野田昌宏編『お祖母ちゃんと宇宙海賊 スペース・オペラ名作選Ⅱ』(ハヤカワ文庫、72)
第1集(『太陽系無宿』)が比較的有名なシリーズものの短編を集めたものであったのに対し、本集のコンセプトはいわばスペオペ雑誌であった「プラネット・ストーリーズ」の傑作選。
ジョン&ドロシー・ド・クーシー「夜は千の眼を持つ」(プラネット・ストーリーズ、49)
フレデリック・A・カムマーJr「サルガッソー小惑星」(同誌、41)
ジェイムズ・マッコネル「お祖母ちゃんと宇宙海賊」(同誌、54)
ヘンリー・ハス「宇宙船上の決闘」(同誌、41)
ピーター・ハミルトン「隕石製造団の秘密」(同誌、43)
作家的にも無名作家が並ぶラインナップで、やはり第1集に比べてかなり落ちる。しかしまあ、当時の「ふつうの」スペオペのレベルってこんなもんだったのだろう。純粋に小説を楽しむ類の本ではなく、むしろ資料的に読んで楽しい1冊。
編者自身もその辺は心得ていて、「戦前と戦後じゃがらりと違うのがはっきりしますねェ」とあとがきに書いている。
私も同感で、辛うじて読めるのが、戦後作品である表題作と「夜は千の眼を持つ」の2編のみ。残りの3編は読むのがかなり苦しかった。
全作品とも舞台は太陽系の、だいたい小惑星帯か木星の衛星系で、やはりこのあたりがスペオペ全般の主な舞台といえるだろう。
同じような舞台なのに、同じスペオペなのに、なぜ戦前と戦後ではこれほど「がらりと違う」のだろうか?
「夜は千の眼を持つ」は、訳者あとがきにあるとおりSF浪曲で、表層的な気分のみで繋いだ脊髄反射小説なのだが、背景の小説世界がセピア色染みていて案外いける。
さびしい宇宙空間に衛星チタンのさびれた酒場という書割は、町の安酒場と町の周囲にひろがる赤茶けた荒野というホースオペラの安直な移植に過ぎないはずなのだが、その移植によってオリジナルにない特別な感興が付け加わっているのだ。
スペオペの魅力とは、実にこのような(作家の意図ではない)一種偶然の産物としてあらわれ、しかる後にその効果が(まず読者により)認識され、(作家により)踏襲されたものではないだろうか?
すなわち「夜は千の眼を持つ」の「感興」は、「たまたま」の産物ではなく、「サルガッソー小惑星」、「宇宙船上の決闘」、「隕石製造団の秘密」などの一種試行錯誤の果てに獲得されたスペオペの「様式」なのであり、言い換えれば20年かけて「練り上げられた」結果なのだ。
また表題作は、(既にSF黄金期に入った)54年の作品らしく、さらに練り上げられていて、ユーモア作品なのだが、そのユーモア(とペーソス)はスペオペの後ろに回りこみ、そのコンセプトをひっくり返すところから得られたものといって過言ではない。つまり本編の魅力は、スペオペに対する批評性にこそあるのだ。
もちろん、現代の眼から見れば、まだまだチャチな作物でしかない。とはいえ、本編が旧来のスペオペから一歩踏み出した革新性を持つことは間違いない。
本書はそのような意味で、通読することでスペオペの発生と円熟、そして発展的解消への萌芽を一望できるものとなっている。上記した「資料的に読んで楽しい」とはそういう意味でもある。
第1集(『太陽系無宿』)が比較的有名なシリーズものの短編を集めたものであったのに対し、本集のコンセプトはいわばスペオペ雑誌であった「プラネット・ストーリーズ」の傑作選。
ジョン&ドロシー・ド・クーシー「夜は千の眼を持つ」(プラネット・ストーリーズ、49)
フレデリック・A・カムマーJr「サルガッソー小惑星」(同誌、41)
ジェイムズ・マッコネル「お祖母ちゃんと宇宙海賊」(同誌、54)
ヘンリー・ハス「宇宙船上の決闘」(同誌、41)
ピーター・ハミルトン「隕石製造団の秘密」(同誌、43)
作家的にも無名作家が並ぶラインナップで、やはり第1集に比べてかなり落ちる。しかしまあ、当時の「ふつうの」スペオペのレベルってこんなもんだったのだろう。純粋に小説を楽しむ類の本ではなく、むしろ資料的に読んで楽しい1冊。
編者自身もその辺は心得ていて、「戦前と戦後じゃがらりと違うのがはっきりしますねェ」とあとがきに書いている。
私も同感で、辛うじて読めるのが、戦後作品である表題作と「夜は千の眼を持つ」の2編のみ。残りの3編は読むのがかなり苦しかった。
全作品とも舞台は太陽系の、だいたい小惑星帯か木星の衛星系で、やはりこのあたりがスペオペ全般の主な舞台といえるだろう。
同じような舞台なのに、同じスペオペなのに、なぜ戦前と戦後ではこれほど「がらりと違う」のだろうか?
「夜は千の眼を持つ」は、訳者あとがきにあるとおりSF浪曲で、表層的な気分のみで繋いだ脊髄反射小説なのだが、背景の小説世界がセピア色染みていて案外いける。
さびしい宇宙空間に衛星チタンのさびれた酒場という書割は、町の安酒場と町の周囲にひろがる赤茶けた荒野というホースオペラの安直な移植に過ぎないはずなのだが、その移植によってオリジナルにない特別な感興が付け加わっているのだ。
スペオペの魅力とは、実にこのような(作家の意図ではない)一種偶然の産物としてあらわれ、しかる後にその効果が(まず読者により)認識され、(作家により)踏襲されたものではないだろうか?
すなわち「夜は千の眼を持つ」の「感興」は、「たまたま」の産物ではなく、「サルガッソー小惑星」、「宇宙船上の決闘」、「隕石製造団の秘密」などの一種試行錯誤の果てに獲得されたスペオペの「様式」なのであり、言い換えれば20年かけて「練り上げられた」結果なのだ。
また表題作は、(既にSF黄金期に入った)54年の作品らしく、さらに練り上げられていて、ユーモア作品なのだが、そのユーモア(とペーソス)はスペオペの後ろに回りこみ、そのコンセプトをひっくり返すところから得られたものといって過言ではない。つまり本編の魅力は、スペオペに対する批評性にこそあるのだ。
もちろん、現代の眼から見れば、まだまだチャチな作物でしかない。とはいえ、本編が旧来のスペオペから一歩踏み出した革新性を持つことは間違いない。
本書はそのような意味で、通読することでスペオペの発生と円熟、そして発展的解消への萌芽を一望できるものとなっている。上記した「資料的に読んで楽しい」とはそういう意味でもある。