの教団に参加していますし、あるものは現実の他者と繋がることができず唯テレビに向かって喋りかけるだけの生活から、教団に参加することで(教団内という限界はありますが)他者との交流を細々とではありますがもてるようになっている。いずれの例も、主体性の一部を神に預ける(秘密にする)ことで、何とか平衡を保っているのです。

 だが、それがかりそめの平衡でしかないことを最もよく知っているのが、他ならぬ教祖なのです。教祖はそういう依存的な段階から、自己そのものが神になる(全的な主体性を回復する)という道を示しますが、信者は拒否します。実はそれは当然なのであって、神とは頼るべき存在、自分では処理しきれない責任の一端を預かってくれる存在だからこそ、神なのですから。

 神は救わないと明言した教祖は、その結果教団幹部の女性信者によって殺害される。そして彼女は、信者が集まっていた教団本部の一室にガスを撒き、自らもそのガスで自殺するのだが、そのとき彼女は、自分が殺害したはずの教祖が目の前にいるのに気づく……

 という風に、非常に台詞が抽象的で難解なストーリーが展開されます。一度見たくらいでは多分半分も理解できません。最低2回は見なければ了解できないのではないか。でもそれでいいのだと思います。むしろこれくらい濃くなければ小劇場の存在価値がありません。小劇場は出来合いのセンチメントを蒸し返すだけの大衆演劇ではないのですから。

 その意味で、本劇は確かに難解ではありますが、何が何だか判らないところは判らないなりに、しかし観客に訴えてくる力はきわめて強く、私は最初から最後までほとんど身動きもせずに見入ってしまいました。で、実はこっちの方が大事なんであって、上記のような解釈はむしろどうでもよいのです。かかる結果としての訴求力、吸引力、迫力こそ、この芝居の最大の魅力なんですよね。

 脚本も時系列的に一直線ではなく、360度客席という劇場に見合った構成になっていると思いました。いやその辺は素人の印象ですが。
 ともあれ、イワハシ作品としても異色の一篇ではないでしょうか。オリゴ党といえばサブカルネタが必須なんですが、今回はそれが封印されており、その点でも異色な感じを持ちました。大変面白かったです。
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虫のなんたるか

2007年01月21日 22時39分39秒 | 芝居
 オリゴ党第23回公演『虫のなんたるか』(作・演出/岩橋貞典、於TORII HALL)を観て来ました。
 
 ――某県にある一般にはその存在を知られていない秘密の洞窟。所有者たちによって隠されてきたその洞窟に、ある日、そこにのみ生息するという幻の昆虫「メクラチビゴミムシ」を追って、大学の昆虫学教室の学生たちがやってくる。10年前、そこに入った者たちによって発見されていたという、幻の昆虫を追う学生たち。しかし、その洞窟には、ある重大な秘密があった……(公演案内より)

 舞台は鍾乳洞窟の内部に固定されています。ちなみにこの舞台設定がなかなか面白く、細長い舞台(坑道ですな)の両側に客席が設置されている。つまり客席が洞窟の壁の見立てになっているわけです。大劇場では不可能な面白いアイデアです。

 で、芝居は洞窟内に終始します。つまり設定に仕掛けがない。ベタ(笑)。これは岩橋作品としてはめずらしいのではないでしょうか。
 実は洞内で大声を上げそのわんわんする反響に耳を押さえるシーンが何度か繰り返され、「そのうち崩れるよ」なんて会話も交わされるので、ははーん、これはきっと実際に鍾乳洞が崩れて、崩れた後の幽霊たちの話かもな、などと想像していたらぜんぜん違った(汗)。いや、イワハシワールドならそうなる筈と思うではないですか。その意味でメタ的な仕掛けもなく、普通のお芝居だったのには意外でした。

 内容的には、柴田翔に「十年の後」という小説がありますが、あれに近い(もっともこちらは15年の後なんですが……そういえば本公演はオリゴ党結成15周年企画なんですよね)。つまり第一義的には恋愛テーマなのです。舞台に仕掛けがなく恋愛がテーマなんて、これはもうぜんぜんイワハシワールドらしくないですね(笑)

 かくのごとく、表層的には岩橋作品にはめずらしい(メタじゃなくて)ベタなお芝居なのですが、とはいえその表面を少し穿ってみれば、そこに現れるのはやはりイワハシワールドなのです。
 確かに舞台は洞窟内に固定されているのですが、しかし時間的には、10年前、現在、5年後という3つの時点を行ったり来たりします。そうして15年の時の流れが3つの時点から相互照射され、その3本のスポットライトの交差するところに、或る何かが浮かび上がってくるのです。
 
 劇中で、「ムシは進化したくて進化するのではない、環境の変化に適応させられるのだ」という意味のセリフが吐かれます。おそらくこれが本芝居を貫く根本テーマなのです。
 10年(あるいは15年)という歳月が、いかに作中人物たちを窯変させたか(「過去は見ない未来だけ見る」というセリフも、これもまた10年(15年)後の結論である限りにおいてその未来は過去を内在させているのであり、ひとつの「適応」といえる)、それが3つの時点からのスポットライトによって交差的に照らし出される。

(それゆえ変わること、適応することを拒絶する者であるチトセは、ドラマツルギー上、行方不明となる他ない。おそらく彼女は洞窟と一体化してしまったのです。15年後時点の洞窟内で歌声だけが聞こえるのはそのためにでしょう。同じく15年後時点において洞窟管理をゴスから継承したハナダが見たチトセもまた、まさに洞窟と一体化したチトセの幻影だったに違いありません)

 いろんな意味が籠められた・あるいは10年、15年という時間エネルギが滞留した「洞窟内」という装置のなかで、男女の関係がいかに変わっていったか、変わっていかざるを得なかったか、その引きずった過去と現在が照らし合わされます。
 それが「十年の後」のように一組ではなく、それぞれに対称的でもある3組のカップルについて(ばかりか派生的に現時点から始まるそれも含めて)重層的に照らし出されるという、けっこう構想雄大なお芝居でした。

 いずれにしても、学生生活卒業後十年目、十五年目くらいの人には(それぞれの内なる)一種切ない甘美な記憶が呼び覚まされる(に違いない)装置として機能するお芝居となっていたように思います。イワハシワールドの新機軸として面白く観ました。
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新ユウサクセブン・補足

2006年07月31日 20時49分18秒 | 芝居
岩橋さんに台本を送って頂いた。それで疑問点かなり氷解。
なるほど、そうだったのか! 
ユウサクセブンの意味がわかりました。ずいぶんと重層的な物語だったんだな。
けっきょくこれは「ゲーム」自身が紡いだ夢なのかも。

ラストで明かされる「真相」も、聞き逃していた。このラストの真相(の終末イメージ)は、映像的にとてもいいんだけど、言葉だけでは判りにくいなあ。私も台本を読んでやっとイメージできたような次第で、やっぱこのラストは「小説」のラストなんだね。
うーん、ノベライズしたらどうじゃろ?

なお、↓のキャスト、抜けと間違いを訂正しておりますので、ご注意。

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新・ユウサクセブン

2006年07月29日 22時06分48秒 | 芝居
オリゴ党第22回公演『新・ユウサクセブン』(作・演出/岩橋貞典、於TORII HALL)を観て来ました。

 いやあ、まさにこれぞオリゴ党、これぞイワハシワールドというべき舞台で面白かった。10年前に上演されたもの再演(勿論改変はされているのだろうが)とのことで、けだし昔からイワハシワールドはイワハシワールドだったのだなあ、と感懐を新たにする。

 設定が一見では把握し難いのは毎度のことながら、今回は特にようわからんかった。うーむ38度線を越えてきた北鮮軍に占領された韓国が舞台? あるいは日本を占領している韓国を北朝鮮が占拠?
 ともあれ舞台は秘密の採掘場(どうも実体は収容所らしい)の食堂兼休憩室に固定。ということで井上光晴「他国の死」のような収容所実験劇になるのかと思えばさにあらず。
 そこでは人々は名前では呼ばれず番号で呼ばれていて、当然「俺を番号で呼ぶな!」というあのセリフが叫ばれるも、観客はピンと来なかったようだ(^^;

 ナンバー1は存在せず、実質ナンバー2がリーダーをつとめる定員7名の収容所らしく、当初のメンバーはナンバー2(宇野伸茂)、ナンバー3(恒川良太郎)、ナンバー4(柴崎辰治)、ナンバー5(金哲義)、ナンバー7(今中黎明)、ナンバー8(有馬ハル)、ナンバー9(横尾学)の7名。個々のID情報はICチップ(?)に書き込まれていて、チップを紛失したりすると個人情報を持たない透明人間のようになってしまう。

 ところがナンバー4が行方不明になり、チップも初期化されてしまったことが判る。おりしも新しいメンバー(渡辺大助)が到着し、ナンバー6におさまる。そこに登場するのが、サラリーマン風のアバターを纏い、ヨンさまスマイルを浮かべて殺人を繰り返す謎の男(?)……。こいつは一体なんなんだ!?

 この世界ではチップに書き込まれた電脳ソフト(いわゆるAI)が実体化できるようで、収容所の余暇の時間には、旭堂南半球(のAI)がガンダムネタ講談を演じたり(ドカンと笑いを取っていたのだが、元ネタを知らない私はそのふしぎな(笑)動作や表現の可笑しさしか判らなかった)、アイドル電脳女性デュオらしい二人組が実体化して歌を披露したりして、囚人(?)たちの無聊を慰めたりする。

 ところでこの、誉田万里子さんと田中愛積さん演ずる幼女風デュオが、またなんと申しましょうか、オタク消費的といいますか、犯罪的なまでに年齢詐称的……アワワもとい蠱惑扇情的でありまして、つまり具体的にはメガネっ子メイド風というわけで、これはもうはっきりいって正視に耐えない……アワワもといもとい、目のやり場に困るほどの可愛さを発散していて、ワタクシ暫く悶絶してしまいました。

 さて、これだけでもかなりややこしいのだが、この世界で死者となると、ゲームを終了したみたいに「世界内存在」であることから自由になって、観客のように振舞い始める。ここで既にして当初の設定自体への信頼感が失われ、見る見る世界の輪郭が曖昧になっていく。

 そうこうするうちにこの世界そのものが、実はナンバー2の内宇宙であるかのような示唆が与えられるのだが、それでもなお、見終わって釈然としないというか、割り切れないものが残る。だいたい「ユウサクセブン」て結局なんだったのか?
 かくのごとく、まことに一筋縄ではいかないのがイワハシワールドというべきか。

 ここ数年来オリゴ党の芝居を見てきて、劇団員や客演の方の(演技上の)キャラも判ってきたからかであろうか、かかる奇ッ怪陋劣面妖至極なイワハシワールドを舞台に、出演者それぞれのキャラを交錯衝突させるのが岩橋流演出なのかもしれないと、今回で何となく「判った」ような気になったのだが、もちろん勘違いだろう。

 内容的にはおそらく神経症的なディック世界に近いものが隠されているに違いないと睨んでいるのだが、よく判らなかった。
 とはいえそんなものが判らなくても無問題なのであって、サブカル・オタク的爛熟の極みともいうべき奇怪な<オリゴ党世界>そのものを楽しめばよいのだろう。
 今回の「新・ユウサクセブン」が、従来にもましてそのような<オリゴ党世界>を十分堪能できる面白<怪>芝居になっているのは間違いない。
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エリの花

2005年11月28日 21時00分17秒 | 芝居
劇団May公演「エリの花」作・演出/金哲義
                   2005.11.25、26、27/atアリス零番館-IST


 大阪の朝鮮学校が舞台のストレートでノスタルジックな青春グラフィティの大感動作。よかった!! 時代設定が不明なのだが、私には自分の中高生時代と重なってみえて、とても懐かしい世界だった。
 仮に時代設定が現在だとしたら、在日朝鮮人コミュニティには、古き良き70年代が残っていることになるのだけれど、そんなメルヘンめいたことはありえないだろう。
 おそらくは座長で作・演出の金哲義さんが実際に経験された学生時代が元になっているはず。その金さんは教師役で出演されており、一見30代といったところなので、1980年代後半あたりの雰囲気であろうか。

 大阪の朝鮮中学校を舞台に、朝鮮舞踏を通して交差する、
 少年 弘文(ホンムン)と少女 愛理(エリ)の思い。
 そして少しづつ消え行く民族としての生き方の中で、
 子供達とすれ違いあう大人達を描く。
HPより)

 主人公の少女エリ(李愉未)が実にけなげですこやかで可愛らしいのであった。いまどき中学生でもこんな少女はいまい、昔はいたんだけどね(>あ、偏見かも)。とても懐かしいのであった。
 それに比べて、彼女に慕われるホンムン(柴嵜辰治)は、教師(金哲義)にどつかれ、父親(KAZU)にどつかれまくる。実は私もなろうことならば舞台に上がっていってヘッドロックかましてやりたかった。それほど歯がゆく、情けないやつなのであった。しかしながらそれはそれでウブな中学男子のリアリティがよく表現されていたように思う。中学生の男の子なんてみんなそんなものでしょう。

 以上のボーイ・ミーツ・ガール的ストーリー(タテ糸)は、在日コミュニティを舞台にしているとはいえ、特殊なものではなく、在日社会を知らない我々にも充分共感できる一般的なカタチを描いたものといえよう。

 が、他方在日コミュニティゆえの諸問題がヨコ糸として織り込まれており、たとえば目上を敬う表現は、私などにはとても興味深かった。彼らは目上の人がくれたタバコにしろ缶ジュースにしろ、その人の前では絶対に手をつけないのですね。日本人的にはこれは非常に不自然で、逆にオレの煙草は吸えんのかと怒られてしまいそうだ。

 そのような、コミュニティの成員にとって自明であった諸々の「生活の形式」(それは登場する大人たちの行動が明白に語っており、例えば朝鮮人学校で教育を受けなかったホンムンの母親(誉田万里子)でさえ息子にそのような教育を与えることを毫も疑わない)が、ホンムンやエリのような若者には、自明ではないという「すれ違い」が表現され、在日コミュニティといえども変化無しに存続していくことはありえないことが暗示される(父母世代とホンムンの世代の中間世代として設定されているホンムンの兄ホンス(岸野準)は、問題を意識しつつも疑問として表出することはなく、その意味でも2世代間の中間項(媒介項)であり、もとより社会学的にも媒介項は社会の変動を、分断に至らせず、ゆるやかに繋ぎ止める役割を担うわけだが、まさにホンスの存在(役割)は家庭においてもコミュニティに於いてもそのような媒介項であり、いつも微笑んでいる演技は実に象徴的だ)。

 とはいえ、ここで提示された在日コミュニティは、全体としてメルヘンめいており、両親の事業の失敗でアルバイトせざるを得なくなったスヒャン(岩本由佳理)に、コミュニティは決して冷たくしない。
 だが、実際のところ、ホンスの学年で異例の学芸会となったのは、コミュニティといえども金の力がものをいう世界であることの証左なのであり、そのような力が、少女たちの間の友情関係に影響を及ぼさないはずもないのであって、スヒャンがたとえばジョンジル(桜木艶)から面罵されたりした方がリアリティがあったように思うし、教師カン・バンウンの告白に、諦めの雰囲気が濃厚で、怒りの色が薄いのもすこし残念だった。

 その意味で、本作品が、ノスタルジー的興趣に於いて優れた青春劇であることは否定しようもないとしても、社会劇としての面でやや不満が残ったのも事実。
 もとよりいうまでもなく、作者が本作品を社会劇として意識していなかったはずがなく、だからこそスヒャンのエピソードや学芸会のエピソードが取り入れられているわけだから、私の注文はさほど的外れでもないと思う。

 とはいえ、コミュニティの変容は、中間項たるホンスにも及んでいる。婚約者の日本人真祐美(宇仁菅綾の特異な演技がすばらしい)のキャラクターはそのようなキャラであるからこそ、在日社会に溶け込んで行けたということを強調しているのかもしれないが、それを突破点として在日社会が日本社会に融合して行く、言い換えれば併呑されていかざるを得ない状況が暗示されているのかもしれない。

 結局のところ、日本人で「在日」を区別したがる人々が、周囲に在日の知人友人をもたない(無知の)人であることは、まごう方なき事実であって、基本的には一人の在日の友人知人の存在(知)が、区別差別の無根拠性を認知させると私は考えているのだが、そういう意味で本作は、知識もなく(求めもせず)ひきこもって、(虚構の)朝鮮人を差別したがっている最近の若者たちに、首根っこを引っつかんでも見せたい素晴らしい青春劇である。
コメント (7)
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