チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

神様お願い

2007年02月18日 12時50分05秒 | midi
神様お願い→midi
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第九の日(6)

2007年02月12日 13時25分55秒 | 読書
「決闘」

 本篇はシリーズの番外編的な位置付けになるのではないか。これまでの作品がケンイチもしくは尾形の一人称「ぼく」で語られていたのに対し、本篇は、前作でのテロ被害で入院療養している尾形と、尾形を介護するために付き添っているレナとケンイチの様子を、病院の女性薬剤師「わたし」の目から、いわば外的に観察するという形式をとっているのだ。とはいえその「目」はカメラのような「冷たい」「客観的な」視線ではない。小説は、「わたし」が観察する尾形たちの物語と、「わたし」と、尾形の手術のために偶然病院にやってきた「わたし」の別れた恋人・小野寺との再会の物語が、チェーホフの朗読を介して同時的に進行する。尾形らを観察する「視線」は、そのようなかつての恋人を見つめる「目」が見る「視線」なのだ。
 
 これまでのシリーズ作品には、ある意味手に余る情報を御しあぐねて悪戦苦闘している著者のシルエットが、作品ごしに浮かび上がってくるようなところがあった。本篇ではまったくそのような印象は受けず、むしろ著者の円熟したかのような筆力に舌を巻いたのだが、それはやはり本篇においては情報量を押さえ気味に、それぞれの「葛藤」に焦点を絞ったのがそのような落ち着いた印象に結実したように思われる。
 小説の完成度という観点からいえば本集中一番の出来であるのは間違いなく、ある意味「純文学」といってよい読後感を味わえた。このような作品も書けるんだなあ、瀬名秀明おそるべし。

 実は前作での尾形の「改心」が納得できないまま本篇に取りかかったのだったが、やはり本作を読み終わってもそれは得心できなかった。
 とはいえ、そんな尾形を見て、尾形の昔を知っているらしい小野寺は「変わったよ、彼は」「彼は何かを捨て、何かを得て、変わった」(368p)という。そうして「わたしも?」と聞く「わたし」に対して、「ぼくも変わったよ」と付け加える。私が見るところレナも明らかに変わっている。
 しかしながら更に「わたし」「あのロボットは?」と問いかけたのに対しては、小野寺は答えない。
 
 「わたし」とケンイチが尾形にチェーホフの朗読を聞かせる日、ニュースがテロを報じる。テロに遭った旅客機にはレナが搭乗している可能性があったが、尾形もケンイチも、全く無関心な様子で朗読に聞き入り、あるいは演ずる。外部の喧騒とは無縁な静かな時間が病室に流れる。しかしケンイチは体内の通信回線でモニターを続けており、レナの無事が確認される。レナと回線がつながり、ケンイチのスピーカーからレナの声が流れる。それはチェーホフの一節だった……。この場面はほんとうに美しく素晴らしい。

 結局本篇では因果的な理的な部分は極力押さえられ、専ら「情的」な、ある意味非論理的な「気分」に焦点が当てられる。私は著者について、理知的な作家の典型のように認識していたのだが、実はこのような作品の方にむしろ著者の本領があるのかもしれない。

 以上で本集全作品を通覧したわけだが、結局ケンイチに自由意志は芽生えているかどうかは藪の中にとどまっているようにしか読めなかった。おそらく著者自身も結論は持っていないのではないか。もとより拙速に結論を出せるものではない。ボッコちゃんと異ならない「人間」も現実に存在する。むしろそのような人間のほうが社会の多数派なのではないだろうか。それでも大過なく生きていけるこの社会自体について思索を照射することも必要になってくるだろう。

 著者はあまりにも大きな主題に取り組み、取り組む以前よりも更に道に迷ってしまったような印象を受ける。その意味で「決闘」は最終地点ではなく、たかだか高速道路のPAやSAに過ぎないはずだ。ケンイチシリーズはこれで終了するのかもしれないが、更なる思索の深化を新たな作品群で示してほしいものだ。

 (了)
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第九の日(5)

2007年02月12日 02時27分52秒 | 読書
「第九の日」

 本篇が下敷きにしているのはC・S・ルイス「ナルニア国物語」。残念ながら私はこの物語を読んでないのだが、ルイスは熱烈なクリスチャンで神学者でもあり、「ナルニア」の物語も聖書が下敷きになっているようだ。

 さて、ケンイチはエジンバラからロンドンまで一人旅をしている。これは誰の助けも借りず自分の判断で行動する訓練の一環だった。ところがこの旅の途中、ケンイチはジョージという子供のヒューマノイドにエヴァーヴィルという町へ連れて行かれる。なぜか町にはロボットしか見当たらなかった……

 ナルニアを下敷きにしているせいか、ネコが(声帯支援装置をつけて)喋り(ロボットではない)、夜な夜なナルニアのアスランに似たライオンが徘徊していたりと、全体に非現実的なファンタジーっぽい雰囲気に包まれた話となっている。
 この町に人間がいないのは、ロボットたちが住人を殺害してしまったせいで、ロボットたちは主人を殺すことで、人間が持っている(とロボットは信じている)「心」の痛みを感じようとしたのだ。痛みを感じられれば、それはロボットにも「心」があることの確かな証明だから。

 このような強迫観念を持つに至ったのは、どうやらこの町の(ロボットを含む)システムを作り上げたのが長篇「デカルトの密室」に出て来る会社だからのようで、どうもその会社はそのようなキリスト教(もしくはルイス的な信仰)に淫した傾向を持っているようだ。未読なので推測するばかりなのだが。

 一方ケンイチは「もしきみが本当に自由意志を持ち、理性と道徳を持つのだとしたら、それは自然科学の言葉で心を扱えることを意味している」(274p)という立場から作られたロボットである。それゆえ「もしきみの心をぼくたちが育めないのなら、心は奇跡だということになる」(同)ということでもあり、エヴァーヴィルのロボットはこの立場を刷り込まれていると看做せる。
 ケンイチには、エヴァーヴィルのロボットたちの信仰心が、胡散臭く思える。それは自由意志ではなくただ単にシステムに動かされているだけではないのかと。

 キリスト教の教義(ルイスの思想)によれば、人間は人の心を持つと同時にキリストの心を持つ、すなわち神の心を持つ存在であるとされる(ジョージはそれをバロック絵画の視点のトリックによって説明する)。それゆえデカルト以降の「自分は自分である」という自己概念は人間を自己中心主義へ堕落させるものであるということになる。

 #本論から離れるが、デカルト以降の近代的人間観は、実はそうではなく、心の中の「神」の部分が「理性」という、神と同様に人間には外在的なプラトン的イデアに取って替わられたに過ぎない(要素が変わっただけで構造は変わっていない)というのが木田元の説である。

 他方、尾形も、上記の近代的自己概念に敵意を燃やすテロリストによって命を狙われている。尾形が進める、「自然科学によってロボットに心を育む」という研究が、神の創造物としての人間の特性、人間のみが「心」を与えられたという特性をおびやかす研究だからだ。彼らは自律型ではない自爆ロボットを使うことでロボットに心はないことを証明しようとする。

 一方でエヴァーヴィルのロボットたちは自分たちにも「心」があることを何とか証明しようと足掻いている。他方ロボットに「心」が「あってはならない」ことを示したい一群の連中がいる。
 かかる対極的な2局面が同時に進行しながら、ラストのカタストロフに向かっていく本篇の構成は、前作とはうって代わって実によく著者のコントロールが行き届いている。

 最後に、そもそもの発端であるケンイチのひとり旅は、ケンイチが、それが可能になるほど「成長」したからではないことは特筆しておくべきだろう。
 同僚のロボット学者が尾形にこういう。「ケンイチは最初の事件に関わったときのケンイチとは違うはずだ。しかしあなたはその変化を、ケンイチの成長として、小説表現の中にさりげなく組み込んで読者の情緒的反応を喚起するに留め、他に触れるべき工学的側面をいっさい省略している。読者を欺いているのです」(306p)と。
 それに対して尾形は「しかし、それが小説というものだ」(同)と、同僚の告発を事実上認めてしまう。
 つまりケンイチは「成長」したのではなく、AIの性能が向上したから「ひとり旅」が可能となったというだけなのである。

 (以下、次回)  
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第九の日(4)

2007年02月11日 12時12分20秒 | 読書
「メンツェルのチェスプレイヤー」(補足)

 レナの態度の変化も面白い。初対面ではケンイチと握手するのもためらっていた、そして上記のような「残酷な」言葉を吐いたレナだったのに、ラスト(98p)では「あなたはもう自由意志で私とつきあっている」と話しかけるに至る。その直前で尾形がケンイチの自由意志について否定的な見解を述べている後だけに、レナのあっけらかんとした態度は興味深い。思うに観測者問題と割り切ってしまったのだろう。内実はどうであれ、任意の他者の「心」性はその外部なる他者に委ねられる。ケンイチとのつきあいの中で(それは製作者尾形とケンイチのつきあいより当然長く濃密なのだ)、レナはケンイチに「心」を見出したのかもしれない。

「モノー博士の島」

 本篇はタイトルから明らかなように、ウェルズ「モロー博士の島」が意識されている。ただし前作におけるポオ作品のように、作品構造上欠くべからざる要素として提出されているわけではない。それはたかだか趣向として利用されているだけに過ぎないようだ。

 「モロー博士の島」では、動物たちに脳手術が施され、知性が与えられるも、最終的に動物の「獣性(本性)」が勝っていく。島から脱出し英国に戻った主人公は、しかしその体験がトラウマとなって、英国人のしぐさひとつひとつに「獣性」を感じ取らないではいられず、しだいに「退化の予感」に押しつぶされていく。

 一方本篇では、身体に障害を負った(欠損した)人間に工学的な欠損を補う処置が施され、結果的に彼らは五体満足な健常者を凌駕する機能を得ている。島の支配者モノー博士は工学的に増強された人間は健常者に優越するという超人思想の持ち主。その博士が、送りつけられた予告文どおり衆人環視のなか殺害される……

 博士の超人思想があまりにも杜撰稚拙なのは、前作の教授と同じ。ストーリーも前作を踏襲している。本篇ではかかる超人思想に「工学的超人」たち自身が辟易しており、それが殺人事件を出来せしめる。

 #もしストーリーの構造が同じであるならば、前作におけるメンツェルのチェスプレイヤーの動機も同じということになる。とすれば86頁でのレナの推理が正しかったということになるのだが……

 それはさておき、本篇においても、前作と同じく「新たに獲得した身体性」は新しい「本性」を獲得させるのかという、哲学的な命題が検討される。ところが、惜しむらくは著者の記述は錯綜しているように思われる。というか、いかにも整理が悪いのだ。
 もとよりこれは一概に貶すことはできない。観念的なものを極力排除すれば、おのずと整理もついて口当たりのよいエンタテインメントに仕上がる。しかし著者がめざすのはそんな小説ではないのだろう――ということは理解できる。

 しかしそればかりではないようだ。一部はどうも著者が主題を消化しきれていないところに起因している感なきにしもあらずなのだ。つまりいろんな観念がナマのまま放り出されている印象で、小説世界が「主体性によって統合された」という感じが希薄なのだ。

 もちろん小説なんだから著者の考えとは相容れない作中人物がいても不思議ではない。そういう要素が小説に厚みを与えるのも事実。しかしこの場合はそういう感じではないのだ。思うに資料をこなし切れず、逆に資料に振り回されているところがあるように感じた。もっと人間の本性論に就いて(ウェルズの思索も含めて)徹底して掘り下げてほしかった気がする。

 (以下、次回)
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第九の日(3)

2007年02月10日 21時34分44秒 | 読書
「メンツェルのチェスプレイヤー」(3)

 (承前)
 前回、メンツェルのチェスプレイヤーが「自由意志は持っていない」ことが「ミステリの構造として」示された。では同じくAⅠであるケンイチはどうなのか。

 本篇は、ケンイチが一人称「ぼく」で語る、ケンイチ自身の見聞の記録という体裁になっている。ケンイチは事件の始まりから終わりまでを(実際の探偵役である)レナの傍らで見、考えている。この「小説」をすなおに読むと、ケンイチには自由意志があって行動しているとしか思われない。ところがメンツェルのチェスプレイヤーには自由意志はなかった。なのにケンイチにはあるといえるのだろうか。そんな恣意的な物語で、本篇はあるのだろうか。

 もちろん、ここまで精緻にミステリを作り込んできた著者が、そのような中途半端なやっつけ仕事を残す筈がない。本篇はケンイチによる一人称視点で書かれた小説だが、だからといってケンイチが書いた小説ではないのだ。たしかにケンイチの視点から描写されており、一見ケンイチには自我があるように「読める」。だが実はこれはケンイチの一人称「小説」なのであり、作者はケンイチではなく、製作者の尾形であることは、作中で何度も言及されている。

 これは本シリーズ全体にいえることなのだが、尾形は下半身不随なので、常に現場にはいない。しかしケンイチの受容した感覚を携帯通信によって、居ながらにして同様に受容しているという設定なのだ。おそらく場合によってはケンイチの応答を調節したりもするのだろう。ただし本篇では「携帯電話の回線が途切れたとき、ケンイチは完全に自律してふるまうこともできる。今回はその期間があまりにも長すぎた」(96p)と尾形が回想しているように、電波の届かない(障壁を施された)教授の館内で事件が起こる。すなわち本篇では事件の最初から最後まで、ケンイチは自律して行動しているのだが(ただしケンイチの感覚は内部に記録されており、尾形はあとで追体験はできる)、「小説」として我々が読む「物語」は、あくまで尾形が「ケンイチの視点を借りて」書いたものなのだ。したがって小説内でケンイチがいろいろ考えたりしているのだけれど、それがケンイチ自身の思考なのかどうかは、必ずしも分明ではない。

 というか、実際はその全てが尾形による解釈なのだろうと思われる。
 つまり記録された行動を、おそらく尾形はそのまま小説に使用しているのだろう。ただよく考えれば当然だが、行動は記録できても「内的な思考」は記録できるはずがないのだから、小説内で描かれた「思考(内的独白)」はすべて尾形による解釈でしかありえないのだ。

 「ケンイチはぼくたちにとって特別なロボットだ。だがどこまでいってもケンイチはロボットでしかありえない。人工知能を搭載し、学習機能を備え、人間の心理反応と類似したアウトプットを示す機械に過ぎない」(98p)と尾形はいみじくもつぶやく。
 またレナも、「あなただって、私の仕草を真似ているときがあるわ」「きっと私の心を探ろうとしているんでしょうね。でも、その行動だけを根拠に「ケンイチ君は人間的な知能を持っている」といわれたらどう?」(46p)と、これは「残酷にも」ケンイチ本人に向かって言っているのだ。

 これらの言葉が全てを語っているといえよう。結局ケンイチもまた(メンツェルのチェスプレイヤーと同じで)自由意志の持ち主ではなかったのだ。上で「残酷にも」と書いたが、ケンイチに「残酷」と感じる「心」はいまだないのだから、レナがそのような「心配り」を働かせる必要は全くなかったわけだ。
 読者は試みに本篇を、地の文は読まず「」で括られた会話文だけ読んで見られたい。ケンイチの(メンツェルのチェスプレイヤーの)応答が、ときに少し変であることに気づかれるはずだ。例えば50頁、教授が殺害され(たとおぼしき状況で)部屋中に血液が飛び散り、肉片が散乱している。この状況を目撃したケンイチの台詞はこうだ。「教授はどこに行ったの?」

 かくのごとく本篇「メンツェルのチェスプレイヤー」は、ロボットの館で起こった、自由意志を獲得したロボットによる人間殺害事件であり、人間と自由意志を持ったロボットのペアがその解明に当るというスタイルながら、そこから(混乱を誘発する)夾雑物を剥ぎ取ってしまえば、実際は教授の過失死でしかなかったのだ。少なくとも私にはそう読めた。
 本篇を読んでいる間じゅう、私は戦前の「探偵小説」を読んでいるような感覚が立ち上がってくるのを抑えられなかったのだが、それは上記のような(ある意味)不毛な結末へ至るために施された虚飾の精緻さ、一種絢爛たる過剰さ(と落差)に、探偵小説に通底する或る何かを感じ取ったからかもしれない。

 以上、「メンツェルのチェスプレイヤー」の感想。あとは簡単に。

 (以下次回)
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第九の日(2)

2007年02月09日 21時12分32秒 | 読書
「メンツェルのチェスプレイヤー」(2)

 (承前)
 さて、前回はメンツェルのチェスプレイヤーが、製作者の児島教授の主張とは違って「自由意志」を有してはいないという(間接)証拠を拾い出した。

 間接というのは、本篇中で何度も繰り返されるように「他者の知能は外部からしか判断できない」(37p)からに他ならない。たとえば45頁ではレナは「ロボットが考えているかどうかを判断するのは、それを観察している人間側だということ」と語っている。つまり観察者の主観、視座の位置によってその判断は変わってしまうものなのだ。

 これは私の経験なのだが、かつて上司にかなり老齢の方がいて、もはや新しいことはあんまり理解できなくなっているのだが、この人が実に上手に顧客に調子を合わせて商談を纏めてしまうのである。
 そのやり方を横でつぶさに見ていると、相手の言っている内容を理解していないのにもかかわらず、つまり弁証法的に商談がすすんでいくのではなく、相手の言葉(そのもの≠内容)や表情(に代表される身体表現)に対して経験則的に一種オートマチックに反応しているだけなのだ(その反応は、弁証法的もしくは因果的なものではなく、ただ単に直前の相手の言葉や表情に「反応」しているだけに過ぎない)。少なくとも私にはそう見える。(*もちろんこれはある意味半世紀かけて磨きに磨かれたテクニックの完成形を見せられているともいえる)

 星新一の「ボッコちゃん」は、単純な(相手の言葉を返すだけの)応答機能しかないロボットだが、それに恋する男まで現れる。つまりこの男にとってボッコちゃんは「自由意志を持つ」生身の人間として認識がなされてしまったわけだ。
 いっぽう上記の老人の行動は、(少なくともその場面では)ある意味ボッコちゃんと同じ機能しか働かせていない。強引に言いかえれば、老人はボッコちゃんと異ならない。ロボット同然といえるのである。

 上記「他者の知能は外部からしか判断できない」とはこのような事態をさしているのであり、これを逆にいえば「観察者の主観、視座の位置によってその判断は変わってしまう」ということになる。
 知能(私。自由意志)とはかくも混沌とした要素をそもそも含んでいる。

 そうだとすれば、メンツェルのチェスプレイヤーに「自由意志」はなかったとする私の理解もまた、視座問題に収斂するといえるかもしれない。そうかもしれないが、私は実は著者自身もメンツェルのチェスプレイヤーに「自由意志」はなかったと理解していると考えている。
 本篇の主題のひとつは、かかる観測者問題に収斂しかねないメンツェルのチェスプレイヤーの自由意志の有無を、ミステリの手法で解明しようとする試みなのだと私は思う。

 もともと本篇は島田荘司責任編集『21世紀本格』に依頼に応じて書き上げられた作品である。つまりミステリを要求され、それに応えて著者が書き上げたのが本篇なのだが、初めてのミステリであろう本篇において、しかしそれにしても著者はとんでもない謎を選択したものだと感心する。

 前回、私が上記結論に到達するに際しては、その根拠を小説外の知識に拠った。もとよりそれはミステリ読解として邪道であるし、著者もそんな読まれ方を望んではいないだろう。ただ私は、著者の結論が全くの空理空論ではなくきちんと「現実」に繋がっていることを示したかったので前回の一文をまず書いたのだ。実際本篇は小説内(システム内)因子のみで結論に達することができる。ミステリゆえ委細は書きませんが。

 本篇はポオの「メルツェルの将棋差し」と「モルグ街の殺人事件」をモチーフに利用している。、
 まず冒頭で教授は、ポオが有名なオートマタ「メルツェルのチェスプレイヤー」のトリックを推理したエッセイを話題にする。ポオの結論は、オートマタははったりで実際はチェス盤の台座に人間が隠れていたとするものだった。そのあとで教授はレナに、メンツェルのチェス盤の台の下をレナに検めさせる。これがラストの伏線になっている。ちなみにメンツェルのチェスプレイヤーの外見はこのオートマタに似せて作られていて、ここにも著者が籠めたメタファーを感じないわけにはいかない。

 ともあれ、教授の遺体が発見された場所は「どこ」であったのか、警官が迫ってきたとき、メンツェルのチェスプレイヤーが「何」を庇おうとしたのか、そこに着目すれば、そして小説の冒頭で「メルツェルの将棋差し」に言及された意図を鑑みれば、著者の結論は明白ではないだろうか。

 結局この小説は「モルグ街」の再話なのだ。すなわち「この物語の謎は、周囲の観察者の知能によって形成されているの」「謎は観測者の知能の側にあった」(75p)
 同じことがメンツェルのチェスプレイヤーにも当て嵌まっている。

 そうなると問題になってくるのが、今ひとりのAⅠヒューマノイド・ケンイチの存在であろう。

(以下次回)
 
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第九の日(1)

2007年02月03日 21時26分13秒 | 読書
瀬名秀明『第九の日』(光文社、06)

 本作品集には、自律型AIヒューマノイドロボット・ケンイチとその製作者・尾形、尾形のガールフレンド(?)のレナが活躍するシリーズの中短篇4篇が収録されている。このシリーズは長篇『デカルトの密室』が既に出版されていて、それは時系列的には本集中の「モノー博士の島」「第九の日」の間に挟まるエピソードのようだ。

「メンツェルのチェスプレイヤー」(1)

 本篇はミステリのストーリーを縦糸として持つが、横糸として織り込まれているのが、「人間」にとっての「自由意志」とは何であるかという、イーガンばりのスペキュレーションで、その思索が実に刺激的で面白い。

 「我々の脳が自由意志を束縛されているのはどんな時だと思うか」という設問に対して、ヒューマノイド型AI「メンツェルのチェスプレイヤー」の製作者・児島教授は三つの答案を示すのだが、本篇で専ら検討されるのは第三に挙げられた「他者の視点を感じているとき」についてである。

 「誰かに見られていると自覚する時、すなわち他者の視点を心の中で構築するとき、我々は自分の行動の意味を外側から想像することになる。他者の目を気にする、という状態だ。気にし始めた瞬間、我々は自由な行動を失うのだ」 と教授は言い、つづけて「何かに没頭しているとき」こそ自由意志を獲得した状態だ断言するのだが、これに対してレナは「(その考えは)一般的な感覚から大いに外れて」いると反論する。

 管見によればレナの反論は正しい。事実はまったく逆なのであって、むしろ「他者の視点を心の中で構築」し得て、初めて人は「自我(私)」を獲得したといえる。そのことはG・H・ミードがつとに論じている。(→例えばここを参照
 本シリーズの小説世界では、ロボットは非デカルト=メルロポンティ的心身相関論を採用することによってブレイクスルーを達成したようになっているけれども、まさにミードは当のメルロ=ポンティの源泉のひとつなのだ。

 「自由意志」とは結局「私」の意志に他ならない。だとすればまずもって「私」(自覚)という状態なしには(先在しなければ)そもそも自由意志そのものがありえないのである。
 しかるに教授の主張する「没頭」とは言い換えれば「没我」ということだ。たしかに「我」無き行動はある意味「自由」な行動かもしれない。それは併し「動物」の「自由」な行動なのであって、(自我を持った)「人間」の「自由」な行動とはとてもいえない。
 (想像してみるといい。あなたが何かに(完璧に)「没頭」している状態を。そのときあなたは「私」(自我)を感じているだろうか? おそらく没頭している対象とあなた自身は主客的パースペクティブを離れた、いわば主客未分化な境地にあるのでは。)

 いうまでもなく動物の中でヒトだけが(上記ミード的な意味で)「私」を獲得し得たのであり、そうであるならば「没頭」を、イコール「人間的な知能の賜物」(57p)とするメンツェルのチェスプレイヤー(=教授)の説明は、したがって論理矛盾というほかない。それはたかだか「動物的」であるだけの話なのだ。

 同様に、教授が「束縛された社会の中で、彼らは真に人間的な知能を獲得することができるのだろうか」(41p)、つまり「できない」と言っているのも明らかな論理矛盾であり、これに対して「人間的と仰る意味がわかりません」とのレナの反論は全く正しい。人間はむしろ束縛された社会の中でこそ知能を発達させるのだ。楽園ではヒトは一生人間となることはできないだろう。

 かくのごとく教授は、いわば「動物的自由(意志)」を「人間的自由(意志)」と取り違えている訳で、教授が制作したメンツェルのチェスプレイヤーには、当然このような誤った観念が初期設定されている。
 繰り返すが、「没頭」をもって「人間的な知能の賜物」としての「自由意志」の有無の判定はできない。
 しかるにメンツェルのチェスプレイヤーは、自分が「自由意志」の持ち主であることの証明のために殺人(主殺し)を犯すのだが、実はこの事実こそメンツェルのチェスプレイヤーが実際には自由意志といえるものを、いまだ発達させていない証左なのである。事実彼は「自由意志」を持っていない。
 メンツェルのチェスプレイヤーは言う。「私は違う。自覚があるのだ。すぐれて人間的な知覚を有しているという自覚が」(63p)
 だがレナは、いともあっさりとこう応える。「それは信用できないわ」

 ここにいたって、ようやく横糸は縦糸に繋がる。

(以下次回)
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