チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

中間子(地獄編)

2006年11月19日 11時44分44秒 | 読書
 ひきつづき「中間子」地獄編(京大SF研、06)に着手。ぼちぼち読んで行こうと思う。
 レイ・ヴクサヴィッチという作家は全然知らない。この冊子で初めて名前を知った。作者の立ち位置もなにも分からない。なので出たとこ勝負で読んでいく。
 ――ということで、ミクシイにつらつら書き綴った感想を纏めた。作品によっては訳文に対する不満をかなり感じたのだが、読み返してプロの翻訳家に求めるようなレベルを要求しているような気もしてきたので、本稿では割愛する。

「天王星に着くまでに」は奇妙なシチュエーションながら、結局はありきたりのセンチメンタリズム。著者をケリー・リンクが気に入っているそうだが、それにしては新しい感覚ではないな。宇宙服に対するオブセッションなものは感じるが。

「ノーコメット」、彗星衝突の危機に、コペンハーゲン解釈を持ち出して「観測しなければ実現せず」ということで、皆で彗星を無視することで危機回避を図る、というトンデモな話。このアイデアは秀逸。ラファティに書かせたらもっと面白くなるに違いない。ところで「今まで見ていなかった僕たちが見たから、彗星は元の位置に戻ったんだ」というのが理解不能。理屈が通らないように思うんだけど。また「週末の休暇」云々も分からないなあ。終末が来たら週末もないというシャレですか?(で、「猫」はシュレディンガーの猫なのか……)(^^;

「危なげな関係」は、リンクにも似た不思議小説で、男は愛する女に文字どおり「骨抜き」にされる。これはいいね。この頽廃感、壊れ具合は只事ではない。本集中ベスト3のうちの1篇。

「ピンクの煙」は、誇張はあるにせよストレートな普通小説。これが結構いける(ただし松竹新喜劇並みにあざといといえばあざとい)。それにしてもここまでの作品は、すべて男女間の関係性に主たる関心があるようだね。

「シリーズ最終回」は、翻訳ではなくそれ以前の日本語、もしくは小説(翻訳)作法的に難あり(英文の解釈はそんなに間違ってないとは思う。なぜなら理解できるから)。翻訳に対する不満とは違うもっと根本的な難点なので、その旨のみ記しておく。
 内容はまあまあ面白い。とはいってもせいぜい雑誌のコーヒーブレイク的な位置づけで掲載されるような不条理ショートショート。

「息止め大会」も上の作品と同様の軽いショートショート。

「肉体というパンツをはいて」――訳が硬くて(特に会話の部分)、イメージの拡がりを妨げる憾みがあるのだが、このような作品(下記の「自転車狩り」もだけど)が作者の本領なんだろう。
 高速道路の高架が交差する下は秘密の花園のようになっている。そこへピクニックにやってきた男女、フルートとチェロで合奏を始める。演奏が佳境に入り、女の鼻が落ちる。男の顔がずり落ちる。演奏は白熱し肉体はどんどん剥落していく。まるで屠殺場のように血と肉は散乱し、男はフルートと一体化する。女はチェロと。それにつれ世界も変容しているようだ。牧草地はいつの間にか遺棄された機械や金属製品の山になっている。あるいは何百年も経過したのかも(機械人間なら寿命は生身の人間の非ではない)。彼らはそれを受け入れ、また演奏を開始する。バケツをひっくり返しハンマーと化した腕でそれを叩きながら……
 いいねえ。本集中ベスト3のうちの1篇。

「自転車狩り」も、機械と人体の融合の話。はるか未来(?)、荒廃した世界、主人公たちのグループは自転車人間(ケンタウロスのように下半身が自転車)を狩り立てて上半身を食用に供することで生きている。今またひとりの自転車人間を屠り、自転車と上半身をカッターで分離する。と、グループの女が突如主のいなくなった自転車に飛び乗り、自転車人間の群れへと逃げていく。主人公は追いかけ、なぜだと問う。女の答えは……
 人体と機械の融合というオブセッションが頽廃的なムードを時にひらめかせる。

 「ジャイアント・ステップ」は、宇宙服住まいのホームレスというアイデアが面白い。一種のというか理想的な箱男だな。しかし話はひきこもりの考察やホームレスの哲学なんて方向には当然向かわず、ゼノンのパラドックスを語り始め、やがて火星に瞬間移動する!(冒頭に伏線があるので唐突ではない)
 書き方によってはもっと面白くなる話だと思う。そういえばこの作家、この世界のようなディストピアを描いても社会的な視点が皆無だね。関心が男女の感情のような、ほとんど主人公の周囲10メートル以内のことに限定されている。そのわりにはテーマを穿つ深度もなく他者のいない自己の甘美な夢に溺れているばかり。それが悪いとはいわないが、本質的にSF作家ではないんだろうな。

「発情」も設定は面白い。家のテラスから双眼鏡でのぞくと、百万マイル(?)以上離れたデジョラ星の女性がテラスに坐っているのが見える。殆ど通りの向うの家のテラスのように。一目ぼれした主人公は家を出、通りを渡るようにしてデジョラ星へと到着する。この辺の非リアリスティックな描写はとても魅力的(どうでもいいけど100万マイルって、地球から月までの距離の4~5倍程度なんだよね。たとえファンタジーでもこの辺の基礎はおさえて欲しいものではある)。19世紀以前の空想的物語の雰囲気があって、本集中ベスト3のうちの1篇。

「うんち」は不条理コント。

「月で会いましょう」はSF的な小道具は利用されるがSFではなく、男女の関係を描く普通小説。どちらかというと、典型的な軽いアメリカ文学の印象なんだが、これはこれでよくできている。

 全体に男女間の関係に関心が固着していたり古臭いセンチメンタリズムが濃厚で、不出来なリンクという印象だった。
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中間子(天堂編)

2006年11月15日 22時07分07秒 | 読書
 京フェスで購入した「中間子」天堂編(京大SF研、06)はラファティ特集号。初期の短篇を主に4篇が訳出されている(すべて坂名有司訳)。

「忌まわしい朝」は、民話の「三つの願い事」モチーフの変形譚。
 主人公は、毎朝を習慣に埋没した同じようなそれではなく、毎回違うものにしたいと考える。今朝は今朝とていつもと違う髭のそり方で、いつもと違うジュースを所望し、妻の左鎖骨にキスして出かける。で、車で事故を起こし通行人を轢き殺してしまう。場と空気を認識しない反抗的な態度が警官を硬化させ、主人公はにっちもさっちもいかなくなり、やけくそで出かける前のベッドの中に戻れますように、と念じる。と、ベッドに戻っている。
 そこで、さっき(?)とは違う儀式をして出発するも、エレベーターガールと悶着を起こし過って扼殺してしまい……また念ずればベッドの中。
 三度目の出発。エレベーターガールは喉が痛そうで声がしゃがれている。駐車場の車は(昨晩から乗ってない筈なのに)温かい。これはやばいとタクシーで出勤するのだが、またもやトラブル。しかし三度目で何となく分かっている主人公はちょっと高を括っている。で、もちろん戻れたのは戻れたのだが……

 ストーリーの型は星新一のショートショートにありそうな話で、星新一なら洒落たブラックユーモアになるだろうところが、そこはラファティである。というかラファティでしかありえない。
 ただ浅倉さんの訳(松崎さんも)がそうであるように、やはりナラティブはトールテール風に(誰かが語っているホラ話風に)訳したほうがラファティらしさが出たのではないか。

「夢路より」は、ごくすっきりとしたホラーで、これはラファティらしくないなあ。それでも結末近くまでは、というか主人公が「現象」を何とか理解しようとしている間は、これからの展開に期待がもてたんだけれども、「キミは死んだんだ」と叫んだ段階でホラーに変質してしまった。この結末はラファティらしくないなあ。デーモン・ナイトに改変されたのかも(^^;

「マクゴニガルムシ」は、本特集中とりわけラファティらしさが横溢したユーモア小説というか笑い話! 背景の設定は「脳波」とか「毒ガス帯」と同じだが、ラファティにかかると全然シリアスにならないのであった。地球最後の男と女(かもしれなかった)ミュシャ・イブン・スクミュエルとセシリア・クラットの顛末は涙なくしては読めません(^^ゞ

「片目のマネシツグミ」、極小宇宙の時間は我々の世界の時間よりも早く流れる。「ぼくらの8千年は、かれら(瞬間的永世国家)の2秒半とまったく等しくなる」はラファティの勘違い。正しくは「ぼくらの2秒半が、かれらの8千年と等しい」のだけどね。
 かくして極小宇宙をライフルにつめて主人公は木の枝のマネシツグミに照準を合わす。撃てば2秒半か3秒でマネシツグミを撃ち落とす。と同時にミクロ世界も潰れてしまう。しかし2秒半が8千年と等しいとしたら……
 神話的主人公が活躍する本篇もまた、ラファティらしさに溢れた快作。

 さて、特集作品は以上だが、それ以外にもう1篇、テッド・チャン「予定調和」が掲載されている(鳴庭真人訳)。これも面白かった。
 負のタイムディレイ機能を備えた「予言機」が図らずも明らかにしたのは、「自由意志は存在しない」、すべては「予め決定している」のだということ。この文章の筆者は警告するのだが、いくら警告したってそれはどうしようもない。ではなぜ警告するのか、といえば……
 ラストの一行が皮肉で笑える。

 ということで概して翻訳は生硬だが、大学SF研機関誌でこれだけのレベルを達成できていれば充分だろう。すばらしい。
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タッツェル蛇の卵

2006年11月12日 22時46分00秒 | 読書
『タッツェル蛇の卵』(らっぱ亭奇譚集号外、06)

 今年の京フェス用に作成されたらっぱ亭さんの個人誌です。京フェス会場でいただきました。
 浅倉久志さんが今年上梓された『グラックの卵』へのオマージュらしく、「グラックの卵」勝手に協賛企画・ユーモアSF特集号と銘打たれています。

「ヒーロー登場」(イドリス・シーブライト)

 鳥人間のアピイは、彼らの種族が地球人に宇宙船の修理ステーション用地を貸与するかわりに、繁殖期を迎えた雄鳥の羽へのカラフルな彩色を求めた古い条約に則って、その権利の行使を基地責任者(といっても基地には人間の職員は彼女きりいない)のシャーリーンに対して要求する(ちなみにもうひとつの取り決めはタッツェル蛇の卵の孵化の阻止に地球が協力すること)。

 ところでこのシャーリーン、ちょっとおかしくなっていて、日がな「ジークフリード第三幕」を聴きふけっているのだが、同僚がいないので異常に気づくものもいない。
 この「ジークフリード第三幕」、検索するとまずバレエ「白鳥の湖」の第三幕がヒットするんだけど、これでは内容的に合わない。これは当然ワグナーの歌劇「ニーベルンゲンの指輪」でなければならない。すなわちジークフリードが炎の壁を超えて岩山で眠っていたブリュンヒルデを目覚めさせる一幕である。

 それが証拠におかしくなっているシャーリーンは、自分をブリュンヒルデと思い込んでいるようで、ヒーローが乗り越えてくるにふさわしいよう基地の壁を船体補修用のプラスティック形成マシンでどんどん高く険しくすることにかまけて、本来の業務はほったらかしたまま「ベッドに寝そべって」待機している(^^;。

 さてアピイはやる気のないシャーリーンを何とか説得し、羽の彩色に取り掛かるも、右の羽だけ彩色した段階で、シャーリーンの怠慢で保守されてなかった彩色機がぶっ壊れる。またプラスティック形成マシンも(もともと本来の使用目的でない大量の使用なのだから当然だが)原料を使い切って止まってしまう。

 怒って抗議するアピイに対して、シャーリーンはレンチとねじ回し(!)を抛ってよこすばかり。で、結局アピイは機械を修理するどころか、あちこち突つきまわしているうちにどこかショートさせ発火させてしまうのだった。燃え上がった機械は何とか動いていた消火装置で消し止めるも、火事はシャーリーンのいかれた頭にある霊感をひらめかす。そう、ジークフリード第三幕どおり、ヒーローが越えて来るのは高い壁じゃなくて炎の壁なのだと。

 やがて基地の外壁は炎につつまれ、そのとき、大地が鳴動し登場したのは……

 いやこれはまさに浅倉さんが喜びそうな話。「洒落た」というよりも「すれた」ユーモア短篇でした(^^)
 シーブライトも短篇集にまとまったのを読みたい作家ですね。

「腸卜」(R・A・ラファティ)

 昔から地球は、征服者によって何度も打ち負かされてきた。けれども永続的に制圧されたことはいまだかつてない。今また、地球はハズ・バズとその5人の従兄弟たち(輪っか乗り)に狙われる……。

 ハズ・バズらのコンピュータ技術は地球以下だったけれども、それを補って余りあるのがその卜占術、とりわけ臓物占いなんだ。うねうねと伸びる腸管には、それを読み取る能力がありさえすれば、現在の状況や未来の出来事などのデータを読み取ることができる。腸卜帽をかぶって臓物を探ればおおよそすべてのことがらが分かっちゃう。鳥の臓物も初心者向けでおすすめだけど、でももっと読みやすいものがあった。……

 ということで、ハズ・バズは極上ものの臓物すなわち陽気で哀れみ深い知的障害者のそれ(上下ひと揃い)を手に入れる。そうして知りえた地球側の脆弱点、すなわちマスコミとマスコミを妄信する大衆をけしかけるのだったが、次に手に入れた「世界で二番目に適格な」人物の臓物をまさぐって、びっくら仰天、慌てて逃げ出す。その理由は……。

 といういかにもラファティらしい不思議なお話。
 「腸卜インベーダー」を思いついた時点で、既にしてラファティの勝ち。それがいかにもラファティっぽい風景の中に取り込まれて何ともいえない可笑しみを醸し出している。

 元来ラファティの作劇術はジャズに似ているのではないだろうか。ジャズのインプロビゼーションが、つまるところテーマをその演奏者独自のフレーズで開いていくものだとするならば、本篇も、腸卜インベーダーの襲来という思いっきりへんてこりんな主題を得たラファティが、それを独特の個性的なフレーズに展開して思いっきり吹きまくっている、そんな図が浮かんでくる。
 ときに難解な印象のあるラファティだが、そのようなジャズ演奏として読めば、案外読みのツボが見つかるのではないだろうか。

 ところで、ハズ・バズ一味を追い払った(?)元司令官が腸卜帽をかぶってカナリアのはらわたをまさぐっているラストも効いている。鳥の臓物は初心者向けなんだから。

 さて今度の「らっぱ亭奇譚集」は号外ということで以上の2篇のみ。いかにもらっぱ亭さんらしいセレクションが嬉しい一冊でした。とはいえ……うーむちょっと読み足りないなあ(^^;
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作者不詳

2006年11月05日 22時21分23秒 | 読書
三津田信三『作者不詳 ミステリ作家の読む本(講談社ノベルズ、02)

 三津田信三と友人の飛鳥信一郎が古本屋で入手した不思議な同人雑誌<迷宮草子>は、収録された7つの小説の謎を解かなければ読者自身の身に危険が及ぶというとんでもないものだった……
 ということで、7つの怪奇ミステリ作品を二人が必死に解くという形式の連作なのだが、解読し終わったあとにとんでもない真相(?)が開示される!

 面白かった。二段組550pをほとんど一気に読まされたんだから、それだけの力が作品にあったってことだろう。けど前作「ホラー作家の棲む家」ほどでは、残念ながらなかったかも。
 一種独特の雰囲気ある文体で、それは好もしいんだけど、文章もう少し気をつかった方がいいのではないかと思った。たとえば1985年発行の同人誌なのに、今風の言い回しが散見されてちょっと萎えた。(*)
 この作家、丁度京極と倉阪の中間にポジションを持っているように思った。今回はかなり倉阪寄りだったかな。
 途中まではよかったのに、ラストでメタに逃げたという印象。

 (*)>今風の言い回しが散見されてちょっと萎えた
  と一旦は思ったんだけど、迷宮草子が1985発行を騙った最近の作品の可能性もあるから(cf:パソコン通信)ひょっとしたら意図的なのかも。
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向日葵の咲かない夏

2006年11月05日 22時06分57秒 | 読書
道尾秀介『向日葵の咲かない夏』(新潮社、05)

 叙述トリックである。この手のは結局読者を騙すことに著者の眼目はあるわけで、(嘘は吐かないにしろ)読者に知られたくないことが叙述されることはない。
 大体叙述トリックって本格の範疇に入るのかね? 読者には探偵と同じ情報が提供されていなければならない(つまり「読者への挑戦」が成立する共通の土台の確保)というのが本格の要件だとしたら、それはみたされてないなあ。もちろんそんなのあくまでもタテマエなんだけれども、叙述トリックの場合はこのタテマエすらもない。
 とはいえすぐれた本格がそうであるように、本書も読後バックして確かめるという楽しみ方は十分みたされる。
 その意味で叙述トリックというのは「アンフェアを構成要件に内包した本格」といえるかもな。

 そのなかでも本書は、叙述トリックという仕掛けが犯人の生そのものとリンクしている、存在から帰納されるものである点、叙述系ミステリとして斬新である。というかリアリティの醸成に成功している。傑作といってよいのでは。

 それにしてもこの、超常現象(と推測できるもの)の導入の仕方には驚かされた。あれで一気にストーリーに没入した。
 そういうわけで、形式面ではすごく面白かったし、感心もしたのだが、そこに盛られた内容はあんまり趣味ではないんだよな。犯人がなぜこのような犯行に及んだか、その原因の心因的な面はきっちり納得できるように書かれていて、それが「切実」な「人間の犯罪」であることは了解できる。その点では倉阪鬼一郎を読むときのようなストレスというか頭が痛くなる感はないんだけど、けっこうきつかった。
 多分かかる内容的な部面で否定的に評価する読者は多いのではないかな。それが形式面でのリアリティという評価を割り引いてしまうかも。昨年末に出た本書は、今年の各種ミステリベスト選びの該当作品なのだが、その辺のプラスマイナスで思ったほど評価は伸びないような気がするなあ。
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ProjectBLUE地球SOS(1)

2006年11月05日 21時50分05秒 | 読書
東野司(小松崎茂原作)『ProjectBLUE地球SOS(1)』(ハヤカワ文庫、06)

 小松崎茂のいわゆる〈絵物語〉をもとに作られたアニメのノベライズらしい。
 大昔「インベーダー」とか「謎の円盤UFO」という連続テレビドラマがあった。アニメは見ていないので分からないのだが、ノベライズ小説自体はあの線で、面白いっちゃあ面白いんだけど、大体14歳のふたりの天才少年が活躍する話とくれば、その面白さもどんな種類だか分かろうというもの。まあジュブナイル小説です。ジュブナイルらしく夢のエンジン<G反応機関>も一体どんな原理なのかはさっぱり分からない。

  ジュブナイル小説だというのはもうひとつ意味があって、つまりキャラクター小説ではないということ。今どきのラノベではないのだね。(これはひょっとしたら東野司があえてラノベ化を避けたのかもしれない。もとのアニメを見ていないから何ともいえないが……)

 それはいいんだけど、このコンセプトではJA文庫で出しても客層が違うだろう、と老婆心ながら心配するのであった。
 今のJAの客層は、旧来の中年読者とラノベ読者に2分化されていると思うんだが、この物語、ある意味キャラが優等生的すぎて、というよりもキャラを楽しむ作りではないので、ラノベファン層の琴線には触れないのではないか。一方、旧来の中年読者がターゲットならば、やはり小松崎の絵を使わないとだめでしょう。でもそれでは出版目的から離れちゃうんだろうな。
 ジュブナイルSFとしてならよくできていると思う。ひと昔、いやふた昔前のソノラマ文庫の雰囲気。小説本位に申せば、結局媒体(レーベル)を間違えられているということになるだろう。

 それは、表紙絵や口絵はともかく全く挿絵がないところを見ても、本来の読者であるところの小中学生(ジュブナイル読者)向けには考えられてないことが分かるだろう。大体JA読者に小中学生がいる確率はとんでもなく低いはずだから、もし狙ったとしたらそれはそれでとんでもない話。やはりこの辺は中年読者を想定しているのかね。

 ジュブナイル読者でもなく、ラノベ読者向けでもなく、ノスタルジーで釣れる中年ファン向けでもないコンセプトの分裂というかコンセプトのなさは何なんだろう? 二兎を追ったのかどうか分からんけれども、中途半端やなあ。
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黒い海岸の女王

2006年11月05日 20時29分10秒 | 読書
ロバート・E・ハワード『黒い海岸の女王 新訂版コナン全集1宇野利泰・中村融訳(創元文庫、06)

  ――剣と戦斧の轟きが死滅し、殺戮の叫喚が途絶え、血に染まった雪原を沈黙が支配した――(17p)
 という印象的な描写で新訂版コナン全集は幕を開ける。宇野利泰のこの美文調の訳文がいかにも開幕にふさわしい雰囲気を盛り上げる。
 いや、久しぶりに再読したけど、面白いねえ。先年火星シリーズを読み返したときにも感じたことだが、E・R・バローズにしろR・E・ハワードにしろ、力まかせに書いているようで実はすごい筆力の持ち主なんだよね。あらためてそれがよく分かった。
 近頃のファンタジー作家が100枚書くところを50枚で書いてしまう。省略するところは徹底的に省略しメリハリが付けられているので、飽きないというかダレ場が殆どない。それとナラティブの距離がずれないという点も特記しておきたい。とりわけナラティブの主体をコナンにせず、その場の別人の視点で描写するテクニックを用いることが多いのだが、これが効果をあげている(たとえば「館のうちの凶漢たち」では殆どムリロ公子の視点で語られ、そのことによってコナンが神話化される)。
 ニュースペースオペラの連中はすべからくハワードを読んで勉強すべしであろう。いや読んだことないけど、まあだいたい想像が付きますわな(^^;

 さてこの『黒い海岸の女王』、単なる創元旧版コナンシリーズの復刊ではない。新訂版の編者である中村融氏の刊行の言葉にあるとおり、これらは後代の手がいっさい加わっていないハワード・オリジナル・コナンなのだ。
 しかも、第一話の「氷神の女神」は従来物語時間的には「館のうちの凶漢たち」と「黒い海岸の女王」の間に比定されていたものだそうだが、本書<資料編>収録のミラーへの手紙を根拠に第1話に持ってきた新解釈も中村氏の主体性がよく出ていて、まさにその意気やよしである。
 解説に過去6種類のコナンシリーズ刊本が記載されているが、この新創元版はそのアイデアの独創性において、上記刊本に勝るとも劣らないどころか、そのコンパクト性も加味して最良の刊行シリーズといえるように思う。近い将来本国アメリカにおいてかかる中村編オリジナルコナンシリーズが刊行されるということも強ち夢ではないのではないか。

 作品的には、「象の塔」、「石棺のなかの神」、「館のうちの凶漢たち」、「消えうせた女たちの谷」が甲乙つけがたい。「黒い海岸の女王」はやや冗長だったかも。「氷神の娘」は殆ど散文詩。
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