チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

お祖母ちゃんと宇宙海賊

2006年02月22日 00時39分37秒 | 読書
野田昌宏編『お祖母ちゃんと宇宙海賊 スペース・オペラ名作選Ⅱ(ハヤカワ文庫、72)

 第1集(『太陽系無宿』)が比較的有名なシリーズものの短編を集めたものであったのに対し、本集のコンセプトはいわばスペオペ雑誌であった「プラネット・ストーリーズ」の傑作選。

 ジョン&ドロシー・ド・クーシー「夜は千の眼を持つ」(プラネット・ストーリーズ、49)
 フレデリック・A・カムマーJr「サルガッソー小惑星」(同誌、41)
 ジェイムズ・マッコネル「お祖母ちゃんと宇宙海賊」(同誌、54)
 ヘンリー・ハス「宇宙船上の決闘」(同誌、41)
 ピーター・ハミルトン「隕石製造団の秘密」(同誌、43)


 作家的にも無名作家が並ぶラインナップで、やはり第1集に比べてかなり落ちる。しかしまあ、当時の「ふつうの」スペオペのレベルってこんなもんだったのだろう。純粋に小説を楽しむ類の本ではなく、むしろ資料的に読んで楽しい1冊。
 編者自身もその辺は心得ていて、「戦前と戦後じゃがらりと違うのがはっきりしますねェ」とあとがきに書いている。 

 私も同感で、辛うじて読めるのが、戦後作品である表題作「夜は千の眼を持つ」の2編のみ。残りの3編は読むのがかなり苦しかった。
 全作品とも舞台は太陽系の、だいたい小惑星帯か木星の衛星系で、やはりこのあたりがスペオペ全般の主な舞台といえるだろう。
 同じような舞台なのに、同じスペオペなのに、なぜ戦前と戦後ではこれほど「がらりと違う」のだろうか?

 「夜は千の眼を持つ」は、訳者あとがきにあるとおりSF浪曲で、表層的な気分のみで繋いだ脊髄反射小説なのだが、背景の小説世界がセピア色染みていて案外いける。

 さびしい宇宙空間に衛星チタンのさびれた酒場という書割は、町の安酒場と町の周囲にひろがる赤茶けた荒野というホースオペラの安直な移植に過ぎないはずなのだが、その移植によってオリジナルにない特別な感興が付け加わっているのだ。
 スペオペの魅力とは、実にこのような(作家の意図ではない)一種偶然の産物としてあらわれ、しかる後にその効果が(まず読者により)認識され、(作家により)踏襲されたものではないだろうか?

 すなわち「夜は千の眼を持つ」の「感興」は、「たまたま」の産物ではなく、「サルガッソー小惑星」、「宇宙船上の決闘」、「隕石製造団の秘密」などの一種試行錯誤の果てに獲得されたスペオペの「様式」なのであり、言い換えれば20年かけて「練り上げられた」結果なのだ。

 また表題作は、(既にSF黄金期に入った)54年の作品らしく、さらに練り上げられていて、ユーモア作品なのだが、そのユーモア(とペーソス)はスペオペの後ろに回りこみ、そのコンセプトをひっくり返すところから得られたものといって過言ではない。つまり本編の魅力は、スペオペに対する批評性にこそあるのだ。
 もちろん、現代の眼から見れば、まだまだチャチな作物でしかない。とはいえ、本編が旧来のスペオペから一歩踏み出した革新性を持つことは間違いない。

 本書はそのような意味で、通読することでスペオペの発生と円熟、そして発展的解消への萌芽を一望できるものとなっている。上記した「資料的に読んで楽しい」とはそういう意味でもある。
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ストリンガーの沈黙

2006年02月19日 00時42分19秒 | 読書
林譲治『ストリンガーの沈黙』(ハヤカワJコレクション、05)

 本書のテーマは「宇宙人も地球人も猫好きはみんないい人」(>違います)。
 いや面白かった! 設定がすばらしく魅力的で、後半は一気呵成。

 それにしても、著者はよっぽど日本人が嫌いらしい。悪の帝国地球の権威主義的で官僚的なエライさんはみんな日本人が振り当てられているのだ。というかこの小説世界の地球って、要は日本なんだよね。

 そのことからも判るように、ハードな設定描写と対照的に、人間レベルでの物語はカリカチュアがきつくて、ほとんどマンガ。
 「後半は一気呵成」と書いたのも、実のところ出だし躓いたからでもあって、読み始めはまさに作中人物たちのその「マンガ的な」振る舞いに戸惑っていたのだ。

 しかしこの日本人ならびに日本のカリカチュアに関しては、同じく日本人嫌いのわたし的にツボだったらしく、思わずニヤリとしてしまった(^^;
 そしてニヤリとさせられた瞬間、私は著者の意図を理解できたように思ったのだった。

 つまり本篇は、文字で書かれた長篇ハードSFアニメーション映画なのではないだろうか。
 あるいは大塚英志に倣って、登場人物のイメージをアニメの絵柄で脳内想像する小説をライトノベルとするならば、本篇はまさにライトノベルの形式に拠っているといえる。

 たとえば自由で平等なAADD人の出自が、宇宙に流刑された犯罪者や思想犯の末裔という設定は、あまりに荒唐無稽でリアリティがなさすぎて脱力するんだけれども、アニメ映画なんだと割り切ってしまえば何も問題ない。問題がないというよりも、そんな疑問はもともと意識されず見過ごしてしまうのではないか。

 またたとえば、(下にも書いたが)作中人物で浴衣を愛用する人物がいるのだが、どう考えても低重力~無重力下で浴衣を着用するのは機能的とはいえないだろう。ところがなぜその人物があえて着用するのかという説明がない。これは一般的なSF小説読みの感覚では不足である。宇宙船内でスペーススーツやユニフォームを着用するなら説明は不要だが、浴衣を着るならば、読者を納得させる理由を記述しなければいけない。
 ところが本篇をアニメ映画として「観る」んであれば、おそらく別に違和感も感じないのではないだろうか。けだし著者はそのような「絵」としてこのシーンを採用したのだろう。

 本篇に限らず著者のSF作品を読むときは、従来のSF読みの感覚からすれば「必要なものが省かれ、必ずしも必要でないものが詳述される」といったアンビバレンツを感じることが多いのだが、ストーリーが進行するに従って、全体として本格SFとしての魅力が勝っていき、最終的には結果オーライとなるんだよね。
 ことにも本篇は読了後の回想の中で、最初「田舎芝居」と感じた会話ですら、いとおしく、いつのまにか肯定的に捉えるようになっていた。本篇がSFとして傑作である証左となろう。

 かかるSFとして傑作である成分の中には、社会SFとしての魅力も大きく、この宇宙側(AADD)の社会形態って、どうやら地球の市場経済へのアンチとして描かれているようだ。市場経済は生産と消費が截然と分離し、それを市場というラインが繋ぐことで大量生産-大量消費を回転させる形式であるわけだが、AADDの形態は生産と消費の分離を退けることでライン(市場)の存在理由を否定する形式のようだ。つまりカール・ポランニーみたいな考え方をベースにしているのではないかな?

 この考え方は、現在のグローバリズム・極端な市場経済へのアンチである事は明らかで、当然作中の地球世界(すなわちニッポン(^^;)は市場資本主義の末期的経済社会として設定されており、ことにもAADのプラズマ攻撃に直面して、コストを嫌い最低限度のメンテナンスしか行ってこなかった地球電力事業体の施設は、もろくも崩壊するというように、昨今の耐震構造偽造疑惑を予言先取りしたようなシーンさえ描かれているのだ。

 著者の構想するAADD社会は、現在のグローバリズムという名の単一化市場資本主義体制に代わるべき社会制としてなかなか面白い。著者は現在の我々が住むこの社会に満ち溢れている(つまりこの社会経済体制における根本的な契機である)、あらゆるレベルでの「斉一化圧力」に対して、強い嫌悪感を抱いているのだろう。ただ、
「アトウッド(註、AADD人)によく理解できないのは、ウスール(註、男)の浴衣姿を露骨に嫌う安藤(註、地球人)が、紫帆(註、女)には、何の文句も言わないことだった。いまも紫帆の浴衣の裾の乱れに目を細めている」(74p)
 これが理解できない社会って、とっても窮屈で四角四面な社会だと思うぞ(汗)。

 さてメインの物語は、主観と客観を区別しない非実存型宇宙人との息づまるファーストコンタクトから、さらにはブラックホール人の存在まで匂わせる壮大な宇宙ドラマなのだが(しかも宇宙人とのコンタクトを対地球戦争に優先させたAADDの政策決定には、AAD設置当初から電脳空間に潜んでいた一種のコンピュータウィルスの生存目的が反映されていた、という驚愕のオマケまでついて)、それがアニメ的キャラによる臭い田舎芝居をはさみながら(ときに田中啓文並みの萎えギャグをかましながら)進んでいく。というのは私の主観で、アニメやマンガを見慣れた読者にとってはごくふつうのシナリオなのかもしれない。

 形式的にはアニメ映画あるいはライトノベルという他ないんだけど、内容的にはすぐれて正統的本格的なハードSFの大傑作といって過言ではない。わが国には類例の少ない作風だけに今後の著者の動向は目が離せない。次回作がとても楽しみ。
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