チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

トゥバ紀行

2007年03月15日 20時25分40秒 | 読書
メンヒェン=ヘルフェン『トゥバ紀行』田中克彦訳(岩波文庫、96)

 これはいい本を読みました。原著は1930年刊。
 モンゴルと南シベリアの間に位置し、「この大陸の中心点」という石碑が立つという秘境トゥバ。金を産出するということで、ロシアによってモンゴルから切り取られその領土に組み込まれるも、10月革命~シベリア出兵の混乱のさなかに独立を果たす。1921年から44年まで23年間だけ独立国だったが、「人民の意志」によりソ連邦に加入する。

 その独立から8年後の1929年に、外国人としてただひとり入国を果たした民族学者のフィールドワーク風の旅行記なんですが、その鋭い観察眼は、本書を単なるエスノグラフィーや旅行記にとどまらせません。共産主義とは名ばかりの、ソビエトの実態を見据えずには措かないのです。
 いや面白い。しみじみと哀しく面白かったです。

 独立ときくと、ウィルソン流の民族自決主義の一環かと思うわけですが、実は極東共和国や外モンゴルと同様、コミンテルン=ボルシェビキの差し金であり、しかもそれは「諸民族の平等なソビエト」という理想からかけ離れた、結局はロシアによる植民地化の一過程に他ならないことを、著者は1929年(奇しくもトロツキーがスターリンによって追放された年です)の段階で、すなわちトゥバに滞在し、見聞した1年たらずの間に、はっきり見切ってしまっています。

 すなわち著者は、貨幣経済を知らず、中沢新一謂うところの「対称性原理」に則って「人間」として誇り高く生きてきたトゥバ民族が、ロシア人によって「家畜化」され、その過程でいろんなもの(伝統や生活基盤や、その他諸々)を「喪って」いく現実を目の当たりにする。そしてそのことはまた、共産主義と言い条「共産主義」の理念とは似ても似つかないソビエトの実態に、(訳者解説によれば)自身社会主義者であった著者が気付き、幻滅していく過程でもあったに違いありません。

 その現状と心境を「アカデミックでありながらジャーナリスティックな」生きのいい文体で綴ったのが本書です。わけてもラストに近い「過去」の章では、それまでの風俗風景が目の前に浮かび上がってくるようなエスノロジー的な筆づかいからは打って変わって、トゥバ人を歴史的に概観するのですが、この章に於ける詠嘆的な美文はまるで光瀬龍を髣髴させるものがあります。訳者が田中克彦ですから、その訳文の確かさにも当然与ってのことでしょうが、まずはこの章を立ち読みしてほしいと思います。

 著者は「トゥバよ、お前はこれからいったいどうなるのか。いとしいトゥバ、美しいトゥバ、かわいそうなトゥバよ」という言葉で本書を結びます。而してそれから15年後、著者の心配は的中し、その国はソ連邦に併合されてしまいます。一方ソビエトの実態に失望して故国オーストリアに帰った著者ですが、その後のナチスの台頭に抵抗してアメリカへ去ったのだそうです。本書は、そのような著者であるからこそ書き得た、類稀なる「奇書」(訳者解説)といえると思います。
コメント
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