チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

長い髪の少女

2006年10月29日 20時16分09秒 | midi
長い髪の少女→midi
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旅人よ

2006年10月26日 23時43分06秒 | midi
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島唄

2006年10月21日 18時38分03秒 | midi
島唄→midi
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薬でうつは治るのか?

2006年10月18日 22時25分18秒 | 読書
片田珠美『薬でうつは治るのか?』(新書y、06)

 『月光とアムネジア』の感想文に風野春樹さんが書き込んでくださった「「精神病理学が滅びに瀕している」というのは日本も含む精神医学界の世界的流れ」とのコメントに、70年代末で精神医学の知識が止まっていた私はとてもショックを受けたのだったが、本書の前半は、ある意味その風野さんの言葉を裏付けるもので、「うつ」に焦点を絞って心療内科や神経科、精神科の現場が、薬理学の発展とDSM-Ⅲというグローバルスタンダードの確立により精神療法から薬物療法中心に傾いていった流れを具体的に解説してくれていて分かりやすかった。

 ただ著者の立場は、薬物療法の効果は認めつつも、ハッピードラッグともいわれるSSRIの開発以降、とりわけ心因性のうつ病ついて病因が蔑ろにされ、対症療法的に神経伝達物質の不足を薬でカバーしてやることが治療であるといった風潮になっていることには疑問を呈するものだ。「うつの治療なのか、それとも大衆へのドーピングの一種なのか?」(136p)

 おおざっぱにいうと、薬物療法は病因を取り去るものではないから薬をやめれば症状が再発する。極端に言えば患者は一生涯薬に頼っていかざるを得ないということになるわけだ。
 「その結果、多くの人々が、病気でもなければ、治ってもいない状態におかれている」(159p)、というのはいい得て妙である。
 
 ある意味糖尿病の治療(もっといえば、「はげやにきびに対する医薬品、美容整形、閉経による影響を抑えるための女性ホルモンの投与」(155p))などと同じ枠で考えられるようになってきているということなのだが、内因性のうつ病はいいとして、「葛藤」が病因である心因性のうつ病はそんな位置づけで取り扱われていいのだろうか、と私も思う。
 
 後半は(病因としての)うつ病と社会の問題が考察される。
 うつ病が近年になって世界的(とりわけ先進国?)に増加しているのは、社会の変化が、スピード化(加速化)すると共に「常に自発的に行動せよ」「能力を発揮せよ」(153p)という圧力が強まる方向に進行していることを挙げる。

 たえず自ら決断していかなければいけない「自己責任」社会は、依存的な人びとに強いストレスを与えがちなのだ。ところがそんな彼らも、旧来の規制の多い社会だったら規制に身を任せることで発病することもなく生活できていたのかもしれない、という指摘はなるほどと思わされる。

 その一方で、自己を主張し自らの道は自らが切り開いていかなければならない社会では、従来「内気」とか「上がり症」という「性格」の持ち主でしかなかった人たちが、「SAD」(社会不安障害)という立派な「病気」の持ち主としての存在と化してしまう。そうして「うつ病治療薬」が彼らに投与される……。
 つまり以前なら健常者の範囲に入っていた人が、今の社会ではうつ病者にカウントされてしまい、それがうつ病の増加の一因となっている面があるという。すなわち「うつ」の範囲がひろがってしまっているわけだ。

 そういうわけで著者は、薬物療法が抗うつ薬への依存を新たに作り出しているに過ぎないのではないかという疑問を呈示するのだが、だからといって薬を完全否定しているのでもない。
 ただ精神科医が表面的な状態像だけに注目して病理を見ようとせず、漫然と抗うつ薬を投与している現状には大いに問題があるし、安易に薬で症状の解消を求めようとする患者の態度も問題であるとする。

 結局のところ、上手に薬を用いるのは当然ながら(現行の保険医療制度の構造的な問題はあるにしても)精神医やカウンセラーによる「精神療法」がやはり必要であるというのが著者の結論で、わたし的に言い換えるならば、精神病理学という学問は滅びていない、滅びさせるわけにはいかないということになろう。著者の主張に強く共感した。
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銀の弦(訂正)

2006年10月16日 21時18分47秒 | 読書
 わ、思いっきり読み違えていました→『銀の弦』

 この部分≫
 唯一小説作法的に惜しいと思ったのは、「果しなき……」がアセンションで読者をケムに巻いたあと(置いてけぼりを食わせたあと)、民話的なおじいさんとおばあさんのエピソードを配置することで無限上昇のベクトルを一転ミクロに下降させて、まさに寝技的に(見た目)きれいに収束させ、それによって再び読者を引き戻したのに対して、本篇ではアセンション・開放系のまま終わらせてしまったこと。
 ある種の読者にとっては、本篇の起承転転転転転転転……というめくるめくもめまぐるしい(結がない)開放系の構成は、(本質とは無関係な)ストーリーの結構という部面で何か物足りないという印象を残してしまう感なきにしもあらずなのではないだろうか。
 ≪引用終

 すみません。ちゃんと着地していました。
 「果しなき……」のじいさんばあさんのエピソードに対応するシーンがちゃんと用意されていました。ラストの「K統合群終末」の項がそうです。
 終章に至って、転転転転転転転……と転がり続けていたのが、「弦世界の消滅は、拡散から収縮に向かうサイン」であることが判明し、最終的に束宇宙はひとつの弦宇宙に収斂すると書かれているではありませんか。イメージとすればビッグバンがビッグクランチに反転し始点の特異点に収斂する感じでしょうか。量子論的にいえば、可能な確率宇宙が観測されることでひとつに決定されてしまうイメージです。

 その最終段階(K統合群終末)こそラストのシーンなんですね。いやこれは「果しなき……」の着地に勝るとも劣らないとても美しい描写です。何故気づかなかったんだろう(汗)
 ということで、下記「銀の弦」の記事から、上に引用した箇所を抹消し、新たに書きなおしましたので、ご笑覧願えれば幸甚です。

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せちやん

2006年10月15日 19時09分46秒 | 読書
川端裕人『せちやん 星を聴く人(講談社、03)

 作中、久しぶりに親友(同志?)と一晩語り明かした(語り続けた)主人公は、「自分がなんでこんなに必死なのか(喋り続けたのか)ふと不思議に思」い、友人やっちゃんに向かって、 「それにしても一体何を伝えたいんやろ」と問いかける。
 「淋しさみたいなもんや。淋しさが人に伝わったら、もう一人きりやないやろ」とやっちゃんは応える。

 実にこのやっちゃんの言葉は、小説に限らずすべての表現芸術の根本的な存在理由といえるだろう。
 下の「空獏」などはまさにその典型であって、小説に仮託して主張していることは何もない。自己の空無感(淋しさ)を小説化し外化すること、それ自体が目的として書かれたものに他ならない。おそらく(北野に限らず)小説家とはただ(とにかく?)そんな話を書きたい人種なのだろう。しかしながらその衝動には「淋しさが人に伝わったら、もう一人きりやないやろ」が契機(Moment)として内在しているはずなのだが、実際のところ(少数の自覚的な作家以外の)大半の小説家(表現者)はそのことに気づいていないに違いない。

 本篇の主人公もまた、この会話の時点ではやっちゃんの言葉の意味が分かっていない。そういう意味で本篇は主人公がその言葉の意味を覚るまでの物語と言い換えてもあながち間違ってはいまい。

 本篇は中学生の仲良し三人組が、裏山の一軒家(摂知庵)で若隠居しているせちやんと出会うところから始まる。せちやんとは摂知庵の主人摂津知雄に三人組がつけたあだ名なのだが、もともと摂知庵にはSETIが籠められているのであって、せちやんはこの庵に小さなパラボラアンテナを立て、宇宙からのメッセージを捕まえようとしているのだった。

 この浮世離れしたせちやんの感化を受けて、3人はそれぞれ自分の資質を見つけていく。やっちゃんは詩人をめざし、もう一人の友人クボキは音楽に目覚める。主人公はせちやんの星々への憧憬そのものと、それに付随する科学工学的な興味を受け継ぐ。(しかしながらこの辺の描写は性急すぎてやや不自然でリアリティを感じられない)

 ともあれそういう次第で、三人にはせちやんは尊敬に値する教師・導師と見えたものだが、そんなせちやんも社会的・世間的にはただの気弱なおたくでしかなかった。その事実に気づいたとき、幸福なコミュニオンは一旦崩壊する。
 余談だがこの部分、案外さらっと書き流されてしまっている。長編小説の一結節点に過ぎないからそれもまた仕方がないのだが、ここだけ取り出して精密に心理を辿ればなかなかよい純文学になると思った。

 その後、この4人は人生を別々の道に進んでいく。しかし皆、結局は不幸になっていく。主人公のみバブルの恩恵を享受しスポットライトを浴びる舞台に踊り出るとはいえ、それもまたひとつの不幸でしかなかった。
 ちなみに主人公のバブル時代の描写は、いかにも嘘っぽく作り物めいているのだけれども、その嘘っぽさが逆に「そんなもんなのかな」というリアリティをかもし出している。これは「夏のロケット」のロックミュージシャン(だっけか)にも感じたことなのだが、偶然なのか周到なのかよく分からないながら、半村良の嘘のつき方に似ているように感じた。

 さて、クボキはとうに病死しており、詩人になったやっちゃんも摂知庵で放火に巻き込まれて死ぬ。せちやんも死に、40過ぎた主人公のみ生き残っている。しかし彼もまたバブル崩壊で無一文どころかマイナスになってしまう。
 その彼を、せちやんが(SETIの継続を条件に)遺産相続者に指名していたことが明らかになる。こうして主人公は摂知庵の新しい庵主となり、当時のせちやんを髣髴とさせる隠遁生活に入るのだったが、そんなある日、彼は、せちやんが死ぬまで待ち続けていた宇宙からメッセージが届いていることに気づくのだった……

 「淋しさが人に伝わったら、もう一人きりやないやろ」というやっちゃんの言葉の宇宙的表現というべきラストは圧巻。
 とはいえ著者の筆致はあくまで実直でケレン味がない。ケレン味こそSFの本領だとするならば、本篇はSFではないかも知れない。むしろSF的アイデアを核に書かれた普通小説というのが正しいかも。それが著者の持ち味なのだろう。

 しかしながらジャンル主義者として強弁するならば、ハードSFが一個ないし数個の「魔法」を(前提条件に)忍ばせることで成立するのだとしたら、ある意味本篇に対して魔法を使用しなかったハードSF(未ハードSF?)という位置づけもできるのではないか。
 ともあれ日本SFもいろんなタイプの作風があった方が面白いに決まっているわけで、その意味で著者もまたSFの辺縁に確かな領地を保持する作家だとするのは正しい認識だと思うのだが。 
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空獏

2006年10月14日 00時25分26秒 | 読書
北野勇作『空獏』(ハヤカワJコレクション、05)

 まーず独特ですな。
 
 いっとき、ネットでは北野勇作を「いやし系」として評価する感想が多かったような気がするのだが、その手の感想は最近とんと見かけなくなった。
 たしかに本来「いやし系」ではなかったのだと思う。そのことは近年の作品「どーなつ」「人面町四丁目」あたりから次第にはっきり見えはじめていたのだが、本書においてそれは決定的なものとなったのではないか。

 本書には癒されるような物語成分は何もない。あるのは「自分が自分であることへの覚束なさ」の感覚の、切実な表現ばかり。主人公たちは今いる自分が本当に自分なのか、それを自明なものとして感じ取れない。何もかも夢のなかのように感じられ、現実感がない。
 これは実に「離人症」の症例にとてもよく似ている。木村敏は離人症を「現実感の喪失」と定義し、「空虚」体験としたが(『自覚の精神病理』)、とすれば本書のタイトル「空獏」はまさに象徴的といえよう。

 「溝のなかのリレー」の主人公は、「自分はもう何度も死んでいるような気が」している。その結果、「この生に何となく緊張感がない」ばかりか、「自分がその世界から切り離され、いなくなってしまう」ように感じている。
 離人症では「自分が分離して、自分自身のことをあたかも外部の傍観者のように感じる」そうだが、「この生に何となく緊張感がない」と呟く主人公の口ぶりには、まさに他人事めいた無感動がある。(以下、赤字このHPからの引用)

 「西方浄土」の主人公は、「これが仮に現実だとしても、それはあくまで仮の現実であって、夢を原料にして作られた現実に過ぎない」と思う。離人症では「外界の知覚が変化し、非現実的に見えてしまう(現実感覚喪失)」そうで、これはまさにその表現ではないか。
 「私は獏を動かしてるが、同時に獏もまた私を動かしているのだ」というのも、「自分の体が死体・ロボットのように感じる、自分の体の実感がない、自分の体が大きく・小さく感じる」という症状によく合致している。

 「夢の会社」で主人公が、主人公その人らしい巨人を(無感動に)隠れ見ている図は、まさしく上記の症例全てを含んだ離人症そのものをあらわしているようだ。

 以上のように、本書はまさに「離人症体験」の小説化に他ならない。本書が発散する曖昧さ・分かりにくさは、離人症者の体験そのものに由来する。

 さて現実の離人症は、おおむね「患者にとって現実の存在が絶えがたいものであるために」発現する「一種の自我防衛機制であり」、端的には「逃避」である。(木村、前掲書

 とすれば本書で戦われる訳の分からない「戦争」や、「敵」の正体も明らかだろう。すなわち戦うべき「敵」とは「現実(社会)」であり、「戦争」とは「離人症からの脱出」「自己が再び厳しい現実との対決の場に立ち戻ること」の謂に他ならない。(同書
 北野SFがおしなべて「戦争」がモチーフとなっているのは、まさにこの理由に拠る。
 しかしながら、この「戦争」は常に長期戦であり、永遠に続くもののように読める。それが北野の基本認識なのだろう。少なくとも「いやし」からはほど遠い境地であるのは間違いない。


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銀の弦

2006年10月10日 23時54分20秒 | 読書
平谷美樹『銀の弦』(中央公論新社、06)

 「文系SF」とは、私の記憶が正しければ大森望が言い出しっぺの、まだ10年にもならない新しい用語・レッテルなのだが、SF界では完全に定着してしまって日常的に使用されている。
 が、而してその実体はというと客観的な定義はまだないようで、使用者の恣意に任されているといえよう。

 そういう「文系SF」であるが、私自身のイメージでは、「SF」と「幻想小説」の境界のこちら側(SF側)、もしくは、かかる二集合が重複部分を持つとするならば、重複部分(幻想SF)ではなく、あくまで重複部分よりSF側にマッピングされる作品群が想起される。

 もとよりレッテルはレッテルにすぎず、「文系SF」という言葉がなかった昔も、この地に居城を定めた作家は当然いたわけで、その典型が山田正紀であった。実際のところ1970年代から30年以上にわたって、山田SFはこの地に燦然と君臨し続けていたわけだが、その山田正紀から王位を簒奪したのが、他ならぬ本書の著者平谷美樹であった、という印象を私は持っている。

 そうして世紀も革まった21世紀の現在、平谷は「文系SF」の押しも押されぬ第一人者であるどころか、「文系SF」というサブジャンルは、いまや平谷美樹の独壇場と化しているといっても過言ではない(そういう実力者であるにもかかわらず、ネットを見渡してあまり読まれていない印象なのが、私にはとても残念な気がするのだが)。

 『ノルンの永い夢』(ハヤカワJコレクション)は、そういう平谷文系SFの、これまでのところの最高作といい得る秀作であったが、本篇「銀の弦」もまた、「ノルン……」に勝るとも劣らない「文系SF」の傑作である。いやひょっとしたら「ノルン……」を超えているかも。 

 「めくるめくイメージの奔流」というのは、「ノルン……」その他で遺憾なく発揮された平谷SFの代名詞ともいえる一大特徴なのだが、本篇においてはそれがさらに増幅されていて、読者のなかには、そのイメージの奔流についていけず悪酔いしてしまったものもいるのではないだろうか。

 私自身あやうく溺れそうになりかけたこと一再ならずで、とりわけ終盤8章、9章、終章の凄まじいまでのカットバックには一読ではとても随いていけず、この部分のみ再読しなければならなかったほど(それでも理解したとはとてもいえない)。
 それでも分からないのは分からないなりに、その強力な磁力に引き付けられ、目を離すこともできず読み耽ってしまった。

 この強烈な磁力の源泉は何であるか? それはずばり読者にクリアな映像を喚起できる著者独特の視覚的な文体の力だろう。この辺著者の画家としての資質が大きく寄与しているように思われる。

 映像的といえば、先日小川一水についてその筆法が「テレビドラマ的」と書いたが、本篇の著者はその意味では「映画的」なのかもしれない。
 そう気づいてみれば、確かに本篇に限らず平谷SFはどれも映画を観ているような趣きがあり、そう感じさせるのは各シーンが一種カメラアングル的にフレームがしっかり意識されているからではないだろうか。これもまた著者の画家としての資質に拠っているのだろう。

 さて本書であるが、内容は平行世界テーマであり、一種ドッペルゲンガーものでもある。実は私自身、昔創作の真似事をしていて、もとより比べるのもおこがましいのだけど、同じテーマで「ドッペルゲンガー交点」という作品を仕上げたことがあったので、その意味でもとても興味深く読んだ。

 内容を私なりに(かなり恣意的に)整理すると、この世界は殆ど無数の(但し有限の)平行世界のひとつ(弦宇宙)であり、原則としてひとつの世界の住人は他の平行世界の存在を感知できない。
 それは麻の葉模様のように隣り合う図形が互いにその一部(辺)を共有している場合、「視点」のマジックにより人間は、その二つの図形を同時に認識することはできない、という「比喩」で説明される。
 本書の扉の図がそれなのだが、むしろ表紙カバーの絵も、幾何学的なパターンの方がよかったのではないか(表紙絵も「めくるめく」感は表現されていますけど)。

 ところがその平行世界(弦宇宙)のひとつが、ある人物(各平行世界に存在する)において崩壊する。その影響が周辺の平行世界に波及して、平行世界同士が部分的に融合する現象が起こる。
 これらの弦宇宙にそれぞれ存在する同一人物(ドッペルゲンガー)p1,p2,p3……pnは、それぞれの世界では確固たる個人だが、実は弦宇宙が集まった束宇宙のレベルでは束宇宙のPのそれぞれ一面(辺)でもある。すなわちP(p1,p2,p3……pn)。
 (pnは比喩人格、Pは統合比喩人格と記述されている。)

 束宇宙の統合比喩人格たちは、上記の異変から、平行宇宙である弦宇宙が、交差することで辺を減らして行きつつあることに気づく。どうやらやがて世界はひとつに戻り、しかしてふたたび枝分かれしていくらしい! あたかも波動が重ね合わさると、打ち消しあってある一点に収束するように。
 このような思索を重ねていく過程で、統合人格たちは、自分たちをも「辺」とするような「超越者」がいるのではないかと思い至る……

 というように、本書の終盤では、小松左京もかくやの無限上昇(アセンション)が描写されて読者をめくるめくイメージの奔流に巻き込み、悪酔いさせる。何度も書くがここが凄いのだ。もっとも「果しなき流れの果に」が垂直方向に上昇していくのだとしたら、本篇では位置は変わらず、ただ(比喩的にいえば)「視点」のみが上昇していくという感じか。

 「果しなき……」の著者はアセンションで読者をケムに巻いたあと(置いてけぼりを食わせたあと)、あの名シーン「じいさんばあさんのエピソード」を配置することで無限上昇のベクトルを一転ミクロに下降させて、まさに寝技的に収束させ、それによって再び読者を引き戻したのだったが、本篇にも同様の対応関係が認められるのが興味深い。

 本篇の起承転転転転転転転……というめくるめくもめまぐるしい構成は、ある種の読者にとってはやはり置いてけぼりを食わされたという感じになりがちな筈だ。そこへ著者は、一転ミクロへ下降させるベクトルを導入する。

 すなわち「転転転転転転転……」と転がり続けていたのが、終章に至って遂に「弦世界の消滅は、拡散から収縮に向かうサイン」であり、最終的に束宇宙はひとつの弦宇宙に収斂することが明らかになるのだ。
 これはビッグバンがビッグクランチに反転し始点の特異点に収斂するイメージか、あるいは量子論的な可能な確率宇宙が観測されることでひとつに「確定」されてしまう感じを思い浮かべればいいのではないか。

 その結末がラストの「K統合群終末」であり、「じいさんばあさんのリユニオン」に対応するシーンなのだ。ただし「再会」とは逆で「別離」になっているところが著者の工夫だろう。
 どういうことかというと、このシーンではすでにカタクラの束宇宙は、すべての他の束宇宙とは断絶した単一の弦宇宙に「確定」してしまっているわけだ。従って(別の統合人格サヨコの比喩人格である)小夜子もこの宇宙には存在することはできない。それゆえこのシーンに小夜子はおらず、ただ「白い帽子」ばかりが象徴的に描写されているのだろう(それにしてもこのシーンの美しさはどうだ。著者の描写の技倆に感嘆するばかり)。

 さて、小夜子の白い帽子と認識されているからには、小夜子の存在自体は忘れられていないということになる。
 少し手前で、タカクラとマチダの間でその可能性が議論されており、マチダの見解は存在そのものが消されてしまうというものだった。タカクラはそんなことはないとの考えだったが、この見解の相違の背後には「大収縮」後の世界のあり方に対する見方の相違が横たわっているわけだ。
 マチダは大収縮すなわち確定後はその状態が持続すると考えたのに対し、カタクラは大収縮から再び拡散が始まると予想する。これはビッグクランチに対する脈動宇宙論の感じか。

 ラストの「K統合群終末」のシーンに私はそこはかとない明るさを感じたのだが、それは再び拡張が始まり、小夜子が戻ってくるという予感が風景に溶け込まされているからではないだろうか。
 いずれにしても(世界像の)難解さにもかかわらずこのリーダビリティは半端ではない。著者の精進を感じないではいられないと共に、わたし的には本篇は今年のベストワンかも。
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天涯の砦

2006年10月05日 21時26分16秒 | 読書
小川一水『天涯の砦』(ハヤカワJコレクション、06)

○月×日
 昼休みに読み出したら止まらなくなって3分の2ほど読んでしまった。罪な本であることよ。仕事に差し障りが出てしまったではないか。
 短編集と違って長編は切れ目がないからついズルズル読んでしまうなあ。いやまあ意志が弱いオレが悪いんだが。

 それはともかく、日本製ハードSFは、べんちゃらでもなんでもなく世界レベルに達していると思う。ただハード部分を載せる「物語」自体の走らせ方はかなり特異である場合が多いのではないか。つまり「筆法」が一般的な「小説」のそれとはずいぶん違うアプローチをしていることが多いようにみえるのだ。

 たとえば石原藤夫の場合、その筆法は「マンガ」(但し近年のそれではなく、せいぜい「ドラえもん」あたりまで)のそれである。その特徴はとりわけ「タイムマシン惑星」に強く見出せる。→「タイムマシン惑星」
 また林譲治の場合は、明らかに「アニメ」の筆法を意識的に取り込んでいるようだ。→「ストリンガーの沈黙」

 その伝で行くと、本書はさしづめ「テレビドラマ」ではないだろうか。「キャラ」のカリカチュアの質が、テレビドラマのキャラとよく似ているように思うのだ。ひょっとして著者は実際にテレビドラマのキャストを登場人物に当てはめて本作を作っているんではないかな。テレビドラマには疎いので誰がどれと特定はようしないけど。

 かくのごとく三者三様で、読者としては楽しいのだが(その点堀晃の筆法は上三者に比べて正統的といえる)、それにしてもなぜ日本のハードSF作家の多くは、ふつうの「小説」の筆法を使わないのかね。まあこれは宿題としておこう。

○月×日
 読了。 
 カーボンナノホイール(CNW)という「魔法」の導入で、安価に簡単に宇宙への進出が可能となる。導入された魔法(跳躍的技術)はこれだけ。まさにハードSFのお手本のような世界設定がすばらしい。
 CNWロケットの確立によって一国家や一企業単位で宇宙開発が可能となり、2060年ごろ一挙に宇宙バブルが始まる。低軌道には毎日のようにロケットが上がり、30年後の22世紀も近い「今」では月面に各国別の月面都市が運営されている(例えば在月日本都市・月京)。

 舞台となるのは地球低軌道を周回する日本領宇宙基地・望天。質量5万5千トンを超える軌道複合構造体(サテライト・コンプレックス)だ。
 この望天が、整備ミスというべき事故で爆発が起こり、破裂四散する。コンプレックスを構成していた構造体のひとつである第4扇区は、係留されていた月往還船・わかたけを爆発のショックでめりこませたまま、虚空に吹き飛ばされる。

 この第4扇区にいた殆どの人々は命を失ったが、幸運にも子供を含めて9名の男女が、構造体の各所にばらばらにではあったが、生存していたのだ。彼らを繋ぐのは空気ダクトを通じての声による接触のみ。
 やがて9名は一箇所に集まろうと行動を開始するが、他方密閉空間は彼らの間に反目をも生むのだった。……

 という外枠というか、物理的なハードの部分は申し分ない。これぞハードSFの醍醐味。
 問題は内側、すなわち精神・心理的なソフトの部分なのだ。

 望天の破砕のメカニズムは、いわゆる「神の声」が懇切に説明してくれるので、それはもう作中人物や機関の誰よりも、読者の方が早くそのメカニズムについて知識を得てしまう。
 他方、9名の生存者に対しても、同様の視線が向けられている。作中人物個々の内面について、作者は微にいり細を穿って説明を加える。これがとても気になった、というか煩わしく感じられた。これでは作中人物はいつまでたっても「自立」できない。

 その意味では一見「非常識」な人物像を造型しているように見えても、説明された感情や思いは、「非常識」という範囲内で平板なのだ。まさに(内面のない)「キャラ」でしかない。作中人物は結局作者の操縦するロボットから脱皮できず、而してその行動は内発的には見えず、作者によって演出された演技としか映らない。

 その結果として、読者の目に映る人物像は案外軽くて薄っぺらい。それが昨日書いたように、テレビドラマの登場人物めいて見えたんだろう。
 考えてみればテレビドラマのキャラこそ、軽くて薄っぺらい「ロボット」の典型ではないか。
 本書においても、キャラが各シーンを演じているという印象が強い。ストーリーはシーンの連鎖によって構成されるが、その連鎖は根本的に因果的でなければならない。その因果律の勁さが読者にリアリティを醸成するのだ。

 広くネットを閲覧してみると、案の定ラストへの違和感が多く述べられている。オレもそう感じた。
 ではなぜ多くの読者がそんな風に感じてしまったのかといえば、結局最終シーンがそれまで積み上げてきた因果の連鎖を断ち切ってしまっているからに他ならない。
 では何故そんなシーンになってしまったのか? 各登場人物が主体的にストーリーを生きず、作者の手先となってキャラを演じてしまったからだ。つまり作者は最終回をハッピーエンドで終わらせたかったんだろう。そんな結末はテレビドラマにはゴマンとありそうじゃないか。

 結局のところ作者は作中人物に介入しすぎたのだ。もっと自由に、作中人物にストーリーを委ねるべきだったのだ。個々の作中人物の内的論理にもっと耳を傾けるべきだったのではないか。作中人物が主体的に生きはじめていれば、そうしていればラストはまた違う様相をみせたに違いない。

 *以上はSF「小説」としてみた場合の感想。「テレビドラマ」としてならばこれで十分オッケー。こんなもんでしょう。
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遺す言葉、その他の短篇(下)

2006年10月01日 23時29分24秒 | 読書
アイリーン・ガン『遺す言葉、その他の短篇』幹遙子訳(早川書房、06)
 <承前>

○月×日
「ニルヴァーナ・ハイ」(04)
 レズリー・ホワットとの合作。難解だけどこれはいいな。本集中でも1、2を争う面白さ。外的には「ごくせん」のような落ち零れ学園ドラマのフォーマットながら、そこに籠められたパフォーマンスはフリージャズのそれ、とでも言うか、まあアルバート・アイラーがマーチを演奏しているあの感じですな(あるいは明朗青春小説を書こうとしているディックみたいな?)。

 一読では当然何が何だか訳の分からない話で、二度読んだけど、まだ内的論理を捉まえられない。
 それでもすごく魅力的なのは(オレにはまだ捉えられないけど)内的な必然性が物語を駆動させているからに違いない。
 たぶん本篇の小説世界(の構成要素)はこのストーリーだけじゃないんだろう。きっと書かれざるエピソードがストーリーの背景に隠れているに違いない。そういう重層性は強く感じる。

 そういうぐじゃっとしたストーリーが、(フリージャズでもラストはテーマ演奏に戻って終わるように)最後、学園ドラマのフォーマットに還って、クラスのコミュニオン的カタルシスで幕が下りる。いやこのラストのシーンは目に浮かぶようにあざやかで、うまい。

○月×日
「緑の炎」(98)
 ガン、アンディ・ダンカン、パット・マーフィー、マイクル・スワンウィックの4名によるリレー小説。リレー小説らしくお遊びの要素が強く出ている。けれどもそこそこ面白かった。とりわけアシモフの性格設定がいかにもアシモフらしくて大笑いさせられた。
 しかしながら1篇の小説としてみれば、全体にだらんとしていて緊張感に欠ける。起承転結にメリハリがなく、この辺はリレー小説の宿命かも。

 またもや訳文――
 「平時には効率よく機能し、戦時においては効果的に機能する一隻の強力な船は人間社会の大きな成功といえた」(256p)
 こういう中学生の英作文じみた生硬な直訳が、どうしてもある一定の割合であらわれてくるんだよな。
 とはいえ、冒頭のギブスンでこれは一体どうなることやらと思った割には、読み終わってみればそんなに悪い訳ではなかった。むしろ結構うまいんじゃないかとも思われたのだ。それなのに、時折上記のような気持ち悪い訳を平気でするのがふしぎ。

 最初が最初だっただけに、普段よりも神経質に読んだ感なきにしもあらずで、その点は訳者に申し訳ない気持ちもあるのだが、そういうスタンスで読みすすんでいくうち、何故そこそこのスキルを持つ訳者がこんな訳文を平気で使うんだろう、という、訳者本人に対する興味がわいてきて、いつのまにか訳者の内心を忖度しつつ読んでいた。
 そうやって通読しているうちに、なんとなく訳者の性格が分かったような気がしてきた。いやもちろん勝手な妄想なんだけど、この訳者、集中力にばらつきがあるんではないかなあ。気持ちが乗っているときは申し分ない訳文なのだが、それが持続しない。時折集中力が途切れ、考えるのが面倒になって、脊髄反射的な訳語選択をしてしまう。そんな気がしたのだった。

 ということで一応読了。「ニルヴァーナ・ハイ」はまた後で読んでみるつもり。
 さて、読了した目で振り返ってみれば、ギブスンのいう「ビジネス」も、曖昧ながら何となくかたちが見えてきたような気がする。
 先日は「プロフェッショナル」の意味かと記したわけだが、それをさらに分解すれば、水準作をコンスタントに制作し、絶対に誌面に穴をあけない類の「プロフェッショナル(ビジネスライク)」という意味のほかに、たとえば「陶工」が窯から焼きあがった制作物を検分する段階で、どんどん割っていき、結局ひとつも残さなかった、という類の「プロフェッショナル(マックス・ウェーバーのいわゆる「ベルーフ」)」の意味があるのではないか。

 ギブスンの一文にあるとおり、著者はいろんな職業を経験し(それに付随していろんな場所に住み)それらを卒なくこなしてきたのだろう。一般の文士のイメージよりは社交的な職業人のイメージがそこにはある。
 そのことに対応するように、本書収録作品のジャンルも多岐に渡っており、出来上がった(収録された)作品自体も水準以上の品質を維持している。その意味では、一見前者の意味で「プロ」といえる。しかしながらこれら12篇が、実に30年のキャリアにおける「全作品」であることを知れば、ギブスンのいう「ビジネス」が、後者の意味での「プロフェッショナル(ベルーフ)」で(も)あることがおのずと知れようというものだ。

 こちらのサイトに「まーず、独特ですな」とあるが、いい得て妙ですな。
 一見多彩な「ビジネス」仕事ながら、その実「アイリーン・ガン」作品以外のなにものでもないという「独特さ」、「個性」が、すべての収録作から等しく、強く発散されている。これが大事なのであって(最近のハヤカワのニュースペオペは、どれが誰の作品なのかこんがらがる、という話だけれど)その意味で本書は「本物」であるといえる。
 

 (この項、了)
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