「……、……!」
区切るように甲高い叫びが二音、濛々と籠った湯煙を通して確かに耳許に届いた。
「トー、サン!」
シャワーから迸る湯の音に遮られてごく幽かだった。それにゆったりと寛いで、意識を弛ませてもいたから必ずしも分明ではなかった。けれども耳はそのように聴き取った。
娘の声だと思った。
この春から小学校へ上がる娘の声と、しごく当然のように聴き取った。それとも子供の声であるという予断が、そのように聴き取らせたのだろうか。
ともあれ、声には切迫した調子があった――
と、直後にはそのように感じた。が、すぐあやふやになった。聴きようによっては、戯れていて思わず大声が出たとも聴き取れた。
そう考え直すと、大体あれが子供の声だと疑いもなく思い込んだことさえも、不確かに思えてきた。
今思い返してみれば、キイキイと機械かなにかがきしむ音ではなかったか。
男はシャワーの栓を締めた。
忽ち浴室は森と静まった。
湯気と迸る音に溢れかえっていたのが、音がふっつりと杜絶え、やがて湯気もおさまった。
男は耳を澄ました。
何も聴こえてはこない。そのまま凝っとしている。テレビのマンガの、騒々しい音声が幽かに聴こえてくるだけだ。
「おおい、呼んだか?」
返事はなかった。声が届かなかったのか。
それでも暫くは背筋を伸ばして聴き耳を立てていたが――
「空耳か」
そう呟くと、まず姿勢が弛んだ。シャワーの水栓が弛められ、ふたたび浴室は濛々たる湯気と迸る湯音に満たされた。……
風呂から出ると、いつものところに下着がない。
(女房のやつ……)
舌打ちしてバスタオルを腹に巻く。「おい、パンツが出てねえぞ!」
けれどもキッチンにいるはずの妻から、返事はない。
「伊奈子!」
男は苛立たしげに喚ばわる。足音も荒くダイニングへ入るや、「パンツが出てねえと言ってるじゃ……」
語尾が嚥下される。
「………」
敷居を跨いだ儘、男は茫然と立ち盡す。
キッチンには誰もいなかった。
「おい、伊奈子」
低い声で男は呼ぶ。「恵利歌?」
夕食がつくりかけのまま放置されていた。シチューが沸騰している。男は歩いていきガスを消した。そのとき足が何かを蹴った。
――馬鈴薯であった。
その丸い小ぶりなものを男は拾い、ゆっくりと流し台の上に置く。
男は居間を覗いた。
テレビが、兎を主人公にしたハリウッド製の騒々しいマンガを流している。衝動が男を捉えた。男は走った。走っていき、叩きつけるようにテレビを消した。
だしぬけに無音の空虚が、居間に充満した。
「――伊奈子、恵利歌」
暫くして男は呟く。「どこへ行ったんだ?」
二DKの団地の間取りに隠れるところなどありはしない。またどうして隠れる必要があろうか。娘ならまだしも、女房まで……。
胸騒ぎを男は感じた。下着とパジャマを自分で出して、手早く身に付けると、男は玄関へ向かう。
妻ともうすぐ七つになる娘の履物は、併し上がり口に並んでいる。男は首をかしげる。
今一度居間に戻り、ぐるりと見回す。莫迦々々しいとは思ったが、念の為押入れの中を覗く。
――いない。
草履を突っ掛けドアに手をかける。鍵がかかっていた。そればかりかチェーンまで……。
男の胸に、ふと〈神隠し〉と言う言葉がよぎる。
その言葉に男はたじろぐ。
もどかしげに鍵とチェーンをはずすと、男は飛び出した。二段飛ばしに階段をかけ下りる。七、八台の自転車が我がもの顔に占拠した一階の踊り場を蟹歩きに摺り抜け、アパートの前へと出た。
凩が男の横をすり抜けていく。
男はパジャマの襟を立て、四囲に視線を巡らせた。
人通りはなかった。
男は眉を寄せた。頭を掻く。おかしい。そう感じた。何となく普通ではない。そう思った。尋常でない雰囲気があたりに漲っている。そんな気がした。が、すぐその理由に男は思い至った。
――静かすぎるのだ。
男の周囲から、音という音が消え失せてしまっていた。
そういえばアパートの前の道路に、車の姿が見当たらぬ。
団地の敷地内の道なのだが、ゆったりと車線幅を取った二車線の道路であったから、事実上国道のバイパスとなっていた。車の往来は決して少なくない。
ところが今は、その道路に一台の車さえ通っていないのだ。
それが何かを暗示しているような気がして、胸騒ぎがいっそう強くなるのを男は覚えた。
それより何より、あたりがずいぶんと暗い。
いつの間にこんなに暗くなってしまったのだろう。まっくらで何も見えやしない。
暗いといえば……
男は顔を上げた。向かいの棟がまっくらじゃないか。
いつもなら窓という窓から煌々と明かりが漏れ出ているのだ。その、道路を挟んだ向かいのアパートに、どうしたことか明かりが一つも見当たらない。
しかもアパートの建物のあるべきあたりは、殊にびっしりと、闇が分厚く蟠っている様子だ。闇に埋もれて棟のかたちすら定かではなくなってしまっている。のみならず……
――空虚。
男はそれをありありと感じとることができた。
鉄筋コンクリートのアパートの、建造物としての〈存在感〉が、全く伝わって来ない。
あの棟は、もはやそこに存在していないのではないか……。
誇張ではなくそんな感じさえする。いや、その空虚感の源泉は、道向かいの棟のみにあるのではないことに男は気づいた。
そうなのだ。男の周囲から、すべての〈存在感〉が消え失せていた……
空虚であった。
悉く空虚であった。
その空虚を覆い隠すかのように、闇が森々と降り積もっている。
闇の向こうには、何の〈存在〉も感じ取れない。ただ男のみが存在している。
男以外には何もない。まったき闇ばかりが、世界に厚く降りそそいでいる……
そんな茫漠とした妄想ともつかぬ想念に、しばし男は捉えられていた。そしてふいに鋭い不安が男を突き刺す。
男の背筋がきゅっと固まった。
――背後のおれの棟も、既に消え果ててしまっているのではないか。
「莫迦々々しい!」
男は声に出してそう言った。「そんな頓狂な話が、あってたまるものか!」
威勢よく言ったつもりだった。
併し男の耳に聴こえて来たのは、震えを帯びた、信じられぬほどか細い声だった。
ともすれば萎えそうになる心を奮い立たせると、男は、強張って固まってしまったおのれの首を、そろそろと、併し無理矢理回していき、後ろを振り返る。そうして男は……見たのだ。
――ぬばたまの闇がのしかかるように堕ちてきたとき、男は妻の声を聴いたように思った。
*
「父さん!」
妻はキッチンから呼びかけた。それは何度目かの呼びかけだった。けれどもやはり、応えは返ってこない。浴室から聴こえてくるのは、相変わらずシャワーの湯音だけ。
今日は普段どおりの帰宅だった。さほど疲れている様子でもなかったが、珍しく「飯より先に風呂へ入る」と言って服を脱ぎはじめた。
「まだ沸いてないわよ」
驚きながらそう言うと、
「シャワーでいい」
そう言って浴室へ入って行ったのだ。
妻は時計に目を走らせる。入ってから四十分は有に経っている。さすがに心配になってきた。
「また居眠りしているのかしら」
以前にも夫は湯舟で眠っていたことがあった。そのときは連日の残業で、タクシーでの帰宅が五日つづいたその五日目のことだった。
妻は居間に向かって声をかけた。「恵利ちゃん?」
返事はない。娘はテレビのマンガに没入している。聴こえているのか聴こえていないのか、もちろん聴こえているに決まっている。最近は都合が悪いと聴こえない振りをする。
「恵利ちゃん!」
妻はくるりと体を回してやや強く呼びかけた。
「――なあに」
漸く娘は、妻のほうへ顔を向ける。
「ちょっとお風呂場へ行って、父さんの様子を見てきて頂戴」
うん、と頷き、娘は渋々こたつから立ち上がった。風呂場のほうへ歩いて行く。
妻はふたたび流しのほうに向き直る。父さん、と呼ぶ娘の声が聴こえてくる。
「あら?」
と、妻は小さく呟く。「こんなところに……」
――流し台の上に、馬鈴薯が一箇ぽつんと乗っている。
了。
区切るように甲高い叫びが二音、濛々と籠った湯煙を通して確かに耳許に届いた。
「トー、サン!」
シャワーから迸る湯の音に遮られてごく幽かだった。それにゆったりと寛いで、意識を弛ませてもいたから必ずしも分明ではなかった。けれども耳はそのように聴き取った。
娘の声だと思った。
この春から小学校へ上がる娘の声と、しごく当然のように聴き取った。それとも子供の声であるという予断が、そのように聴き取らせたのだろうか。
ともあれ、声には切迫した調子があった――
と、直後にはそのように感じた。が、すぐあやふやになった。聴きようによっては、戯れていて思わず大声が出たとも聴き取れた。
そう考え直すと、大体あれが子供の声だと疑いもなく思い込んだことさえも、不確かに思えてきた。
今思い返してみれば、キイキイと機械かなにかがきしむ音ではなかったか。
男はシャワーの栓を締めた。
忽ち浴室は森と静まった。
湯気と迸る音に溢れかえっていたのが、音がふっつりと杜絶え、やがて湯気もおさまった。
男は耳を澄ました。
何も聴こえてはこない。そのまま凝っとしている。テレビのマンガの、騒々しい音声が幽かに聴こえてくるだけだ。
「おおい、呼んだか?」
返事はなかった。声が届かなかったのか。
それでも暫くは背筋を伸ばして聴き耳を立てていたが――
「空耳か」
そう呟くと、まず姿勢が弛んだ。シャワーの水栓が弛められ、ふたたび浴室は濛々たる湯気と迸る湯音に満たされた。……
風呂から出ると、いつものところに下着がない。
(女房のやつ……)
舌打ちしてバスタオルを腹に巻く。「おい、パンツが出てねえぞ!」
けれどもキッチンにいるはずの妻から、返事はない。
「伊奈子!」
男は苛立たしげに喚ばわる。足音も荒くダイニングへ入るや、「パンツが出てねえと言ってるじゃ……」
語尾が嚥下される。
「………」
敷居を跨いだ儘、男は茫然と立ち盡す。
キッチンには誰もいなかった。
「おい、伊奈子」
低い声で男は呼ぶ。「恵利歌?」
夕食がつくりかけのまま放置されていた。シチューが沸騰している。男は歩いていきガスを消した。そのとき足が何かを蹴った。
――馬鈴薯であった。
その丸い小ぶりなものを男は拾い、ゆっくりと流し台の上に置く。
男は居間を覗いた。
テレビが、兎を主人公にしたハリウッド製の騒々しいマンガを流している。衝動が男を捉えた。男は走った。走っていき、叩きつけるようにテレビを消した。
だしぬけに無音の空虚が、居間に充満した。
「――伊奈子、恵利歌」
暫くして男は呟く。「どこへ行ったんだ?」
二DKの団地の間取りに隠れるところなどありはしない。またどうして隠れる必要があろうか。娘ならまだしも、女房まで……。
胸騒ぎを男は感じた。下着とパジャマを自分で出して、手早く身に付けると、男は玄関へ向かう。
妻ともうすぐ七つになる娘の履物は、併し上がり口に並んでいる。男は首をかしげる。
今一度居間に戻り、ぐるりと見回す。莫迦々々しいとは思ったが、念の為押入れの中を覗く。
――いない。
草履を突っ掛けドアに手をかける。鍵がかかっていた。そればかりかチェーンまで……。
男の胸に、ふと〈神隠し〉と言う言葉がよぎる。
その言葉に男はたじろぐ。
もどかしげに鍵とチェーンをはずすと、男は飛び出した。二段飛ばしに階段をかけ下りる。七、八台の自転車が我がもの顔に占拠した一階の踊り場を蟹歩きに摺り抜け、アパートの前へと出た。
凩が男の横をすり抜けていく。
男はパジャマの襟を立て、四囲に視線を巡らせた。
人通りはなかった。
男は眉を寄せた。頭を掻く。おかしい。そう感じた。何となく普通ではない。そう思った。尋常でない雰囲気があたりに漲っている。そんな気がした。が、すぐその理由に男は思い至った。
――静かすぎるのだ。
男の周囲から、音という音が消え失せてしまっていた。
そういえばアパートの前の道路に、車の姿が見当たらぬ。
団地の敷地内の道なのだが、ゆったりと車線幅を取った二車線の道路であったから、事実上国道のバイパスとなっていた。車の往来は決して少なくない。
ところが今は、その道路に一台の車さえ通っていないのだ。
それが何かを暗示しているような気がして、胸騒ぎがいっそう強くなるのを男は覚えた。
それより何より、あたりがずいぶんと暗い。
いつの間にこんなに暗くなってしまったのだろう。まっくらで何も見えやしない。
暗いといえば……
男は顔を上げた。向かいの棟がまっくらじゃないか。
いつもなら窓という窓から煌々と明かりが漏れ出ているのだ。その、道路を挟んだ向かいのアパートに、どうしたことか明かりが一つも見当たらない。
しかもアパートの建物のあるべきあたりは、殊にびっしりと、闇が分厚く蟠っている様子だ。闇に埋もれて棟のかたちすら定かではなくなってしまっている。のみならず……
――空虚。
男はそれをありありと感じとることができた。
鉄筋コンクリートのアパートの、建造物としての〈存在感〉が、全く伝わって来ない。
あの棟は、もはやそこに存在していないのではないか……。
誇張ではなくそんな感じさえする。いや、その空虚感の源泉は、道向かいの棟のみにあるのではないことに男は気づいた。
そうなのだ。男の周囲から、すべての〈存在感〉が消え失せていた……
空虚であった。
悉く空虚であった。
その空虚を覆い隠すかのように、闇が森々と降り積もっている。
闇の向こうには、何の〈存在〉も感じ取れない。ただ男のみが存在している。
男以外には何もない。まったき闇ばかりが、世界に厚く降りそそいでいる……
そんな茫漠とした妄想ともつかぬ想念に、しばし男は捉えられていた。そしてふいに鋭い不安が男を突き刺す。
男の背筋がきゅっと固まった。
――背後のおれの棟も、既に消え果ててしまっているのではないか。
「莫迦々々しい!」
男は声に出してそう言った。「そんな頓狂な話が、あってたまるものか!」
威勢よく言ったつもりだった。
併し男の耳に聴こえて来たのは、震えを帯びた、信じられぬほどか細い声だった。
ともすれば萎えそうになる心を奮い立たせると、男は、強張って固まってしまったおのれの首を、そろそろと、併し無理矢理回していき、後ろを振り返る。そうして男は……見たのだ。
――ぬばたまの闇がのしかかるように堕ちてきたとき、男は妻の声を聴いたように思った。
*
「父さん!」
妻はキッチンから呼びかけた。それは何度目かの呼びかけだった。けれどもやはり、応えは返ってこない。浴室から聴こえてくるのは、相変わらずシャワーの湯音だけ。
今日は普段どおりの帰宅だった。さほど疲れている様子でもなかったが、珍しく「飯より先に風呂へ入る」と言って服を脱ぎはじめた。
「まだ沸いてないわよ」
驚きながらそう言うと、
「シャワーでいい」
そう言って浴室へ入って行ったのだ。
妻は時計に目を走らせる。入ってから四十分は有に経っている。さすがに心配になってきた。
「また居眠りしているのかしら」
以前にも夫は湯舟で眠っていたことがあった。そのときは連日の残業で、タクシーでの帰宅が五日つづいたその五日目のことだった。
妻は居間に向かって声をかけた。「恵利ちゃん?」
返事はない。娘はテレビのマンガに没入している。聴こえているのか聴こえていないのか、もちろん聴こえているに決まっている。最近は都合が悪いと聴こえない振りをする。
「恵利ちゃん!」
妻はくるりと体を回してやや強く呼びかけた。
「――なあに」
漸く娘は、妻のほうへ顔を向ける。
「ちょっとお風呂場へ行って、父さんの様子を見てきて頂戴」
うん、と頷き、娘は渋々こたつから立ち上がった。風呂場のほうへ歩いて行く。
妻はふたたび流しのほうに向き直る。父さん、と呼ぶ娘の声が聴こえてくる。
「あら?」
と、妻は小さく呟く。「こんなところに……」
――流し台の上に、馬鈴薯が一箇ぽつんと乗っている。
了。