チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

SFマガジン2009年12月号

2009年11月01日 12時25分00秒 | SFマガジン
『SFマガジン2009年12月号

 <秋のファンタジイ特集>です。
 まずは冒頭のイアン・R・マクラウド「最後の粉挽き職人の物語」(嶋田洋一訳)を読む。初出2007年<S&SF>誌。何箇所か前後意味の通らない記述があり戸惑う。ラストもよく判らなかったので再読。しかしやはり意味が通らないのは解消されなかった。
 たとえば32ページ「ネイサンは取引のコツを知っており、老人には安く売る必要などないとわかっていながら、興奮し、気が急くのを抑えられなかった」
 このシーンで老人って誰よ。風売り? でも目下やっているのは風売りから安く買うための交渉では? どなたかご教示いただければうれしいです。

 内容自体は、まあ悪くない。『パヴァーヌ』をよりケルト化した感じで、原題The Master Miller's Taleですが、主題に即したわがあらまほしき邦題は「バーリッシュMの風の結び手」(>おい(^^ゞ)
 しかしこの主人公、誠実で勤勉ではあるけれども、時代の流れを理解できなかった単なる職人馬鹿にしか見えない。これは現実の<産業革命>、近世から近代への大激動を(別の歴史線の話なのに)忠実になぞりすぎたからではないか。むしろ歴史の必然的な流れは捨象して、もっと無時間的な世界で、「風の結び手」としての主人公に焦点にすえた物語にしたほうがよかったのではないか。そのほうがラストも生きてくるはず。今のままではラストの幻想的シーンはかなり唐突で、説得力がないように思います。 
 守旧派(ギルド派)の秘密結社<未来の人びと>を実質動かしている「都会から来た色白の細面の人々」の正体が(仄めかしはあるが)謎のままで、作品として完結しているとはいい難い。やはりシリーズの1ピースの感が強い。あ、シリーズを俯瞰すれば、上記の私が欠点と考える部分もちゃんと生きているのかも。その意味でこれだけでは評価しづらい作品です。


シオドラ・ゴス「アボラ山の歌」(市田泉訳)
 2007年オリジナル・アンソロジーに初出。2008年世界幻想文学大賞短篇部門受賞作とのこと。
 初読の印象は、仕事の合い間のパスタイムなんかに丁度よい話、面白かったけど世界幻想文学大賞を取るような話かな、という感じだったのですが、再読して一気に印象が変わる。たしかにこれは世界幻想文学大賞を取るような大いなる物語でした。訳文の解釈も明快でグッド(^^;

 おん歳54歳なのに、27歳のロックスター(ロニー・ウッド?)と浮名を流すような、そんなとんでもない美貌の母親を持つボストンの大学の女子学生(院生)が主人公。彼女は小説(神話的ファンタジー)を書いているのだが、その小説には主人公を取り巻く人間関係が反映されている。
 それは母親から(精神的に)自立し、ボーイフレンドと結婚したいという願望を作中人物に託した物語になっていて、お話では、主人公(に擬すべき女性)が、仕えている皇妃(母親と名前が同じ)に、結婚するので暇を貰いたいと申し出るのだが、皇妃は、あなたと同じくらいに私(皇妃)の夜伽ができる人物を見つけてきなさい。そうすれば許す。という条件を出され、そういう人物を求めて、その世界を創造した<石の女>に会いに行くという試練譚になっています。そうして見出された人物が、実にコールリッジ(クブラ・カンや老水夫行の)を反映した人物が想定されているのです。彼女は当初コールリッジを知らず、コールリッジの熱烈なファンであるボーイフレンドから教えられ、自分もファンになった経緯があり、それで物語に取り入れたようです。
 現実のコールリッジが、ほとんど作品を完成させることができなかったのは(未完ばかりなのは)、夜毎ファンタジー世界に召喚されて皇妃のために詩を書いていたからだとされます。なるほど。

 話は変わって、主人公の父親は、文脈からハイレ・セラシエの側近で、皇帝と共に飛行機で脱出しようとして国境で追撃され命を落としたことになっている。これは事実と異なるが、そういう民間伝説があったのかも(義経北行伝説のような)。革命が1974年であり、主人公が大学で授業助手をしているくらいだから現在、まあ20代半ばか、仮に25としましょう。母親が現在54歳ですから29歳の時の子供となり妥当。革命時15歳とすれば小説の現在は1984年となる。ところで1947年生まれのロンウッドは、この時点37歳のはずで、ずいぶんずれてしまいますが、これは単純に37歳を27歳といい間違ったか、ロニーの27歳は丁度1974年なので、主人公が革命時のロニーの年齢を勘違いしたのです。そうに決まってます(^^ゞ。

 話を戻して――
 ところが、ここに第3の世界が出現する。主人公はパソコンで執筆中に、ふと気づけば、いつのまにかザナドゥのクブラ・カーンの宮殿におり、同じく(「クブラ・カーン」を)執筆中であったとおぼしいコールリッジと出会ってしまうのです。そこで主人公は、コールリッジにダルシマーを弾き聴かせたりするのですが、現実の部屋をノックする音で「こちら」に引き戻されてしまう(コールリッジもまた、ノックを耳にし、「待っていたポーロックよりの客が来た」といって消える)。「こちら」のノックの主はボーイフレンドだった。「あなたたちポーロックからの客人ときたらいつでも邪魔するんだから」という主人公のセリフは他でもなく、コールリッジが「クブラ・カーン」の詩を書いている最中、ポーロックから客人があり、応対して机に戻ってみたら、なんと続きを完全に忘却してしまっており、「クブラ・カーン」もまた未完となったという事実をふまえているわけです。
 主人公はボーイフレンドに、作家になろうかな、とふと洩らす。そしてだしぬけに母親に電話して、ボーイフレンドと一度会ってほしいという。ごく普通に解釈すれば、恋人を紹介してお付き合いを承認させる儀式ですよね。ところがそれ以前に、「きみのお母さんに会ってみたいよ」というボーイフレンドに対して、「ぜったいに会わせないわ」と彼女は思っているのです。母親に会ったものは皆母親に恋をしてしまうから。

 ところが突然こうなるのは、夢の中でコールリッジに出会ったからではないか。とすればだしぬけの母親への電話の意味は180度変わってしまうのではないでしょうか(下記)。この一瞬の心変わりをとらえた描写があざやか(^^;

 「クブラ・カーン」(1798年作)の最後の方にあるこの部分は、コールリッジが実際に夢の中で1984年のアビシニアンの娘と出会っていた動かぬ証拠なのかも。

   ダルシマーを手にした乙女を
   私はかつて夢の中で見たのだ――
   彼女はアビニシアンの乙女で
   ダルシマーをなで弾きながら
   あのアボラの山を讃えていた。
   今一度私の心の中にあの乙女の調べと歌とを
   よみがえらせることができるなら
   私は深い喜びを感得し、いたみいって
   声高の長い長い調べでもって
   空中楼閣を建てるだろう。
 Kubla Khan Samuel Taylor Colerige

 追記。
「一瞬の心変わり」と書きましたが、主人公自身が、この「心変わり」を明確に意識していたとは思えません。意識的な行動とは、必ずしもみなすことはできないように思います。
 本篇を既に読まれた皆さんの中には、かかる行為を「心変わり」とみなす私の想定に対して、それは違うだろう。それでは「もしかすると、マイケルは母に恋してしまうかもしれない。だけどときには、危険をおかさなければいけないときもある」という主人公の言葉が宙に浮いてしまうではないかと思われるでしょう。
 たしかに一見そう見えます。
 しかしなぜ、当初は「ぜったいに会わせないわ」とかたく思っていた主人公が、突如、母親と恋人を引き合わせようなんて、そんな危険な行為に出たんでしょう。まったく筋が通りません。この心理の変化こそ不可解ではないでしょうか。

 私にいわせれば、主人公は――いや主人公の<意識>は、自身の「心変わり」に、実はまだ気づいていない(もしくは認めたくない)のです。ところが<無意識>のレベルでは、既に気持ちはコールリッジに向いてしまっている。コールリッジを知ったことでマイケルへの気持ちは、その瞬間に醒めてしまったのです(笑)。そこで彼女の<無意識>は、マイケルと母親とを会わせることで、結果としてマイケルが母親に恋してしまうことを、未必の故意に(但し可能性は100%に近い)望んだ。それはとりもなおさず(形式的には)自分が振るのではなく、彼女がマイケルに捨てられるというかたちになるわけです。それが彼女には最も「都合のよい」結末なんですね。繰り返しますが主人公(の意識)は、まだそのことに気づいていませんから、意識は「もしかすると、マイケルは母に恋してしまうかもしれない。だけどときには、危険をおかさなければいけないときもある」と合理化して辻褄を合わせてしまっているのです。ふられることで、ふられるようにしむけることで、マイケルとの関係の清算を、主人公は無意識裡に図った。そう考えれば、この一見不可解な彼女の行為が、実はまさに合理的合目的な行為であったことが浮かび上がってくるのではないでしょうか。そしてそれは、この(上記の)言葉が著者によって(ある意味わざとらしく)文脈の中に置かれているそのこと自体によって、私の推理の正しさを証明しているように思われるのですが(^^;

エレン・クレイギス「図書館と七人の司書」(井上知訳)
 初出2006年オリジナル・アンソロジー。一見さわやか風の話ですが、これ、よく考えたら実にいびつでおぞましい話なんですよね。

M・リッカート「王国への旅」(三角和代訳)
 初出2006年<S&SF>誌で、2007年度世界幻想文学大賞短篇部門受賞作。前半(作中作)は見事なケルティック・ファンタジーで興奮しました(^^)。これだけで独立させたらとんでもない傑作です。「特集解説」で「作中作だけでも短篇として成立するクオリティがあります」と書かれていますが、まさに同感。ところが後半はホラー寄りのありがちなアメリカン・モダン・ファンタシーになってしまう。作中作が死んでしまった。がっかり。

菅浩江「鎧と薔薇」
 本篇、目次には<読切>とあるが、実際は不定期連載の長篇なのではないだろうか。これだけでは自立しておらず、そうと判っていれば読まなかったのに。不正確な表示に腹が立ちました。内容は、リアリティのまったくない古代史部分にのけぞる。「外人」と書いて「そとびと」と読ませているがありえない。あえてよむなら「とつびと」だろう。「そと」は室町以降の読み方(岩波古語辞典に拠る)。そとびとの誤用がトリックの伏線だったら謝るけど(汗)。高床式の建物を「二階家」と書いているのも変。一階があってこそ二階家。
 古代史パートと現代パートが(本篇の中では)繋がってない。それはこの作品が長篇の一部を構成するパートだからでしょう。よって本篇のみでの評価は不可。今後の展開で、民俗学的な「化粧」との関連で現代パートと古代パートが繋がっていくのなら楽しみ。

 次の樺山三英作品も、<読切>とあるが不定期連載みたいで大丈夫なのか? とりあえず跳ばして、<リーダーズ・ストーリイ>齋藤想「太陽系の果てで」を読む。酷寒で大気もないトリトンで発見された「白骨」死体の謎。これは面白かったです。

大橋博之「SF挿絵画家の系譜」、今回は、これは懐かしい勝呂忠。うむ、言っていることはかなり同感。最近でこそペーパーバック表紙の認識が少し改まりましたが、今でも白背の人物主体画は好みません(^^;

ということで、最後に残した<読切>の樺山三英「すばらしい新世界」を、おそるおそる読みはじめる。シリーズものみたいですが、内容的には独立した短篇でした(^^)。

 これはよかった! 読み終わってみれば集中の白眉というべきたくらみにみちた快作で十二分に楽しませてもらいました。満足満足(^^)。オルダス・ハクスリーについてはほとんど知らなかったので、読後検索したところ、本篇に記されたことはほぼ事実どおりですね。「すばらしい新世界」執筆後、目の治療でアメリカに渡り、オズモンドやハバドを知り、幻覚剤による意識拡大(減量バルブを緩める)を体験することで独特の神秘思想を形成し、ケネディ暗殺の数時間前に亡くなっています。

 本篇はハクスリーの後半生をマクラに、「先生」の一番弟子である「助手」への訊問(?)の記録の体裁。独特の視力回復の理論・実践家である「先生」の造型には、ハクスリーが治療を受けたベイツ・メソッドとアレクサンダー・テクニークが援用されているようですが、著者が「先生」をして語らしめる「視力回復」(実際は認識回復にずらされる)理論は、現象学を下敷きにしたものといえる(知覚の現象学)。この辺はモロ好みです(^^;
 まず、そのような観念をのせる文体がしっかり安定しているのがよい。クリアーなので遅滞せず頭に入ってきます。このブログの読者はご承知のとおり、このところ連続して最近出てきた新人作家を読んでいますが、文体の完成度では一頭地を抜いていますね。冷静で熱くならないので走らないのですね。そのような文体で開示される<世界>のたたずまい・雰囲気が、一種安部公房や石川淳「鷹」を髣髴とさせるところがあるのもわたし的には好み(とりわけ「A28」から垣間見える世界)。

 知覚の拡張・意識の拡大のトレーニング集団だったのが、次第にセクト化しテロ化して頽落していく描写がすばらしい。彼らが戦っているところの「奴ら」とは、おそらくウィリアム・バロウズに出てくる「敵」と同じでしょう。ラストでその「奴ら」と「我々」が入れ替わり、訊問者と非訊問者が立場を変えてしまう展開も安部公房を思い出させずにはおきません。

 いやそれにしても面白かった。樺山三英、「年刊SF傑作選」のも面白かったし、これは有望な新人があらわれましたね!既存の思想や観念を利用して二次的に構築する手法は、実は山田正紀と形式は同じ。遠からず山田正紀のポジションを奪ってしまうのではないでしょうか。要注目であります。

 以上で『SFマガジン2009年12月号』読了とします。
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