チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

七時間目の占い入門

2006年04月22日 15時31分20秒 | 読書
藤野恵美『七時間目の占い入門』(青い鳥文庫、06)

 タイトルは<7時間目シリーズ>なるも、内容は前作を継いでおらず、実質的には単独作品。

 最近アイヌの口承文芸を読んでいるのだが、カムイ・ユカラ(神謡)やウエペケレ(昔話)の機能は、いや、アイヌに限らずいかなる民族の民話や神話の機能も、それを聞かせることで、子供たちの内面に民族の世界観・タブーを刷り込むという実際的な効果を担っている。

 かかる口承物語の機能は、近代社会において殆ど働かなくなって来ているのだが、実はそれを代行しているのが児童文学の役割なのではないだろうか。
 本書は、そういう意味でまさに児童文学の目的を律儀に果たしているように思われる。

 ――転校生の主人公は、前の小学校ではいじめではないにしてもクラスで無視される子供だった。転校で心機一転したいと考え、占いをその手段とする。それは奏効し、主人公は一躍新しいクラスで注目され、友人もできる。が、そういうクラス内の(大袈裟にいえば)勢力構造の変化によって、今度は別のクラスメートが(以前の主人公のように)弾き出されてしまう。主人公は自己を顧みてその子をほっておけなく感じるのだが、それを行動で示すことで逆に自分自身が再びスピンアウトされる惧れに行動できない。

 そのような、(ある意味どこにでもありうる)シチュエーションにおいて、私たちはどのようにあるべきなのか? 本書のテーマはそれで、カムイ・ユカラやウエペケレと同じく、人間という語がいみじくも表現しているように、私たちは個人(孤人)では生きていけず必ず社会という公共空間に生きていかざるを得ない(世界内存在)、そういう世界のとば口に立った子供たちが、学級生活という人生最初の社会生活・共同生活を営むにあたって学ばなければならないこと、培っていかなければならないことを、本書は提示している。

 その中には具体的な占いというものの無根拠性と、であるとしても用い方を心得れば潤滑材として有用である、といった世間知も含まれているわけなのだが、そのような「科学的態度」を失わない健全さが著者の持ち味であろう。
 しかもそれが決して説教めいておらず、今どきのポップ感覚に溢れたスタイルで軽快に描写されるのだから、年少の読者を飽きさせることがない。

 著者はデビューわずか2年弱にして、4つの出版社から本書を含めて7冊の著書を上梓したわけだが、この事実こそ、児童文学そのもといった正統的なテーマ性とライトノベル並みのポップ感の融合というこの著者の新しさが、各社編集者にひとしなみに注目されている証左だろう。

 ――などと書いているうちに、また新作が上梓された模様→『妖怪サーカス団がやってくる!』

 いや、藤野恵美の快進撃はどこまで続くのだろうか!?
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怪盗ファントム&ダークネス EX-GP3

2006年04月16日 23時49分14秒 | 読書
藤野恵美『怪盗ファントム&ダークネス EX-GP3』(カラフル文庫、06)

 シリーズ第3巻。このシリーズは初出掲載誌が<ヒント?>というパズル系の雑誌ということもあって、著者の作品のなかでもパズル的趣向が前面に出たシリーズなのだが、就中本書ではその傾向が強く出ているように感じられた。とりわけ第三話「アフロディーテの彫像」でのそれは論理パズルで、本書の主たる読者は小学高学年~中学生だと思うのだけれども、本書で、論理学的思考の面白さに目覚める読者がかなりいるのではないかな。

 また、毎回世界各地が舞台になっており、その「外国描写」が具体的でリアリティがあって、私のような大人が読んでも現地にいるような気分に浸れるのだから、子供たちは本書に描かれたベトナムやエーゲ海やアルプスの雪山にたいして、地理的な興味とあこがれを喚起されることは間違いない。その意味では各編の冒頭に簡単な地図があればもっと楽しいんだけど。
ともあれ、ジュヴナイル小説が本来担ってしかるべき要件を、本書(に限らず著者の本)はすべてきっちり押さえている。そういうバランス感覚にも好感が持てる。

 作品的には、第四話「氷の魔物のルビー」が一等優れており、これはもはや山岳冒険小説といって過言ではない。しかも本篇の謎はハンニバルのアルプス越えに由来する大仕掛けでもあって、著者のセンスに感嘆するのみ。

 毎度同じことをいうが、著者には早く大人物のミステリを書いていただきたい、と願うばかりであります。
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ジュヴナイルSFにおけるジュール・ヴェルヌ

2006年04月09日 12時11分34秒 | 読書
 SFJapan連載の大橋博之日本ジュヴナイルSF戦後出版史④ 少年SFの系譜」、今回は「ジュヴナイルSFにおけるジュール・ヴェルヌ」(SFJ2006spring)

 今回も先回に引き続いて切り口が面白い。
 ヴェルヌの諸作が、事実上編集者エッツェルとの共同作業の成果であることは知らなかった。ただ19世紀後半のフランスの出版事情はどうだったのだろう? 今ほど著作権的な意識が明確でもなく、保障されていたとも思えない。

 そのなかでヴェルヌとエッツェルの関係は、「そんな変なシステムを作るのはエッツェル以外にはいないし、それを受け入れる作家もヴェルヌ以外にはいないわけです」(92p)という研究者の石橋氏による証言が採用されているが、むしろ逆にエッツェル「以前」には、そういうシステムに似た出版と作家の関係はザラにあったのではないだろうかと、何の根拠もなく想像した。

 たとえば、ヴェルヌの時代は、日本では幕末~明治維新の時代にあたるわけだけれど、これより少し遡る黄表紙・合巻の作者の場合を想像するに、自分の文章が他人によって改変されることに対する忌避感は、さほど強くなかったのではないか。
 
 というか当時の作家の意識は、小説というものが「自分一人の全身全霊の証しである」といったような現代作家の常識とは違っており、作家と絵師と版元の共同制作という意識が強かったのではあるまいか、と(何の根拠もなく)想像したのだが、その辺の時代的な検証を行った論考はないのだろうか?

 ともあれ、そのような歴史的慣性を引きずってのヴェルヌとエッツェルの関係だったのではないかなあ、一読感じた次第。
 
 それはさておき、息子ミシェルが書いたという「サハラ砂漠の秘密」(砂ばくの秘密都市)もエッツェルが殆ど全面的に改稿したとされる「黒いダイヤモンド」も私はたぶん読んでいるはずだが、どちらも他の作品同様に面白かった。とりわけハリー・キラーの名前は印象に強く残っている。

 つまり(小学高学年~中学生の)私の場合、ヴェルヌの小説の実作者がヴェルヌであろうと息子であろうと編集者であろうと、もしくはその共同作業であろうと、全然問題がなかったわけで、それは「実はミッシェル版の方が面白いんです。オリジナル版よりも」(92p)とあるように、ヴェルヌ自身の本質はアイデアの創出の方に秀でていたということでもあろう。いわば「理想的な岡島二人」における「徳山純一」の役割だったのでは。

 結局、「真のヴェルヌ」とは何かといえば、いみじくも石橋氏が語るように「真のヴェルヌとは自分が好きなように、自由に書いたヴェルヌだとは自分には思えないんです」(92p)ということに収斂するのだろう。
 すなわちヴェルヌとは、本人はもとより息子や出版家や絵師が共同で作業する(浮世絵の版元のような)「ヴェルヌ工房」の謂に他ならない、というのは言い方を変えているだけで、そういうことすべては本稿に書かれているとおり。

 私の不満というかないものねだりは、ヴェルヌ工房というものが19世紀後半フランス出版業界において、それほど特異な存在だったかどうかの検証がほしかったということなのだが、その調査を著者に期待するのはお門違いなのかな(^^ゞ

 <追記>
 真のヴェルヌとはヴェルヌ工房と書いてしまったが、軽率だったかもしれない。
 小中生の読者にとって、微妙な言い回しやストーリーテリングは、ある意味理解鑑賞の外なのかもと思い直した。それは自分の過去を振り返っての感想で、私は子供のころ、ストーリーを楽しんでいたとはとても思われない。そんな能力はまだなかった。

 ヴェルヌの小説を不朽の作品たらしめている肝は何かというと、それは「アイデア」なのだ。砲弾による月世界周遊にしろ、気球による地球一周にしろ、それは作品世界のドラマ(ストーリー)を展開させる器なのではなく、それ自体が子供たちにとって一番の大好物だったのだ。

 つまりヴェルヌが創案する新奇な驚きにみちた「アイデア」こそ、「真のジュール・ヴェルヌ」だったのではないか。そのアイデアを誰がどう料理しようと関係ないのだ。「アイデア」こそすべてだったのではないだろうか。

 だから「誤訳、意訳、抄訳も多く出回ることとなる」(93p)日本のヴェルヌ翻訳事情が必ずしも不幸だったともいえないのでは。
 「ジュヴナイルSFでは残念ながらヴェルヌの本当の面白さが伝わったとはいいがたいのだ」(93p)というのは、まさにそのとおりなんだけど、こと年少の読者に関しては致命的な欠陥ではなさそうだ。
 子供たちは(つまり私ですが)複雑な人間関係はすっ飛ばして(友情のような感覚は判るかもしれないが)、ずばり「アイデア」のみを読み取り、ワクワクしていたはずだから。

 ということで、著者とは結論が違ってしまった気もするが、以上はあくまで子供たちにとってのヴェルヌでの話なのであって、テキストは正しく紹介されるほうがいいに決まっているのであります。
コメント (5)
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