チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

なつかしく謎めいて

2006年01月10日 23時16分57秒 | 読書
アーシュラ・K・ル=グウィン『なつかしく謎めいて』谷垣暁美訳(河出書房、05)

 これは面白かった。ル=グインにしては一見地味な印象だが、傑作ではないだろうか。しかし――
 この邦題は違うやろ、と私は思うのであった。

 原題の「Changing Planes」は、飛行機の「乗り継ぎ」という意味で、もとより内容に即している。
 すなわち飛行場での乗り継ぎ待ち時間の、あの退屈で不快なストレス(著者いわく、時間つぶしに本でも読もうかと思っても、「空港の本屋に本はない。あるのはベストセラーだけだ(10p)」!)に晒されたシータ・ドゥリープによって、それは発見された!

 何が発見されたのか?
 「Changing Planets」の原理がだ。
 それって何?

 ここでの「Changing Planets」とは、「他の次元(plane of existence)への移動」(訳者あとがき)という意味であり、けっきょく原題は、Changing Planets(乗り継ぎ待ち時間)のストレスをドライヴィングフォースとする次元移動法としてのChanging Planets――という二重の意味を担っているのだった。
 ところが、この原題のニュアンスが邦題には全然生かされてない。それどころか邦題は本書の内容すら反映したものではないのである。

 それについてはあとで触れることにして、ともあれこのシータ・ドゥリープ式次元間移動法、飛行場での乗り継ぎにうんざりしていた人々のあいだに瞬く間に広がり、彼らは乗り継ぎの時間つぶしに、いろんな異次元へと跳んで行き、結果としてたくさんの奇妙な異次元が発見されただけでなく、いつの間にか旅行者と異次元現地との調整を行なう「次元間旅行局」なんてのも存在するようになっていた。

 本書には、そういう背景のもと、シータ・ドゥリープの友人である「私」が、実際に訪れたり、友人に寄稿してもらったり、異次元現地の図書館で調べたことなどが、すなわち様々な異次元世界の見聞録が収められている。

 それはある意味民族学者が記述する「エスノグラフィ」に似ており、小説だからそこまで厳密な形式のものではないが、実際のところ民族学の素養がある著者がやりたかったのは、まさに「異次元諸世界のエスノグラフィ集」だったに違いない。

 そうして記述された諸世界は、あるいはボルヘスのようであったり、レムのようであったり、ときには底意地の悪いディッシュのようであったりと、なんとも魅力的なのだが、少なくとも邦題の「なつかしく」という語が指し示すようなノスタルジーに充ちたものは皆無だ。謎めいているのは確かだとしても。

 少し先走った。それはさておき、エスノグラフィは異文化の観察報告なのだけれども、しかしその最終目的は、我々の自文化(近代・西欧)を再考することにある(魚にとって水のように、人間にとって空気のように、我々は自らの文化にどっぷり浸かっているが故に、その文化自体を客観視できない)。
 本書のエスノグラフィもまた、その効果を狙っており、描かれている異次元人やその文化は、確かに「謎めいて」いるとしても、その実は我々自身の投影であったり、裏返しであったり、結局我々自身なのだ。

 「玉蜀黍の髪の女」のアーイエース次元は遺伝子操作の結果徹底的に痛めつけられた世界だし、「アソヌの沈黙」が炙り出すのは言葉が「隔て」をもたらしたという事かもしれない。
 「その人たちもここにいる」は前作を受けて我々が自明として疑わない「個人」あるいは「私は私である」とはなんだろうかという自問ではないだろうか。
 「ヴェクシの怒り」は極端な話だが、私的所有について再考させてくれるし、「渡りをする人々」は近代産業社会をあえて受け入れない。
 「夜を通る道」では再び「隔てられた個人」とは何かが問われ、「ヘーニャの王族たち」は、たくさんの王族たちの中の少数の平民は王族であるというパラドックスが描写される。
 「四つの悲惨な物語」は傑作で、その滑稽な不条理は、まるでボルヘスのよう。
 「グレート・ジョイ」では「アメリカ」あるいはアメリカ的なものが嘲笑されており、「眠らない島」では「より良く」しようというある種の進歩思考が招来したディストピアが描かれ、「海星のような言語」では、実現したユートピアの悲惨が描かれる。
 「謎の建築物」でもまた所有とは何かが問われているようだし、「翼人間の選択」は、飛び立てるものは(全てを捨てられるものは)幸いなるかなという人生の苦渋が表現される。
 「不死の人の島」は、永遠なるものの悲劇と永遠を日銭とせざるを得ないコンプレックスを活写した傑作。
 ラストの「しっちゃかめっちゃか」も、掉尾を飾るにふさわしい傑作で、フリージャズの演奏のような描写に溺れました。(以上は勿論各作品を構成する一部分に過ぎない。実際の作物はもっと豊かだ)

 かくのごとく本書は、実に様々な異世界を想像/創造し、そこに我々の内界をさまざまにデフォルメして映し出して見せてくれるのであるが、上述のように「ノスタルジー」だけはそこにない。
 なぜならノスタルジーとは、現実には存在しなかった(脳内改変された、都合のいい)過去への未反省的な惑溺に他ならず、一方著者の態度は、ある意味未反省的な惑溺者を正気に戻そうとするものなのであって、両者は全く正反対のベクトルを持つ。原理的に相容れない、水と油なのだから、本書にノスタルジーが入り込む余地などあるわけがないのだ。

 そういうわけで、この邦題は不適切といわざるを得ない。というだけでなく、読者をある先入観へ誘導するような胡散臭さを感じてしまうのは私だけではあるまい。このような売らんがための小細工は、とりわけ本書にはふさわしくないように思う。なぜなら、そんな話ではないからだ。

 さてそれでは、私ならなんとタイトルをつけよう?
 ストレートに内容に即して「次元見聞録」はどうか? で、副題として原題の意を汲んだ「乗継便を待ちながら」をつける……

 『次元見聞録 乗継便を待ちながら

 ……うーむ、センス悪し(汗)
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