チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ブルー・シャンペン(2)

2004年11月27日 20時24分47秒 | 読書
ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志・他訳(ハヤカワ文庫、94)読了。

 この作家は本質的にはファンタジー作家ではないだろうか。
 たとえば遠心力で擬似重力を発生させている宇宙建造物の「床」を、回転方向に向かって走った場合どうなるかとか、確かにSFファンのSFマインドをくすぐる術を作者はよく心得ており、いかにもコアなSF作家という印象が強い、と一応いえる。けれどもそれはごく表面上のことであって、その下に隠されている、小説そのものを統べっている原理は、むしろファンタジーのそれであるように感じられるのだ。
 上述のように、小道具の扱いはいかにもSF的といえるのだけれども、メインのアイデアはSF的というにはあまりにも科学から離れてしまっている。

 表題作の舞台である「宇宙のシャンペングラス」それ自体は、SF的ワンダーを読者に与えないではおかない美しいフォルムであるとはいえ、小説の本質に何ら関わってくるものではない。

 「タンゴ・チャーリーとフォックストロット・ロミオ」の宇宙ステーションのコンピューターは、少女チャーリーの「育て親」なのだが、そのような設定に明らかなように一種擬人的な人格が付与されている。宇宙空間を眺めて「詩」を読まずにはいられない探査体もしかり。このような筆法は、オズの魔法使いのブリキ人形たちにむしろ近い。あるいは、チャーリーの「永遠の若さ」の説明はまったくなされない。
 しかしながら、そのような一種SF的装いを凝らしたファンタジーとしての本篇は、人類に致命的なウィルスに汚染され遺棄され、あと数周で月面に墜落してしまうステーションに、なぜかウィルスにも冒されず奇跡的に生き残っていた少女の救出劇として息を継がせぬ臨場感に満ちた傑作となっている。

 「選択の自由」で、3人目の子供を出産した主人公の女性は、突如自分が性に囚われていると自覚する。この時代、ようやく性転換は一般化しつつあるとはいえ、守旧派も多く、夫もそのひとり。二人は衝突し、主人公は敢えて男性と化すのだが、この性転換技術がクローン促成栽培で作った肉体に、脳を移植するというのだから、ゴシック小説と50歩100歩の科学技術。

 「ブラックホールとロリポップ」では、意識を持ち主人公と会話するマイクロブラックホールが登場するのだが、そのSF的説明がないに等しいのは別にしても、私はこのブラックホールが、赤頭巾ちゃんの狼のように(あるいは一種童話集のなかの一篇のように)感じられてならなかった。
 
 かくのごとく、ヴァーリイの描く未来宇宙世界の物語を、一皮めくれば、そこにはオズやグリム童話の世界が脈々と息づいており、それらがこれらの物語を活性化しているように思われる。

 翻って悼尾の「PRESS ENTER■」は、いまだ8ビットのパソコンが全盛期の時代の一種ホラーで、なかなかよくできている。 
 冒頭の「プッシャー」については、既にヘリコニア談話室に記した。ウラシマ効果を逆手に取ったSFマインドあふれる佳品。
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ブルー・シャンペン

2004年11月23日 18時41分16秒 | 読書
「ブルー・シャンペン」>ジョン・ヴァーリイ『ブルー・シャンペン』浅倉久志訳(ハヤカワ文庫、94)所収。

 「ブルー・シャンペン」の世界は、社会も人間も現在のそれらの延長線上にあるとはいえ、まったく同じではない。一種外挿的なディストピアとして設定されている。
 テレビジョンの出現以来、その影響力の増大が将来大変な事態を招くぞ、と言う議論はあり、事実、現在そのような弊害は確かに現れているように思われる。本書の背景世界は、そのようなテレビ化が極限にまで進展し、社会と人間が、今日の視点からしてずいぶん変容したものとなっている。そのようなアプリオリが前提としてある。

 「最小公倍数。共通項。わたしの観客。31.36歳の肉体に宿った8歳の精神。人口統計。脳腫瘍患者」/「テレビが大衆をそんなふうにしたんだよ」 (72p)

 「まわりをごらんなさい」 ある晩、メガンは彼にそういった。そのロシア料理店は、モスクワのどの店よりもおいしいという彼女の保証つきだった。「あなたが生まれてこのかたずっと食べつづけてきた食品を作ってる会社のオーナーばかりよ。あの連中は、化学者を雇って毎月の人気食品を調合させ、広告代理店を雇ってそれの需要をこしらえあげ、それにお金を払うプロレにローンを貸してる。その食品にはどんなことでもするくせに、それを食べることだけはしない」(……)「じゃ、テレビに出るものはみんなみんなだめなのか?」/「そうよ、このわたしも」(113p)

 「(……)こうした番組が実際に放送されていたころ、その大部分が批評家からくそみそにけなされたのを知っているからかな。(……)だけど、わたしには区別がつかない。どれもみんなすてきに見える(……)」/「(……)いつもゴミを食べつづけてれば、腐ったソーヤロイドだっておいしい。どうやらそれが事実らしいわよ(……)」(119p)

 「(……)彼は実生活がテレビのまねをするべきだと信じこんでいた。わたしはテレビに映らないものは現実じゃないと信じこんでいた(……)」(123p)

 そのようなディストピア世界で展開されるのは、表層的には「愛こそ全て」(「愛はなによりも強いはずじゃないか」/「いいかげんにそのおつむをテレビからひっぱりだしたらどう?」160p)なバカな男と、その男を騙して、踏み台にして、「金こそ全て」である(「最後にはお金が勝った。そして、今のような世界ができあがった。お金のことしか頭にない組織や機関が、すべての政治哲学をのみこんじゃったのよ」156p)ディストピア社会の競争激しい大海を渡っていく、上昇していく女との物語である。

 とはいえそんな単純な話ではない。男の親友(?)アンナ=ルイーゼがいみじくも語るように、

 「彼女にはあれしか選択の道がなかったのよ。それは最初からわかってた。」(157p)

 だが、男はそれがわからない。なぜならこの男、「何のための人生かってことを、あんまり考えてないみたい。あんたはねじこむのが好きで、泳ぐのが好き」(95p)なだけの、オリンピック選手くずれの、経済や投資に関して「よくよくその方面の才能がないらしい」(146p)テレビの申し子だからだ。まさに31.36歳の肉体に宿った8歳の精神!

 「ああ、助けて!」アンナ=ルイーゼはうめき声をもらした。「もはやつけるクスリがないわね。この感情発育不全のスモッグ吐きは」(95p)
 「まあ、やめとく。そのかわいい小さなおつむを悩ませるのはかわいそうだもんね」(98p)

 そのような他者の気持ちを読み取れない彼だが、メガンと付き合ううちに、しだいに共感することをおぼえ始める。久しぶりに再会したアンナはいう。

 「この前のあんたと比べると、まるで生きかえったみたい」(142p)

 彼は成長していき、捨てられたことで、殺そうとまで憎んだメガンを許す気になる。

 「クーパーの憎しみは急速に消えていった。心の傷が癒えるのにはもっと長くかかったが、とうとうある日、メガンを許せる気持ちになった。」/「それからずっとあとになって、クーパーはさとった。もともと彼女のしたことは、おれが許すも許さないもなかったのだ、と」(162p)

 こうして表層的な悪女物語は、実は一種精神的かたわだった男の、魂の救済の物語に変相する。
 本篇は、いわばSFの純文学としての可能性を提示した傑作ノヴェラといえる。

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