<承前>
「ひとりっ子」
ものごとを「決断」するとはどういうことだろう。
たとえば、あなたが渡ろうとした横断歩道の信号が赤に変わってしまったとしよう。そのときあなたはどう(対応)するだろうか? 立ち止まって青になるのを待つ。信号を無視して渡ってしまう。そこで横断するのはあきらめて歩き出す……。そのほかにもいろいろ、考えられる限りの様々な対応(行動)の仕方があり得るだろう。合理的で妥当なものから非合理なものまでひっくるめて、無数にあるに違いない。
「決断」とはそのような無数の「可能態」の中から、主体の「自由な意志」によって或るひとつの仕方が選択され執行されることをいう。逆にいえば「決断」によって無数の可能性はひとつの現実に収斂するということだ。これはまさにコペンハーゲン解釈の「観測以前の状態は確率的にしか存在せず、観測された瞬間にひとつの状態へ収束する」であろう。
多世界解釈を採る本篇では、かかる「決断(選択)する自由な意志」に疑義が呈せられる。
何度も繰り返してきたように、多世界解釈では無数の可能性が(妥当合理的な可能性も無意味で非合理な可能性も含めて)すべて(どこかの宇宙で)実現していると考えるのだが、それを決断主体に即して言い換えるならば、主体が決断した瞬間、一個の存在であった主体はありうべき可能性すべてに対して1対1対応した(選択した)無数のバージョンに分岐してしまうということになるはずだ。
ありうべき可能性が全て、自分(主体)の分岐バージョンによって選択され「実現」しているのだとしたら、一体「決断主体」は何を「決断」(選択)したというのか。
我々は通常(決断や選択を自ら行なうところの)「自由な意志」をもって行動していると自明的に思い込んでいる。ところが多世界解釈では、そのような「自由な意志」は、事実上無効となってしまうのだ。しかしながらそれはあまりにも不条理で、主人公には耐えられないのだった……。
この設定がユニークで実にすばらしい。圧倒的なセンス・オブ・ワンダーを発散している。
「自由な意志」というものが実際のところそのような実体を持たない虚語であるならば、これまで「在る」ことが自明だった「人間」、とりわけ近代的自我を持つ「主体」なんて、どこにも存在しないことになってしまう。多世界解釈は(フーコーとは意味が違うが)「人間の無効」、「主体の無効」というニヒリズム(訳者の所謂「多世界解釈の憂鬱」429p)を主人公にもたらすのである。
では、かかるニヒリズムから脱却するにはどうしたらいいのか。分岐の発生を食い止めればいいのだ。
その思いが彼をしてクァスプという量子論的効果を遮断するコンピュータを開発せしめる。
このクァスプ上で走るAIは、その個人的な決断によって分岐は生じない「シングルトン(単一存在)」となる。おりしも生身の人間と外見上全く異ならないアンドロイド(アダイ)が開発されており、このアダイのハードウェアにクァスプを乗せたAIを、主人公夫妻は「ヘレン」と名づけて自らの娘とする。
そうして誕生したヘレンは、多世界解釈から解放された、この世界で唯一自己決定できる、自由な意志を有する存在となるのだった……。
ところで妻のフランシーンは、主人公のオブセッションに巻き込まれてしまった犠牲者の一面があるように思われる。当初「フランシーンは自分が多元宇宙をうけいれていることをとくになんとも思わず、信じると同時に信じずにいることができた」(374p)のだから。
イーガンの作劇の傾向として、本篇のように主役に男女のペアが設定され、片方の「狂気(オブセッション)」にもう片方が引きずられてしまうという展開をとることが多いようだ。本集では、本篇の他「真心」、「二人の距離」が同じ構造だろう。
しかしながらそれは著者の文学的な構想によるものではなさそうで、むしろストーリーを走らせるために無理やりそうした結果、たまたま面白い人物造詣となったような感が強い。つまりメインアイデアの展開のために作中人物がその道具になってしまっている面があり、その意味で「二人の距離」と同様の不満を感じないでもなかったのだが、本篇の場合は設定の魅力とその論理性に圧倒されて、そのようなストーリー展開上の瑕疵は殆ど気にならなかった。
奥泉光の「解説」はさすがに鋭く、いい解説だと思ったんだけど、「ヘレン」を完全に間違って理解しているのが残念だった。ただし本質的なものはちゃんと捉えていて
「この子供は端的に人間ではない」は、そのとおりだし、
「人間でないものを人間として育て、愛情を注ぐ両親の姿には、なにかぎょっとさせられるものがある」も同感。
ただし私がヘレンに対して「人間ではない」と感じる理由は、単にAIであるからではなく、彼女がシングルトンで分岐を発生させない存在だからなのだが、そのあたりイーガン自身がどの程度まで「自覚」して書いているのか興味深いところ。その意味で「オラクル」のラストの一行は示唆的なのだが……
以上見てきたように本集の諸作品はテーマ的に緊密に繋がっている。単発の作品集成ながら、連作長篇の趣きがある。それはいうまでもなく編訳者である山岸真さんの意図したところなのだろう。氏のアンソロジストとしての力量が遺憾なく発揮された傑作集となっている。
(この項、了)
「ひとりっ子」
ものごとを「決断」するとはどういうことだろう。
たとえば、あなたが渡ろうとした横断歩道の信号が赤に変わってしまったとしよう。そのときあなたはどう(対応)するだろうか? 立ち止まって青になるのを待つ。信号を無視して渡ってしまう。そこで横断するのはあきらめて歩き出す……。そのほかにもいろいろ、考えられる限りの様々な対応(行動)の仕方があり得るだろう。合理的で妥当なものから非合理なものまでひっくるめて、無数にあるに違いない。
「決断」とはそのような無数の「可能態」の中から、主体の「自由な意志」によって或るひとつの仕方が選択され執行されることをいう。逆にいえば「決断」によって無数の可能性はひとつの現実に収斂するということだ。これはまさにコペンハーゲン解釈の「観測以前の状態は確率的にしか存在せず、観測された瞬間にひとつの状態へ収束する」であろう。
多世界解釈を採る本篇では、かかる「決断(選択)する自由な意志」に疑義が呈せられる。
何度も繰り返してきたように、多世界解釈では無数の可能性が(妥当合理的な可能性も無意味で非合理な可能性も含めて)すべて(どこかの宇宙で)実現していると考えるのだが、それを決断主体に即して言い換えるならば、主体が決断した瞬間、一個の存在であった主体はありうべき可能性すべてに対して1対1対応した(選択した)無数のバージョンに分岐してしまうということになるはずだ。
ありうべき可能性が全て、自分(主体)の分岐バージョンによって選択され「実現」しているのだとしたら、一体「決断主体」は何を「決断」(選択)したというのか。
我々は通常(決断や選択を自ら行なうところの)「自由な意志」をもって行動していると自明的に思い込んでいる。ところが多世界解釈では、そのような「自由な意志」は、事実上無効となってしまうのだ。しかしながらそれはあまりにも不条理で、主人公には耐えられないのだった……。
この設定がユニークで実にすばらしい。圧倒的なセンス・オブ・ワンダーを発散している。
「自由な意志」というものが実際のところそのような実体を持たない虚語であるならば、これまで「在る」ことが自明だった「人間」、とりわけ近代的自我を持つ「主体」なんて、どこにも存在しないことになってしまう。多世界解釈は(フーコーとは意味が違うが)「人間の無効」、「主体の無効」というニヒリズム(訳者の所謂「多世界解釈の憂鬱」429p)を主人公にもたらすのである。
では、かかるニヒリズムから脱却するにはどうしたらいいのか。分岐の発生を食い止めればいいのだ。
その思いが彼をしてクァスプという量子論的効果を遮断するコンピュータを開発せしめる。
このクァスプ上で走るAIは、その個人的な決断によって分岐は生じない「シングルトン(単一存在)」となる。おりしも生身の人間と外見上全く異ならないアンドロイド(アダイ)が開発されており、このアダイのハードウェアにクァスプを乗せたAIを、主人公夫妻は「ヘレン」と名づけて自らの娘とする。
そうして誕生したヘレンは、多世界解釈から解放された、この世界で唯一自己決定できる、自由な意志を有する存在となるのだった……。
ところで妻のフランシーンは、主人公のオブセッションに巻き込まれてしまった犠牲者の一面があるように思われる。当初「フランシーンは自分が多元宇宙をうけいれていることをとくになんとも思わず、信じると同時に信じずにいることができた」(374p)のだから。
イーガンの作劇の傾向として、本篇のように主役に男女のペアが設定され、片方の「狂気(オブセッション)」にもう片方が引きずられてしまうという展開をとることが多いようだ。本集では、本篇の他「真心」、「二人の距離」が同じ構造だろう。
しかしながらそれは著者の文学的な構想によるものではなさそうで、むしろストーリーを走らせるために無理やりそうした結果、たまたま面白い人物造詣となったような感が強い。つまりメインアイデアの展開のために作中人物がその道具になってしまっている面があり、その意味で「二人の距離」と同様の不満を感じないでもなかったのだが、本篇の場合は設定の魅力とその論理性に圧倒されて、そのようなストーリー展開上の瑕疵は殆ど気にならなかった。
奥泉光の「解説」はさすがに鋭く、いい解説だと思ったんだけど、「ヘレン」を完全に間違って理解しているのが残念だった。ただし本質的なものはちゃんと捉えていて
「この子供は端的に人間ではない」は、そのとおりだし、
「人間でないものを人間として育て、愛情を注ぐ両親の姿には、なにかぎょっとさせられるものがある」も同感。
ただし私がヘレンに対して「人間ではない」と感じる理由は、単にAIであるからではなく、彼女がシングルトンで分岐を発生させない存在だからなのだが、そのあたりイーガン自身がどの程度まで「自覚」して書いているのか興味深いところ。その意味で「オラクル」のラストの一行は示唆的なのだが……
以上見てきたように本集の諸作品はテーマ的に緊密に繋がっている。単発の作品集成ながら、連作長篇の趣きがある。それはいうまでもなく編訳者である山岸真さんの意図したところなのだろう。氏のアンソロジストとしての力量が遺憾なく発揮された傑作集となっている。
(この項、了)