チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ひとりっ子(下-2)

2006年12月29日 04時46分26秒 | 読書
<承前>

「ひとりっ子」
 ものごとを「決断」するとはどういうことだろう。
 たとえば、あなたが渡ろうとした横断歩道の信号が赤に変わってしまったとしよう。そのときあなたはどう(対応)するだろうか? 立ち止まって青になるのを待つ。信号を無視して渡ってしまう。そこで横断するのはあきらめて歩き出す……。そのほかにもいろいろ、考えられる限りの様々な対応(行動)の仕方があり得るだろう。合理的で妥当なものから非合理なものまでひっくるめて、無数にあるに違いない。

 「決断」とはそのような無数の「可能態」の中から、主体の「自由な意志」によって或るひとつの仕方が選択され執行されることをいう。逆にいえば「決断」によって無数の可能性はひとつの現実に収斂するということだ。これはまさにコペンハーゲン解釈の「観測以前の状態は確率的にしか存在せず、観測された瞬間にひとつの状態へ収束する」であろう。

 多世界解釈を採る本篇では、かかる「決断(選択)する自由な意志」に疑義が呈せられる。
 何度も繰り返してきたように、多世界解釈では無数の可能性が(妥当合理的な可能性も無意味で非合理な可能性も含めて)すべて(どこかの宇宙で)実現していると考えるのだが、それを決断主体に即して言い換えるならば、主体が決断した瞬間、一個の存在であった主体はありうべき可能性すべてに対して1対1対応した(選択した)無数のバージョンに分岐してしまうということになるはずだ。

 ありうべき可能性が全て、自分(主体)の分岐バージョンによって選択され「実現」しているのだとしたら、一体「決断主体」は何を「決断」(選択)したというのか。
 我々は通常(決断や選択を自ら行なうところの)「自由な意志」をもって行動していると自明的に思い込んでいる。ところが多世界解釈では、そのような「自由な意志」は、事実上無効となってしまうのだ。しかしながらそれはあまりにも不条理で、主人公には耐えられないのだった……。
 この設定がユニークで実にすばらしい。圧倒的なセンス・オブ・ワンダーを発散している。

 「自由な意志」というものが実際のところそのような実体を持たない虚語であるならば、これまで「在る」ことが自明だった「人間」、とりわけ近代的自我を持つ「主体」なんて、どこにも存在しないことになってしまう。多世界解釈は(フーコーとは意味が違うが)「人間の無効」、「主体の無効」というニヒリズム(訳者の所謂「多世界解釈の憂鬱」429p)を主人公にもたらすのである。
 では、かかるニヒリズムから脱却するにはどうしたらいいのか。分岐の発生を食い止めればいいのだ。

 その思いが彼をしてクァスプという量子論的効果を遮断するコンピュータを開発せしめる。
 このクァスプ上で走るAIは、その個人的な決断によって分岐は生じない「シングルトン(単一存在)」となる。おりしも生身の人間と外見上全く異ならないアンドロイド(アダイ)が開発されており、このアダイのハードウェアにクァスプを乗せたAIを、主人公夫妻は「ヘレン」と名づけて自らの娘とする。
 そうして誕生したヘレンは、多世界解釈から解放された、この世界で唯一自己決定できる、自由な意志を有する存在となるのだった……。

 ところで妻のフランシーンは、主人公のオブセッションに巻き込まれてしまった犠牲者の一面があるように思われる。当初「フランシーンは自分が多元宇宙をうけいれていることをとくになんとも思わず、信じると同時に信じずにいることができた」(374p)のだから。
 イーガンの作劇の傾向として、本篇のように主役に男女のペアが設定され、片方の「狂気(オブセッション)」にもう片方が引きずられてしまうという展開をとることが多いようだ。本集では、本篇の他「真心」、「二人の距離」が同じ構造だろう。

 しかしながらそれは著者の文学的な構想によるものではなさそうで、むしろストーリーを走らせるために無理やりそうした結果、たまたま面白い人物造詣となったような感が強い。つまりメインアイデアの展開のために作中人物がその道具になってしまっている面があり、その意味で「二人の距離」と同様の不満を感じないでもなかったのだが、本篇の場合は設定の魅力とその論理性に圧倒されて、そのようなストーリー展開上の瑕疵は殆ど気にならなかった。

 奥泉光の「解説」はさすがに鋭く、いい解説だと思ったんだけど、「ヘレン」を完全に間違って理解しているのが残念だった。ただし本質的なものはちゃんと捉えていて
「この子供は端的に人間ではない」は、そのとおりだし、
「人間でないものを人間として育て、愛情を注ぐ両親の姿には、なにかぎょっとさせられるものがある」も同感。
 ただし私がヘレンに対して「人間ではない」と感じる理由は、単にAIであるからではなく、彼女がシングルトンで分岐を発生させない存在だからなのだが、そのあたりイーガン自身がどの程度まで「自覚」して書いているのか興味深いところ。その意味で「オラクル」のラストの一行は示唆的なのだが……

 以上見てきたように本集の諸作品はテーマ的に緊密に繋がっている。単発の作品集成ながら、連作長篇の趣きがある。それはいうまでもなく編訳者である山岸真さんの意図したところなのだろう。氏のアンソロジストとしての力量が遺憾なく発揮された傑作集となっている。

 (この項、了)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとりっ子(下-1)

2006年12月26日 22時45分27秒 | 読書
「オラクル」
 主人公ロバート・ストーニイがアラン・チュ-リングをモデルに造型されているということに、私は「編・訳者あとがき」を本篇読了直後に読むまでぜーんぜん気づかなかった(ネタバレ注意と書かれていたので事前に読むことを控えたのだ)。
 しかしながら――である。作中人物のモデルがアラン・チュ-リングやC・S・ルイスであることが事前に分かっていたとて、本篇の面白さがいささかでも割り引かれるだろうか。そんなことはない。それどころか、そういう知識が事前にあったほうがより楽しめたように思うのだ。
 おそらくその方面に造詣の深い読者ならば、本篇のモデル関係はすぐに察しがついたのではないだろうか。だいたい本格ミステリでもないのに、しかも作品システムには外在的な知識なのに、ネタバレも何もないと思うんだけどなあ。おかげで遠回りしてしまった気がする。そうそう、山田正紀だったら絶対実名で小説化したと思う(笑)。
 ということで以下の設定に気づくのは、読了後上記「あとがき」を読み、改めて検索で確かめた結果ということになる。

 ――多世界解釈はウィキペディアによると1957年エヴェレットによって創始されたとある。本篇214pでストーニイは46才であると言明しているから(チューリングの生没年は1912-1954だから)、この年は1958年であることが分かる。したがって多世界解釈をストーニイが知っていたというのは筋が通るのである(まあそのように設定されているわけです)。
 チュ-リングが同性愛で告発されるのは泥棒に入られたからで、それが原因で自殺にいたるのは本篇で語られているとおり。したがってクイントが接触した(あるいはその申し出を受け入れた)時点で、作品世界は「この世界」と分岐したことが判る。ちなみにヘレンが元いた世界は、クイントが接触しなかった(あるいはその申し出を拒否した)「この世界」を含むどこかの世界ということになる(「この世界」と限定はできないということ)。

 以上のような推理はストーニイがチューリングであるという知識なしには不可能、というよりも、知識があればこのような作品世界を成立させるための作者の工夫が垣間見られて面白さは倍増するということなのだ。訳者がこれを「ネタバレ」として隠したのは不審。むしろ積極的に前書きを付けてでも明示してほしかったところ。

 実は「編・訳者あとがき」を読んだあとでもう一度読み返してみたのだけれど、ストーニイがチューリングであることを了解していると、ストーリーが滅茶苦茶判り易くなって、ちょっと驚いたほど。
 たとえば、泥棒に入られたときなぜ嘘の証言をしたか(著者がかなり遠慮して書いてあるので分かりにくいのだが)一目瞭然だし(というか読者がモデルについて了解しているという前提で書かれているような気がしてならない。だから曖昧に書いてあるのでは? まあ著者の教養の分野・レベルからすれば知っていて当然なのかも)、虎の檻からヘレンに救出されるシーンでの、ヘレンをロシアのスパイと思い込んでいるところから発生する頓珍漢なやりとりの可笑しみも、再読では味わえたのだ。

 「ぞっとするようなことをいうのね! あなたがたがそれほどの非文明人だなんて、ときどき信じられなくなる」
 「英国人がということか!」
 「あなたがたみんながよ!」
 「きみの発音にほとんど癖がないのはたしかだね」
 「映画をうんと見たから」(……)「たいていはイーリング喜劇を」(229p)

 「この国を出る気はない」「研究内容についてもきみと話はしない」
 「了解よ」(230p)


 ちなみにヘレンは一世紀未来人(?)なので20世紀中葉の英語を当時の喜劇映画で勉強したというわけだ。
 このヘレンの正体は、次の「ひとりっ子」で明らかになるのでそちらに譲るが、終盤に現れるルイスの別バージョンも、ヘレン同様分岐を発生させないAIらしい(「冷たい手が肩を握る力を強めた」「わたしが一緒にいれば(……)きみは分岐することができない」)。
 ヘレンはなぜ「この世界」にやってきたのだろう。「わたしはあらゆることを変えるために来たの」(228p)とヘレンはいう。
 ヘレンにしろ別バージョンC・S・ルイスにしろ、他世界の自分や恩人?(心情的父?)の窮状を救おうとしてやってきた。ところが無限の分岐世界には無限のストーニイ=チューリングがいるのだから、ヘレンの行為は砂浜で砂粒を拾うようなものではないのか?

 かつてのタイムパトロールものは、「正しき一本の時間線」(原点世界)という前提をアプリオリに自明として、歴史を変えようとする企みに敢然と立ち向かっていった。いわゆる「改変歴史SF」である。このような視点をイーガンが相手にしていないことは、「ひとりっ子」に改変歴史SFを揶揄している箇所があることからも推測できる。
 それに対して多世界解釈では、「一本の正しき時間線」などありえない。多世界解釈では原理的に宇宙はプランク時間ごとに無数に分岐しているはず。しかもそれらはすべて選択され実現した世界として同等・平等なのだ。原点宇宙などありえない。したがって「改変」なんてのも無意味ということになってしまう(ここから「多世界解釈の憂鬱」も生まれてくるのだが、それについては「ひとりっ子」で)。

 繰り返しになるが、そういう次第で多世界解釈的多元宇宙が舞台の本篇において「タイムパトロール」的な「改変」は全く意味を持たない。大体上記のように無限に存在している分岐世界の一々は、砂浜の砂粒に等しいのだ。そういう意味で、そんな無数の世界のうちの任意のひとつの世界である「作品世界」に於いてヘレンがチューリングの窮状を救ったからといって、他の無限の分岐世界の無限のチューリングを救ったことにはならない。 
 「わたしはあらゆることを変えるために来たの」とは何を意味するか?

 うーむ、ひょっとしたら本篇は、「多世界解釈的多元宇宙に(本来不可能な)タイムパトロール的介入を実現」させるトンデモない壮図なのかも知れんぞ。
 それを成立させるのが本篇のタイトルでもある「オラクル」なのでは。

 オラクルとは「あるプログラムが停止するか、それとも無限に走りつづけるかを前もって教えてくれる機械」である。これを停止問題というそうだが、ヘレンは自分が「オラクル」になり得ると考えている。この場合のオラクルは、無限の分岐世界のそれぞれが停止するか、無限に走りつづけるかを知る機械であろう。しかもそれは「粗視化」レベルで働くオラクルなのであって、粗視化レベルに立てば、そのような改変を一括して行なえるということなのだろう。しかもヘレンは分岐を発生させないから、無数にある世界を一括して改(!)するその決断は他の可能性を完全に排除できる!(もちろんその後はそれからの分岐が始まる)

 「粗視化」レベルでの各バージョンの在り方がいまいちよく分からないのだけれど、ともあれ(私の解釈が正しければだが)本篇は上記のような、多世界解釈的分岐宇宙にタイムパトロール(すなわち「正義」の介入)を存在させようとする、ドキドキするようなアクロバティックなハードSFといえるのではないか。
 でも、ハミルトン教授(C・S・ルイス)はラストでこう言うのだけれども……。「選択はなされた。さあ、立ち去れ」

(以下次回)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとりっ子(中)

2006年12月25日 22時42分28秒 | 読書
グレッグ・イーガン『ひとりっ子』山岸真編訳(ハヤカワ文庫、06)
 <承前>

「決断者」
  主体的に生きるとは、日々刻々と変化する状況において「自分に忠実に」「自由な意志」において自ら決断して乗り越えていくということだろうと上に書いたが、このような「決断」を為したり為さなかったりする「自由意志」を持つ主体という観点において、けれども本当に主体である「私」は「自由意志」を有しているのだろうか、といえばそうとは限らないといえる余地がある。

 「私」ではなく、外在的な文化や教育によって「刷り込まれた」つまり「内面化された社会」(無意識は他者の言表である>ラカン)が数ある行為可能性の中からあるひとつの行為を選択させているという場合がありうる。
 こういうのは考え始めたらキリがなくて、実際本篇の主人公もそれに捕えられてしまっている。
 で、かれは「自分の行為を決断しているのは誰か」を確かめようと、夜間見ず知らずの(自分とは一切繋がりのない)人間に追いはぎを敢行する。そうして全く無防備な相手に拳銃を向ける。
 そうしてまさにこの瞬間、主人公は、社会の刷り込み(道徳もそうだ)ではない「正味の」自分(私の中の私)が、引き金を引くか引かないかという決断を、誰に強いられるわけでもない自分の意志で「決断→行為」しようとしていると実感して満足するのである(入れ子構造であるマトリョーシカ人形が象徴的に示している)。「決断者、それがおれだ」

 さてこの追いはぎで主人公はパッチ(眼帯)と呼ばれる目に装着する情報機器を奪い、みずから装着する。それには非合法な「百鬼夜行」というソフトがインストールされていた。それはある行為を決断する瞬間に、そのとき可能なすべての可能性がより集ってき、その中のひとつの可能性が選択され「行為」として現実化した瞬間、残りが消滅する過程を「視る」ことができるものだった。すなわちコペンハーゲン解釈が目の当たりに見える装置といえるかも。

 主人公はパッチを装着してふたたび追い剥ぎを敢行する。無防備な被害者に銃を向けたとき、主人公の(パッチを着けた)目に映じたのは……行為に第一原因(決断者)などいないという事実だった!!
 ミンスキー『心の社会』をまんま小説化したという感じだが、ここにいたって著者は、これまで肯定してきた「自由で主体的な決断者としての人間」に対して懐疑を表明しているようだ。

「ふたりの距離」
 「外界の実在を証明する術はない(……)他人の心ともなればなおさらだ(……)その両者の実在を無条件にうけいれることが、日々の生活をつつがなく送るための唯一の実際的な方策」であるにしても「他の人々が存在するのならば、その存在をどのように感じているのだろう?」という主人公の問いは、実は社会学者のテオドール・リットによってつとにその機構を「現象学的」に説明されている。著者はリットの所説を知っているのだろうか、興味があるところ。

 ともあれリットによる説明(視界の相互性)は併し原理的に間接的でしかありえず、苦しい説明であるのは間違いないのだ。その点本篇は、「ぼくになることを」『祈りの海』所収)で使われた「宝石」という、脳に代替されるニューロコンピュータが日常的に使用される世界という設定を再び使うことで、主人公とその妻であるシーアンのふたりが究極的な「心の同一化」というべき直接的体験をする顛末が語られる。

 結論は、人間関係(社会関係)は「外界の実在を証明する術はなく他人の心ともなればなおさらだ」という間隙をリット的な現象学的想像作用(思い込みや勘違いも重要な要素)によって埋めることで根本的に成立しているという事実の追認というかたちになる。人間(ニンゲン)を人間(ジンカン)と書く所以である(木村敏)。
 ここでも人間と人間が離れているからこそ人間関係や社会関係が生じてくるのだという著者の「信念」が顔を現している。冒頭で言われラストでも繰り返されるとおり「ひとりきりで永遠を生きたいとはだれも思わない」。他者があって初めて人である。その意味で他者は私に内在的だが、とはいえそれは「離れ」を前提とする。

 「理解」には「未知」が前提であり、しかも完全なる理解は原理上ありえず、理解は常に、いわば弁証法的に永遠に繰り返されて次第に間隙を埋めていく以外になく、しかもアキレスの逆説そのままに100%の理解はありえない。併し各人それぞれのその過程が網の目となって社会は(現実にというか事実上)構成されているのだ。
 その意味で本篇は「ホモ・ゲシュタルト」批判といえるかも。

 なんか戦前の日本の探偵小説を読んでいるような肌触りを感じたのは、主人公が説明の道具と化していてダンボールを切り取ったヒトガタめいて見えるせいか。

(以下次回)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ひとりっ子(上)

2006年12月25日 22時06分48秒 | 読書
グレッグ・イーガン『ひとりっ子』山岸真編訳(ハヤカワ文庫、06)

 本書は日本オリジナル短篇集ながら、ある意味連作長篇のように読める。

「行動原理」
 本篇はイーガン版「自由からの逃走」である。
 主人公はただ現場に居合わせたというだけで無意味に殺害された妻の不条理な死を受け入れらない。憎んでいる犯人を殺してやりたいという思いは強いのだが、現実にそんな行動原理は持ち合わせてなく、ただ悶々と葛藤するばかり。
 そのうちに犯人が刑期を終えて出てくる。主人公は思いのままに行動原理をインプラントできるナノテクを購入する。それは「命は安い」「人間は肉の塊だ」という価値観を時限的に自明と感じることができるインプラントだった。主人公は首尾よく犯人を射殺するのだが……

 主体的に生きるとはどういうことだろう? 日々刻々と変化する状況において「自分に忠実に」「自由な意志で」自ら決断して乗り越えていくということだろう。そして殆どの場合それは「相容れない衝動のすべてとともに生き、頭の中の数多くの声に悩まされ、混乱と疑念をうけいれ」(36p)つつ為されるものであるに違いない。
 振り返ってみるまでもなく確信にみちて決断できることはごく僅かだ。決断すべき問題が重要であればあるほどそのストレスは大きく、決断後も「これでよかったのだろうか」という反問が絶えず決断者を襲う。

 ところがインプラントは、主体的な決断に必ずついてまわるかかるストレスをシャットアウトする。インプラントされた行動原理に基づく決断は自明化され迷うことはありえない。一種の宗教的帰依と同じ効果があるのだ。

 後述する「ひとりっ子」「クァスプ」は量子論的効果を遮断するため、その決断は常にひとつで多元宇宙を分岐させないのだが、そうであるならば「クァスプ」上を走るAIであるヘレンはおそらく決断のあと「こうしたほうがよかったのでは」といった後悔に悩むことはないのだろう。けだし「後悔」とは多元宇宙からの残響なのだから……。

 閑話休題、そういう意味で本篇のテーマは実のところフロム「自由からの逃走」と同じだと思うのだ。強烈な宗教的帰依は安心感をもたらす。インプラントを使用したことで、主人公は知ってしまったのだ。主体性を放り出し、依存することで得られる「蜜の味」を。それは言い換えれば多元宇宙が発生しないという「安心」であろう。
 本篇では著者は、主体的な決断者であることが人間を人間たらしめている、と考えているようだ。その観点が変わらず「ひとりっ子」に及んでいるのだとしたら、著者はヘレンを世にあらしめた「ひとりっ子」の主人公「ぼく」の行為を肯定していないといい得るわけだけれど……。

 
「真心」
 前作「行動原理」には、「悩み引き裂かれつつも、ひとつの「決断」を主体的に選択し担うことこそ人間を人間たらしめている契機Momentである」という著者の「信念」が表明されていたように思う。
 本篇ではかかる「信念」が変奏されている。原題はFIDELITY。辞書によれば「(配偶者への)貞節」。編訳者が訳題を「真心」としたのは、まさに「永遠につづく貞節」は「真心」といえるのかという意味を籠めたかったからではないか。

 主人公夫婦はどちらも2度結婚に失敗しているばかりか手酷い傷を負っている。妻は元の夫に、梅毒であることを隠して性交渉された結果「先天性梅毒症で一生精神は赤ん坊のまま」である娘を出産する。併しながらいま夫婦はその子をふたりで育てている。夫も妻も今のパートナーにきわめて満足しているのである。
 ところが現在のこの幸福な状態のあることが、逆にこんな幸福の絶頂が長く続くはずがない、きっとカタストロフが待ち構えているに違いないという強迫観念を妻にもたらす。頂点より上はない。あとは下りしかない……。
 「愛している」という夫に「いつまでその気持ちでいられるつもり?」と反問しないではいられない妻。今は心底そう思っていても、人間は変化する。

 で、インプラントである。前作のインプラントは自分の望む行動原理を人工的に植えつけるものだったが、本篇の「ロック」というナノテクは、現在の精神状態(のある瞬間)を永遠に変化しないようロックしてしまうものなのだ。この処置をすれば二人の夫婦愛は「今のまま」永遠に変わらなくできる。瞬間が永遠へと変わる。となれば「最高の瞬間」をピンで止めなければならない。ということでふたりは2週間の休暇をとって「最高の状態」へと自分たちを励起する。その結果二人が達した精神状態は……。

 しかしながら人間は……いや人間だけでなくすべては移ろい変わっていく。20年前の日記を読み返してみるがいい。こんな考えを当時おれはしていたのかと驚かされることがきっとあるはずだ。人間は変化するからこそ人間なのだ。夫も妻も互いに変わっていく。その変化に伴って夫婦間の「間合い」もゆらぐ。丁度波間に揺れる小舟の上バランスを取りながら立つように、そのゆらぎに合わせて間合いを測っていく、測っていき続けることこそ、ほんとうの夫婦関係と呼べるものだろう。

 ロックの使用後、15年たっても二人の結婚生活は続いている。知人たちの間でもこれだけ長く夫婦であり続けているものはいない。二人の関係はいささかも変化しない。
 娘は24歳になった。「精神年齢は一生赤ちゃん」のはずが、主人公の目にはそれでも彼女は間違いなく成長していた。少しずつ、少しずつ。
 しかし――彼ら夫婦は変わらない。 夫はいみじくも思う、「今以上を望むことは絶対に不可能なのだ」と……

「ルミナス」
 これは凄い!
 小松左京に「こういう宇宙」という傑作短篇がある。この世界における光速は秒速約30万キロだけれども、そのような物理定数の数値がこの宇宙とは違う宇宙があるのではないか、という話だった(と思う)。本篇はその数学版。

 主人公は、数学は物理的系に影響されることがない永遠不変のものだと考えるプラトン的イデア主義者。ガールフレンドのアリスンは、数学の定理は物理的系によってテストされてはじめて「真」となるもの。併し現実には宇宙開闢以来の150億年間に全てがテストに曝されたわけではなく、きっとこの世界の数学とは論理的に不整合な数学があるはずだ、と考える。つまり「不備」は存在すると。
 やがてアリスンは、計算によって「真」であると結論されたところ任意の言明「言説S」について、彼女のノートパッドが「非S」を証明するのを見出す。「不備」は存在した! この宇宙の隣に(重なって?)「計算的に隔たった」オルタネイティブな数論が支配する領域があったのだ。

 具体的にアリスンが見つけたのは、二つの両立しない、それぞれの版図において「真」である数学の系の境界線の一部だった。そこでは二つの数学が境界線で互いに領地を取ったり取られたりしていた……。この辺のイメージはベイリーを彷彿させる。
 ところで、もしこのオルタネイティブな数論をコントロールできたら、それはとてつもない武器になるに違いない。この発見を聞きつけた巨大企業がそんな良からぬ陰謀を抱いて二人に接近してくる。が、ふたりは接触を拒絶する。すると巨大企業は本性をむき出して暴力に訴えても彼らが発見した「不備」のマップを奪おうとする。いやこの辺は山田正紀調です(^^;

 身の危険とこの世界の危機に直面したふたりは、マップを暗号化して互いの身体内に分割秘匿し、アリスンの恩師であるユワン教授を上海に頼る。 教授は上海にある超高速(量子?)コンピュータ「ルミナス」を自由に使用できる立場にあった。ふたりは教授の協力で30分だけルミナスを自由に使用する許可を得る。ふたりは暗号化していたマップをルミナスに落とし込み、「不備」を駆逐するように指示を打ち込む。「不備」はみるみる縮小され始める。が、とつぜんそれに「抵抗」を示し始めたのだ! これはオルタネイティブな数学を生きるものたちが存在することを示しているのか?
 この辺はレムに勝るとも劣らないデンス・オブ・ワンダー爆発!
 やがて所与の30分という時間が迫ってきたとき……。

 面白さは本集随一だが、派手な分、テーマ性は希薄。本集の中ではやや異質で浮いた印象。

(以下次回)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

魔女誕生

2006年12月17日 22時14分50秒 | 読書
ロバート・E・ハワード『魔女誕生 新訂版コナン全集2宇野利泰・中村融訳(創元文庫、06)

 安眠練炭さんがご自身の日記に「キャラ萌え」にみる「キャラ」と「作品」の関係についての考察を投稿されていて、非常に啓発されました。とりわけ、
 「キャラ萌え」に走る人々の中には、あたかも「作品」を全く見ていないかのような振る舞いをみせる人が少なからず存在する……と「キャラ萌え」に違和感をおぼえる人の目には映る。
 という部分は、まさに自分の発言を見るようでこそばゆく感じたほど、私ならば「キャラ萌え」の人たちはキャラ以外の作品の要素を軽視しているように感じられる、と言い換えたいかも。
 なぜならば、その結果として作品が本来持っているマルチプレックスな多面的で豊かな魅力を「キャラ萌え」の人たちは十全に味わっていないのではないかといぶかしむからなのです。

 以上は受け手の意識の問題(つまり「キャラ萌え」)ですが、さて当のコナンシリーズも、同一「キャラ」が登場する複数の「作品」群として存在しており、むしろ作品そのものが読者をしてキャラ萌えに向かわせ易い作りになっているといえなくもない。
 一応そういえるのだが、「原作とは全くかけ離れた世界設定のもとで「キャラ」が活躍する」類の作品では、しかしながらないように思われます。
 コナンシリーズもディ・キャンプらによって所謂二次創作といえる作品を不可避的に生み出しました。この新訂版コナン全集ではそのような作品は排除されているわけですが、そうはいい条、彼らの二次創作品も最低限度ハイボリア世界を必ず踏まえているのであって、いわゆるキャラ萌えに基づく二次創作とは一線を画すものであるといえるのではないでしょうか。

 かかる事実が明らかにするのは、コナンはたしかに「キャラ」であり、複数の作品に於いて「同一性」を保持する存在でありますが、だからといってハイボリア世界を離れては存在し難い、ある意味限定的な「キャラ」なのではないか、ということなのです。

 つまりハイボリア世界があってこそのコナン(というキャラ)なのであり、コナンというキャラとハイボリアという作品世界は相互に支え合ってはじめて存在しえている、言い換えれば相互内在しているように私には思われます。
 その意味でコナンをハイボリア世界から引き離した二次創作をする人がもしいたら、その人はコナンシリーズという「作品」を本来の豊かさにおいて味わうことができていないといえるのではないか。つまり海燕さんの主張に反して「キャラ」を見ていながら、「作品」を見ていないということがありえるということの、その証左となる事例といえましょう(いえ実際にそういう事例があるのかどうかは知りませんけど)。

 結局二次創作(但しオリジナルの作品世界から離れた)に消費されるキャラは、そのオリジナルの作品世界の弱さに或る一定の根拠を求められるのかもしれません。管見では、コナンシリーズの作品世界はそのような脆弱なものではない(それは火星シリーズにもいえる。ジョン・カーターとバルスーム世界は相互内在的であって、バルスーム世界(もちろんサスーム世界もですよ(^^;)を離れたジョン・カーターの二次創作というのはあまり考えられないように思われます。今思いついたんですが、司政官シリーズは逆に作品世界(設定)がキャラをはるかに凌駕した小説といえるかも)。

 閑話休題、前置きが長くなりました(って前置きかよ)。
 本集では若き日のコナンの、主に東方諸国就中ヴィラエット内海辺における活躍の物語を蒐めている。野蛮人コナンには南軍将校であったジョン・カーターのような変な騎士道精神や硬直した道徳心は微塵もなく、天真爛漫におおらかに女を求める健康的な好色漢であり、野性の正義感とでもいうべき行動原理に突き動かされているのがわたし的には好感が持てます。

 本集も全作品が意中の女を獲得しようとする意欲がストーリーを駆動させており、しかしながらその当の女は案外情けない風に設定されているのはやや不満なのですが、その中ではコナンを騙して利用しようとした女ザビビ(ナフェタルリ)が登場する「ザムボウラの影」が意外性もあって一等面白かった。次に酷薄非情な魔女サロメが憎々しくて天晴れな「魔女誕生」「鋼鉄の悪魔」も面白いが、途中で寸法が狂ってしまっているのが惜しかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楼蘭王国

2006年12月13日 21時45分37秒 | 読書
赤松明彦『楼蘭王国 ロプ・ノール湖畔の四千年(中公新書、05)

 われわれが日常使用している世界地図には、新疆ウイグル自治区のある地点には、「楼蘭」という地名が必ず記載されている。小学生が使う地図でもそうなっている。でもそれは世界標準ではないらしいのだ。著者は実際に外国で出ている地図をいくつか確認してみたそうだが、中国で印刷されている中華人民共和国地図でさえ、「楼蘭」の記載はなかったと著者はいう。
 たしかにそんな(現在では)人も住まない荒野の一地点を、現代の世界地図に載せている日本が異常なのだといわれてみれば、確かのそのとおりかもと思わされる。
 よほどわれわれは「楼蘭」が好きなんだろう。日本の地図には日本人の楼蘭への憧憬が反映されている。この(世界的にみれば)異常な楼蘭への関心はどこからもたらされるのだろうか。やはり井上靖の呪縛なのかなあ。私の場合はヘディンだったけれども。

 ともあれ、そんな「楼蘭」大好き日本人も、その楼蘭がBC77年に国名を改めた「鄯善」国の名前を知るものは少ないだろう。井上靖が描いたように、
 「この楼蘭国が東洋史上にその名を現して来るのは紀元前百二、三十年頃で、その名を史上から消してしまうのは同じ紀元前77年であるから、前後僅か50年ほどの短い期間、この楼蘭国は東洋の歴史の上に存在していたことになる。いまから二千年程昔のことである」
 というのは間違いではないけれども、実際の楼蘭国は滅びたわけではなく、鄯善国と名前を替えて継続しているわけで、50年云々は井上靖の半ば捏造されたロマンティシズムに過ぎないともいえよう。
 
 また逆に楼蘭国の以前にも、(楼蘭国がとつじょ無から出現した筈もなく)ロプ湖畔のこの地に人間の活動はあったのであって、発掘されたミイラの着衣や棺の木材のC14や年輪年代法の測定結果から、今から3800年前(BC1800年)頃にはすでにこの地で人の営みが開始されていたことが分かっているらしい(その住民がコーカソイドであったことも)。

 しかもなお、そもそもその地が漢書にある「楼蘭」であることが判明したのは、ヘディンがその地の遺跡で発掘した漢文文書に「楼蘭」の名前があったからなのだけれども、ところがその文書に記されていた年号は3世紀半ばから4世紀前半のものだったのだ。つまり国名としての楼蘭はBC77年に消え去っていたにしても、楼蘭の地名は魏晋時代も続いていたということになる。

 このように本書は、副題にあるとおりロプ・ノール湖畔の4千年の人の営みを、文献学、考古学、人類学、言語学の知見を駆使し、いきいきとまるで目の前にあるごとく読者にみせてくれる。私は本書を通読する間に、タリム盆地の土地鑑を掴んでしまったような、そんな大それた錯覚さえ抱いてしまった(^^; 「楼蘭」大好き日本人には必読の好著であろう。

 ところで、そもそも楼蘭と鄯善は同じ地であるといえるか? 以前の楼蘭国がその名を鄯善国に改めただけならば、その位置は変わっていないはずである。著者は漢書と後漢書の地理記述を比較詳読することで両者が別の場所であることを明らかにする(ただ私はロプ湖が「さまよった」経緯で両者間の移動があったのではなく、もともと当時のロプ湖は現在の塩沢全体が満々たる大湖だったのではないかと想像するのだが)。

 かかる文献推理的な部分が本書の最大の魅力であって、とりわけラストで「王都はどこであったか」という問題を、発掘されたカローンシュティー文書(当時の楼蘭人が喋っていたのは中期インド・アーリアン語に属するガンダーラ語だが、その書き文字をカローンシュティー文字という)の、とりわけ王の発令を写した木簡の詳読から推理し解明する段では、かつて私は「邪馬台国はなかった」の結論で舞い上がるような興奮を覚えたものだが、それと同様な高揚感を感じずにはいられなかった。
 論理的な邪馬台国ファンや本格パズラーファンが読んでも屹度たのしめるものだと思うし、むしろぜひとも読んでほしいと広くお勧めしたい小著である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黎明に叛くもの

2006年12月10日 20時10分26秒 | 読書
宇月原晴明『黎明に叛くもの』(中央公論社、03)

 本書は『国盗り物語』へのオマージュも籠めて書かれたというだけに、斎藤道三が国盗りの野望を織田信長に託したとする基本ラインは踏襲しつつも、さらにそこに道三と松永弾正が義兄弟であったという壮大な虚構が付加されてとんでもない幻想伝奇小説に仕上がっている。
 のっけにコーランが引用されて掴みはばっちり。なんと道三と松永弾正久秀は、実はモンゴルのキプチャク汗国によって滅ぼされた暗殺教国として名高いイラン高原の山塞の国アラムートの遺民で、日本に流れ着き暗殺を生業としていた果心居士の弟子だったのだ!

 いうまでもなくイスラム教シーア派の分派イスマイリ派からさらに分岐したニザリ派は、ハシシを自家薬籠中のものとするところからハシシンとも呼ばれ、拐かしてきた子供を暗殺戦士として鍛え上げ周辺諸国を震撼せしめた国家で、ハシシンが転訛してアサシンの語が生じたらしい。これはあくまでも西欧人のイメージらしいのだが、ともあれ、このニザリ派の遺民が日本にやって来、累代果心の名を世襲して戦国末期に到ったというのが本篇最大の魅力的な設定なのだ(第3章で初代果心は元寇直後、福州から来日したことが明らかにされる)。
 道三も久秀も京の河原で果心に拾われた浮浪児だった。彼らは師のもとでニザリの波山の法(ペルシア幻術と暗殺技術)を学び、やがて天下を二分しようという大望を抱いて師を殺害し、西と東に分かれる……。ちなみに波山はハッサン、果心はカシムだ。

 たしかに戦国時代にイスラム教が伝来していても不思議ではない。大体明の鄭和(1371年 - 1434年)はイスラム教徒だったし、14~15世紀には既にインドネシアやフィリピンはイスラム化されていた。イスラム商人が日本にやってきていない方が不自然のように思うのだが、(ニザリ派に拘らず)イスラム教の日本伝来についての情報は検索しても見つけられなかった。唯一このページによれば、「何よりもバテレンは、キリスト教の最大のライバルであるイスラム教が日本にはまったく進出していないことに勇気を得たという」とのことで、そうだとすると、ではなぜイスラム教は16世紀の日本に入ってこれなかったのか、逆にその理由に興味を覚える。

 さらに余談なので跳ばしてもらって結構なのだが、DVDで「アッシャ 洞窟の女王」(01)を観ていたら面白いシーンがあった。この映画はライダー・ハガードの原作であり、原作がアフリカを舞台としているに対し、映画ではサマルカンド(ウズベキスタン)の東方山中、アレキサンダー大王が建設した城塞都市に舞台を変えられている。
 それはいいのだが、さて主人公一行がサマルカンドから東方への道案内を捜している時、案内を買って出た現地人が「その道の途中に暗殺団の巣窟があるので誰も行きたがらない」と説明するシーンがあって、実は当のその男自体が暗殺団の仲間だったのだが、 この暗殺団はニザリ派が投影されているのではないだろうか。丁度本書『黎明に叛くもの』を読んでいるところだったので、その暗合に驚かされた。しかも映画の暗殺教団の連中は蠍の刺青を施していて、これも蝮の道三に比べてより波山の色濃い松永弾正が蠍と言われ、現実にも蠍を飼って暗殺の道具としても利用したとする小説の記述と符合しているのだ。

 もっとも現実の暗殺教国はイラン高原に存在したから位置は稍東へ寄り過ぎなのだが、この映画の舞台となる時代はおそらく19世紀末で、上記のとおりアラムートは元代には既に滅ぼされている。 ここの記述に従うならば、アラムート壊滅後もニザリ派のコミュニティは広い地域に散在して存続し、現在にいたっているとのことで、とくにタジキスタンやアフガニスタンでは現在も有力らしい(繰り返すが現実のニザリ派は西欧人のイメージのハシシン=アサシンとは違う)。だとすればサマルカンドやその東方山中にニザリ派の拠点があったとしても全然不思議ではないのである。

 思うに映画の女王国はキルギスかタジキスタン辺の山中だろう。キルギスとすれば天山山脈だが、天山山脈は古期造山帯なので、火山はあるかどうかというのが難点。映画の女王アッシャは火山の火を制御しているのだ。映画の中でサマルカンドからモンゴルへ至る道沿いに女王国があるといっているのを重視すればキルギスなんだが。
 その点タジキスタンはパミール高原の国であり、パミール高原はまさにチベット高原、ヒマラヤ山脈とつづく新期造山帯の一環であるからして火山も多いだろう。しかも映画の中で「南へ向かえばインド」というような会話があったと思う。モンゴルへもカシュガルへ抜けて天山南路をたどれば行けるではないか。ということで、女王国はタジキスタンの東部にあった可能性が高いのでは、というのが私の想像なのだ。とはいえ映画がそこまで考証していたかは疑問なんだけど、西欧人にとってアサシン=ニザリ派というのはB級映画の設定に利用されるほど知られた存在だったのであろう。

 閑話休題。この600頁にも及ぶ長大な物語は、上記のような設定のもと、道三が(国盗り物語の設定を踏まえて)娘婿の信長に国盗りの野望を託したことに、義弟の松永弾正が反発しつつも次第に信長に押さえ込まれていく物語なのだが、松永弾正の造型が哀しくてよい。天下盗りの執念は深くともその器ではないことに本人が気づいていないのだ。彼はあくまでリーダーではなく独行の専門家なのだ。だから信頼し信頼される部下は育たず、結局何でもかんでも自分でしなければ気がすまない。というか任せられる人材がいない。一国の大名でありながら乱波や暗殺に自ら手を染めなければならない、というか自らすすんでその役に喜びを見出す。日本一の暗殺者であっても、天下人となる資質ではないのだ。こういう性格を付与して描かれた松永弾正の物語はまことに哀しい。

 さて、そのようなリニアな物語であると同時に、弾正の所有する名器「平蜘蛛」の茶釜(平べったいこの釜はときに恰もUFOであるかのように空中に浮かぶ)の玄妙なる力によって「ありえたかもしれない」、いや他の平行世界では現実である「別の歴史」を、作中人物たちに体感させつつすすんでいく物語でも本篇はあるのだ。
 たとえば光秀は、伯父道三のあとを継いで稲葉山城に美濃国主として君臨する自分を体感する。逆に「この世界」で、幼少時より兄妹のごとく親しんだ帰蝶姫(のちの濃姫)と何十年ぶりに再会するシーンでは、帰蝶に「会ったこともない」といわれて、自分の記憶が真実なのか夢なのかと懊悩する(それが本能寺へと向かう契機となる)。まさに「現なく夢なし、実なく幻なし」という波山の法そのままである。そのあたりの現実と幻想をシャッフルする手つきは、平谷美樹に勝るとも劣らないものがある。

 かくのごとく本篇はある意味幻想小説であるとともに多元宇宙テーマの「平行世界SF」とも読め、絢爛たる伝奇小説であるにとどまらない錯綜した重厚さを湛えていて興趣が尽きない。著者の作品は初めて読んだが、聞きしに勝る筆力に驚嘆させられた。まさに美酒というべき面白小説だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする