チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

深田民話の佳品

2023年02月25日 22時21分07秒 | 日記
日本SF作家クラブのPIXIV FANBOXに、深田亨さんの「上品な味」が掲載されました。(→こちら
いや、よいですなあ。
最近は私、描写の小説はとんと読めなくなってしまいました。でもそのかわり語りの物語は以前以上に楽しめるようになってきまして、とは言い条、長いものは駄目なんですが、語り口にこだわった作品は何度も味読玩読してしまいます。ですから短いほうがよろしい。
本篇はまさにわが嗜好どストライクでありました。
ただ一点、雛は画竜点睛を欠きました。それともこんな用法もあるのかな。
あとタイトルは、まあそういう結末だろうな、と推測がつくもので、やや直球すぎたような。星新一の呪縛というか。
深田民話集は、まとめて読みたいですねえ\(^o^)/

とか、上から目線で書いている本人が、「生きてをりてふ」を「おりてふ」と誤記しているのですから、世話ないですね。嗚呼。m(__)m


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値上げ(^^;

2023年02月22日 20時41分04秒 | 日記
トマトさん ↓(^^ゞ

      ――――――

管理人さん、こんばんは…。 (トマト)
2023-02-21 18:09:49
管理人さん、失礼しますm(_ _)m
しかし…自分でも…何でもはトマトなんてHNにしたんだろう???

都内に三十余年いたけど、もう過去のことですね…。
邯鄲の夢というかあっという間でした。

三十余年前、農地を売って木組みの店舗を建ててパン工房を始めた同期夫妻…昨日のことみたいです…。
木組みの店舗もすっかり年季が入っていました。
このところの材料費や光熱費の値上がりでお店の健全な経営のためにお客さんに理解を求めて値上げを踏み切ったのですが、ほんとに、断腸の思い…わかってくれるかな…と不安な気持ち…。
ほんと、お客さんに支えられてお店があるというこの感覚…。私には心地よいですが…。
子供の頃からパン屋って憧れで…。

あの頃(昭和の終わり)には沢山なるんでいたプンパーニッケルなどのストロング・スタイルのどいつぱんたちは姿を消し、売れ筋のバゲットやベーグルなどがメインですが…。

…でも、ほんわりした温もりに包まれて…いいですね…。
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「歌稿」拝受

2023年02月20日 22時25分04秒 | 日記
先日村上知子さんより、村上芳雄『歌稿 昭和二十六年以降 村上芳雄遺歌集』を頂戴しました。ありがとうございました。

村上芳雄は知子さんのお祖父さん――とはつまりいうまでもなく眉村さんのお父さんですね。
昭和49年の刊行で、眉村さんの「あとがき」によれば、実際は戦前から投稿していた歌誌「国民文学」に掲載された分だけでも相当の数があり、完璧な遺歌集をのぞめばいつまで経っても刊行できないので、昭和二十六年以降分は本人の芳雄が「歌稿」と題して一綴りに綴った草稿が残っていたのを幸い、7回忌をしおにそのまま歌集として上梓したとあります。B6版394頁。編集人・小山俊平。印刷製本・真生印刷。

先週頂戴していたのですが、雑事にかまけもらいっぱなしになってい気にかかっていたところ、ようやく机の前に座ることができ開いてみた次第。
年代順に並べられていまして、冒頭どアタマの歌がこっちで、一読ズドンと撃ち抜かれました。

  一年に一二度おくるわが歌稿生きておりてふ報せの如く

うーむ。
「生きておりてふ報せの如く」は、扉ページにも按配されており、芳雄が一綴りにした主題でありそうです。
「おくる」とは、「国民文学」への投稿のことでしょうか。
一読、これ、現代ならブログやな、と思いました。
というのは、近年、独居住まいで孤独死し、発見が遅れた話を(「宇宙気流」等で)つづけざまに目にし、そのとき、ブログやSNSの発信が滞ったら気をつけるべし、との意見があったのを思い出したからです。
と同時に思い出したことがあって、私が巡回する掲示板の一つが(ここですが)
去年の11月から書き込みがなく心配していたところ、やはり心配された方がいたようで、12月と2月に、別々の方が書き込みをされていました。
それでホッとしたのでした。
いやいや、掲示板に本人以外が書き込んでも安否の確認にはならんだろうと思われるかもしれませんが、さにあらず、当の掲示板は管理人が許可してはじめて画面に反映される形式で、投稿が載ったということは、御本人がその文面を確認したということを意味しており、それゆえ、ホッと安心することができたわけです(数日前に御本人が数か月ぶりに投稿されていて安心は確信となりました)。
しかし、それでも昭和26年頃は、いまよりはるかに通信手段は遅れていたわけで、現在ならば一か月も空白期間があれば、心配する人も出、確認の手段(たとえば上記のように掲示板への投稿)が行使されもしますが、当時はそんな即時性はのぞむべくもなく、「一年に一二度」がせいぜいだったということですねえ・・

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有意な偶然?

2023年02月13日 21時43分06秒 | 日記
別に理由はなかったのですが、ふと見た視線の先に『季刊文化87号』があったので、村上知子「通夜の夜――父・眉村卓と聴いた音楽のことなど」を読み返していました。
で、今回はその話――ではありません(>おい)。
当該エッセイの2つ前に、中西進「アイヌの王印」というエッセイが掲載されていて、その上をすべった私の視線が、ある文字列を捉えてしまったのです。
すなわち、「伊藤英人博士の「濊倭同系論」
おお、先日私が読んだ論文ではありませんか。(https://kodaimoji.her.jp/pdf15/yitou224.pdf
これ、三国史記に記載された(当時の)地名の読みから推定された「大陸倭語」が、「古代韓語」と、半島北部地域において混在していたことを示し、この大陸倭語は結局「濊語」であったとするもので、学術論文ですから、特殊(一般人には)なタームが説明なしに使われていて、そういう知識がなく著者の先行論文も未読の私は、タームの意味内容を推理しながら読むという、ある意味苦行だったのですが、ところが、それまでモヤモヤとした暗黒星雲に包まれていたのが、あるところまで来たら、ぱっと、視界が一瀉千里と晴れ渡るという、まさにセンス・オブ・ワンダーを体感しました。
いやびっくりしました。
本論文は言語学の論文ですから、濊族が列島にわたってきて倭人になったなんていう想像的なことは書かれていません。
しかし、豊田さんの『倭王の末裔』は、まさに濊族が列島にわたってきたお話でしたよね。
私自身は、日本語は百済語である、と考えたい派ですが(これも豊田さんが述べていたと思いますが)、いやわくわくしました\(^o^)/
一方、中西博士は、当該論文から敷衍し(と言うか想像力を働かせて)、漢委奴国王の印綬を、一般的に「漢の委の奴の国王」とよませる(つまり奴を奴国とする)のが一種の夜郎自大だと反発し、実際魏の皇帝というか中国人の意識は、漢の奴(「やっこ」とは書いてませんけど)の国王であったとします。
またその一方で、委奴は中国音でウェイヌであることから、ワタシ→アタシのように、ウェイヌ→アイヌと変化したとして、印綬の委奴国王はアイヌの王のことだとします。
これも楽しい\(^o^)/
村上エッセイを最初に読んだとき、中西エッセイも読んだはずですが、その当時はまだ「濊倭同系論」を私は読んでいませんでした。だから目がすべってしまっていたわけです。
とすれば、今回の「ふとした再読」は、まさにシンクロニシティ「有意な偶然」といえるかもしれませんなあ。(^^ゞ

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「不器用なまま」後半

2023年02月04日 11時32分01秒 | 日記
お知らせが大変遅くなりました。
「かまくら春秋2023年2月号」
が発売されています。
もう皆さんすでにご承知かと思いますが、村上知子さんの二回分載「(父母の肖像)「不器用なまま」の後半部分が掲載されています。
前半に引き続いて、大変興味深く読ませていただきました。
前回、紹介に際して(伝記というだけではなく)評伝という言葉を使いましたが、今回もその評伝という形容がふさわしい内容でした。
しかも今回読みまして、評伝の頭には、ユニークな、という形容句を、さらに付け加えたいと思ったことでした。
対象が、娘が見、感じたところの、父親である作家であるからです。
作家が、外側に向けて作ってきた(装ってきた)自己イメージを、その内側から批評する視線が存在するのですね(これはまあ、娘の特権で、外に存在する批評家には書けません。汗)。
たとえば――
「子供の私には、自分が世知に長けていると見せたがった父だが……」
いやー娘には、子供の時分からすでに完全に見透かされていたわけですな(>おい)
その次の悦子さんの言からは、悦子さんにも見透かされていたことが明瞭でしょう。
一日一話の企図は、実は完全に眉村さんを読み切っていたふたりの女性の、ある意味優しさがによって支えられていたんですね(そのことも本編に読み取れます)。
上に戻って、「見せたがった」というイメージですが、そうと知って振り返れば、なるほど『眉村卓の異世界通信』に寄せられた文化センターの生徒さんたちの思い出話の中にも、明らかに見出せるのではないでしょうか。時間がないので当該本を引っ張り出してきていちいち例示するのは省略しますが、柔道部に入る前に町道場に通ったというのは、まさにその典型例では。
そしてこの言葉は、いうまでもなく前半の、「一生懸命だな」と響き合っているわけで、外部の私がこう書くと失礼かもしれませんが、いや失礼そのもので眉村さんに知られたら破門モノですが(娘さんだから許される)、眉村さんに一貫して通底していた行動パターンだったように、思われてくるのであります。
悦子さんが亡くなってからの眉村さんの意識行動の少しずつ変化していくさまも、読んでいてよくわかった、というか、私の内部でもやもやしていたものが晴れていくようでした。
キイワードは「成り行き任せ」
本文にも取り上げられた『いいかげんワールド』が転換点だったのでしょうか?(短編にもっと早い萌芽がありそうですが私にそれを確認する時間はもうないでしょう)、眉村さんの古くからの読者は、あれ?と思ったのではないでしょうか?
これについては、書き始めたら止まらない予感がありますので、疑問符だけ残して終わりたいと思います。みなさま夫々に自らの内側をチェックしてくださいね\(^o^)/ 


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