チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

かわいい女

2009年04月29日 00時00分00秒 | 読書
レイモンド・チャンドラー『かわいい女』清水俊二訳(創元推理文庫59)

 ――人間が生活を生存に、野心を保証に交換したときに生れる生物なのだ。(250p)

 『黒と赤の潮流』の伝でいうならば、(まあ言わずもがなだが)マーロウが<ハードボイルド>を体現し、そのマーロウが<触媒>となって周囲の人物を(いっとき)変化させる、という同じ物語(瀬名のいうそれではなく形式としての物語)を、マーロウものは何度も変奏しているのだといえる。
 ただ福田固茹とは違って、チャンドラーのそれでは、<ハードボイルド>が眩しすぎて――もしくは立場の拘束が強すぎて――それから目を背けてしまう輩も描き込んでいる点だろう。実際マーロウの存在は立場に強く縛められているものには、自らの卑しさを自覚させられて、かといってどうしようもなくて、苦しいだけだろう。ラストの顛末は、マーロウが眩しすぎた結果といえなくもない。いずれにしても作中に「悪人らしい悪人」という存在は一人も登場しないのはたしかです。

 本篇には3人の女が登場しますが、どの女が「かわいい女」だったのか? 一概にはいえないと思いますが、ラストで心中する女優と、化粧ッけのない最初の依頼人の女とは、登場時と退場時でその役柄が入れ替わってしまっていることに注意。これは凄い。ここまで描き込んだチャンドラーは、やはり福田和代よりも一日(二日? 三日?)の長があります(^^;。

 マーロウという<ハードボイルド>は、(現実にはありえないだろう)完璧な(しかしかくあるべき)「人間」像であることで(もっとも野村監督並みに際限なく愚痴りつづけるのですけど(^^;)、ほとんどファンタジーなんですが、そのファンタジーの照射が、逆に世界の「影」の部分をくっきりと際立たせる。つまりファンタジーがリアリティを保証している。リアル世界の人間はマーロウのようには生きられないのです。
 そういえば福田作品に対するネット書評に、若い主人公が「これだけの危険な状況に自ら飛び込んでいくのはリアリティに乏しいように思える」という感想がありましたが、それをいうならマーロウの存在はもっとリアリティがないといえる。ファンタジーなんだから当然なんですね。

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黒と赤の潮流

2009年04月25日 00時00分00秒 | 読書
福田和代『黒と赤の潮流』(早川書房09)

 なんと、ハードボイルドでした!
  
「死んだ人間との約束は、生きている人間との約束よりも重い」(152p)
 とか、
「生意気でない若い男などいない。もしいたらそいつは若くないか、男じゃないかだ」(153p)
 とか(^^;
 うーん、しびれますなあ……。
 純然たるハードボイルドであるばかりか、青春アドベンチャーや海洋サスペンスまで加味されて、もう至れり尽くせり。これは面白かった。

 1975年にタイへ出奔した男が、20年後、阪神大震災直後の神戸へ帰ってくる――というシチュエーションは、明らかに矢作俊彦『ららら科學の子』への挑戦ですね。その意気やよし(^^;
 本篇のすぐれたところは、脇役にいたるまで、例外なくそれぞれがそれぞれの「物語」(@瀬名秀明)をかかえていること。それが読者にそこはかとなく伝わってくるところでしょう。そういう人間本来の「了解性」に訴えてくる奥深さが本篇にはあるように思います。

 たとえばあけぼの丸船長の川西が高見に対して示す絶対的な心服は、本篇以前のどこかで、「別の」物語があったことを想像させます。それが何なのか本篇を読んでも具体的なことは分かりませんが、本篇の「物語」が、本篇以前にある「別の物語」と確実に繋がっていることが、了解できるのです。本篇が、本篇のみで完結しているのでなく、もっと広い物語世界の一部であるという感覚があり、それが翻って本篇に奥行きを与えているんですね。
 そういう意味で、読者としては、どういう経緯で川西が高見に心服するにいたったのかとか、なぜ後藤が、古賀のことを冤罪で陥れようとするまで憎んだのかとか、それら周辺の物語も、あたうことならば「番外編」として読んでみたい、と思わずにはいられない。もとよりそう思わせられたことが重要なので、実際に番外編が書かれる必要はないのです。そういうパースペクティブを持つ小説世界として成立していることこそが、本篇が「小説」として優れたものである証拠といえるのです。

 ところで、ネットで検索しますと、本篇の感想として悪人らしい悪人がいないことに不満を述べているブログがありました。私は逆です。元来人間とはそんな単純なものではないと思うからです。
 例えば、苛烈な取立てをする金融業者が家に帰ればよくできたお父さんであることは矛盾しません。むしろそういう事例は世にありふれているというべきでしょう。悪人らしい悪人なんて「通俗小説」の中にしか存在しない単純化の極致です。現実的には、「立場」(社会関係)が人間を悪人にも善人にもしてしまうというべき。
 あるいはこういってもよい。
「悪人」に対して「てめえら人間じゃねえ」という常套句があります。これは論理的には「悪人」を、「人間」の要素が何ほどか欠乏した状態とみなしているわけです。「人間」に対する「非人間」が「悪人」というわけです。これは結局「人間」とはそもそも「善人」であることが原状であるという態度であります。

 本篇は、主人公の祐一と接触した「悪人」たちが、祐一を<触媒>に、「人間」を回復する物語と読むことも出来るのではないでしょうか。それはおそらく本篇における数日間の祐一の行動の「ハードボイルド」性に依っているに違いない。いわば祐一の体現する「ハードボイルド」に作中人物たちが「染まって」しまったのです。

 とはいっても、それは畢竟一瞬かもしれない。ラストで、小悪党の真木が祐一に、(娑婆に)「出てきたら俺と酒を飲め。いいな」(393p)と声をかける感動の場面があります。しかしこのシーンは真木のいかがわしい仕事から足を洗うことを意味しない。次の瞬間から真木は、自分の生活へと戻っていく。人間とはそういうものなのであって、「立場」さえ許せば、基本的に人間は善人である、という人間観を、おそらく著者は持っているのでしょう。いうまでもなく「ハードボイルド」は、人間賛歌の物語なのです。

 ただ惜しむらくは、ラスト50ページで筆が走ってしまった。具体的には海洋サスペンスのパートで、書き急いだ分軽くなって浮いてしまった。ここは腰を落ち着けて、もっと紙幅を費やしてじっくり書き込んで欲しかったと思います。
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夜泣石は霧に濡れた

2009年04月16日 00時00分00秒 | 読書
笹沢佐保木枯し紋次郎(五)夜泣石は霧に濡れた』(光文社文庫 97)

「馬子唄に命を託した」(天保10年9月)
「海鳴りに運命を聞いた」(天保10年1月)
 この2作を読んで、ああとうとう5巻目にして、このシリーズも続きものの悪弊に怠落してしまったか、と思った。あまりにも緩い筆致で、シリーズを縮小再生産的に消費してしまっていたのだ。例えば、これまでは1巻あたり大体1年の時が経過していたのが、既に前巻から殆ど時間が進まなくなってはいた。本書にいたって遂に時間が逆戻りをはじめてしまっている。いうまでもなく従来の速度で時間を流していったら、またたくまに紋次郎が中年、老年になってしまうことを慮ったからだと了解されるのですが、同時にそれは、やはりシリーズに安住する姿勢のあらわれでもあるわけです。「もうこの巻で読むのやめよう」と私は思ったのでした。ところが――

「夜泣石は霧に濡れた」(天保9年9月)
 では、あざやかに建て直されていました。それについては作者も自覚的なようで、ここまでの4巻はすべて冒頭の作品タイトルが自動的に書名として使われており、その通例に従うならば本書のタイトルは「馬子唄に命を託した」となっていてしかるべきなのですが、この巻に限ってその通則が破られて、本篇の題名「夜泣石は霧に濡れた」が採用されている、そのことからしても、著者の意志は明らかであると思われます(>本シリーズの単行本化の構成は、単純に自動的に雑誌掲載順に配列されているのです)。つまり著者も前二作品の出来については満足していなかったということで、シリーズ化の「悪しき惰性」に陥りかけたことに素早く気づいて、本篇でしっかり軌道修正したわけです。この辺が並みの作家ではないところですね。そうして次の――

「駈入寺に道は果てた」(天保9年11月)
 も、十分に楽しめる作品に仕上がっており、安心しました。これでまた続巻を読み継いでいこういう意欲も復活しました。
 ところで本篇、どうも読んだ記憶があるんですよね。で、小一時間ほど自分のサイトを検索していたんですが、そんな記録は見当たらない。でも私は最後の仕掛け(身代わり)と結末まで、はっきりと覚えていたので、確かに読んでいるのです。うーむ。
 そうと気づけば「夜泣石……」も、ラストの「明鴉に死地を射た」(天保10年2月)も、なんとなく読んだ記憶があるような気もだんだんとしてきて謎は深まるばかりなのですが、たぶん読んでいるんでしょう。
 なぜ読んでいるにも関わらず覚えていないか。結局チャンドラーと同様この著者もストーリーというよりはその雰囲気に浸って気持ちよくなるタイプだからではないか。いわば湯舟につかって気持ちよくなるのと同じ効能を読者にもたらす小説なんですね、ヘンなたとえですが。お風呂は、当然湯舟の湯は入るたびに入れ替わっているわけです。ところが湯は変わっていようと、それに関係なく或る一定の気持ちのよさをもたらします。
 フィリップ・マーロウものも、木枯し紋次郎ものも、毎回筋立ては異なるけれども、そのもたらす気持ちよさは一定といえる。その意味でストーリーは湯舟の湯のようなものであり、だから読者はストーリーに浸かっても、そのストーリーの個別性は基本的にどうでもいいということなのではないか。
 ただこの作品は、めずらしくストーリー的にも一応緊密な構成があってよく出来ていたので、かすかに記憶が残っていたということなんではないでしょうか。

 上に述べたように、似たような感興をもたらすチャンドラーと笹沢佐保ですが、しかし小説のスタイルは正反対。前者がリアリズムに徹して作者自身は何も語らないのに対して、後者は一から十まで作者が解説してくれます。
 前者にはマーロウの視界に映じたシーン、マーロウの耳に聞こえた音声情報があるのみで、それに著者は何も付託しない。そしてマーロウの心の中も、かれがしゃべる言葉から推察する以外にない。
 他方寡黙なる紋次郎は、自身では何も言わないけれども、その行為の意味や心中の考えは、作者がすべて代行して説明し尽くしてくれる。
 そういうわけで、チャンドラーの小説は(リアリズムに徹することでリアリティを拒否するため)一見ではごたごたとそれぞれのシーンが意味的な繋がりを持たずに放り出されてあるように見え、大衆小説の語法しか知らない読者はなかなか理解が及ばない。一方の笹沢は大衆小説そのものの語法に依っており、実に分かりやすく作者によって整理され、読者は受身の姿勢で待っていれば理解が向こうから訪れてくれます。どっちが「小説」なのかといえば、これはもうチャンドラーに軍配を上げる他ないのですが、「読後感」はさほど違いがないのですよね。どっちも「ハードボイルド」なのです。

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フィリップ・マーロウ

2009年04月14日 00時00分00秒 | 読書
レイモンド・チャンドラー世界の名探偵コレクション10 フィリップ・マーロウ』稲葉明雄訳(集英社文庫97)

 パルプ・マガジンといえば《ウィアード・テールズ》(1923年創刊)と、馬鹿のひとつ覚えのようにいってますが、ミステリの人なら、たぶん《ブラック・マスク》(1920年創刊)をまず想起されるのではないでしょうか。
 というわけで(無理矢理ですが)ブラックマスク御三家の一人、チャンドラーに着手。まずは冒頭の「犬が好きだった男」を読みました(ただしこの話は《アーゴシー》(36)初出)。

 チャンドラーは、長篇は『かわいい女』以外は読んでいるはずなんですけれども、短篇は創元の短編全集の1巻と3巻を読んでいるだけ。なので、たぶんバッティングすることはなかろうと高を括っていたのですが、帰宅して確認したところ、なんとこの「犬が好きだった男」がかぶっていた(3巻所収)。
 でもタイトルを見て気がつかないくらいですから、全然覚えてなくて、実際のところはノープロブレムでした(汗)。というかチャンドラーは何を読んでも、ストーリーを覚えられません。

 さて本篇は、犬好きのお尋ね者、腐敗した町の警察を辞めて(辞めさせられて?)港でブラブラしている男など、いかにもチャンドラーらしい登場人物がマーロウに絡んでいき、しかして(法的な意味での)善悪を超越した哀感で収束する、まさに典型的なマーロウもの。堪能しました(しかし、うーむ残りの2編も同じ感想を書きそうな予感が(^^;)

「碧い玉」は、《ダイム・デテクティヴ・マンスリー》(37)初出。早速予想どおりの展開に……(汗) 
 それにしても私、この作品のあらすじを説明できませぬ。一体何がどうなっているのやら。複雑に入り組んでいるのか、そもそも筋がとおってないのか。いや筋がとおってないなんてありえませんね、私の理解力が本篇の水準に及んでいないだけなんですよねっ!
 今回の副主人公(?)は数年前に町のチンピラに殺された高潔な警察署長の娘。いささか母性本能が強く頼まれもしないのにマーロウの世話を焼きます(^^;

「うぬぼれた殺人」は、《ブラック・マスク》(34)初出。デビュー第2作で、第1作「脅迫者は撃たない」と同じく著者には珍しい3人称描写。探偵の名前は異なりますが、世界は同じで同一人物とみなしてよさそう。確認したら映画会社名や市警署長の名前も共通のままでした。いずれにしろ著者は、マーロウの名に後になって統一される探偵を第1作から同じイメージで書き継いできたそうです。

 ところで、あらすじがわかりにくいということに関して――探偵があるパーティに潜入したシーン、金髪女が探偵の方につかつかとやってきて、「あら、珍しいところであったわね!」と声をかけます(222p)。実はこの女、242pで探偵から「きょうの午後、スートロの邸できみを見かけたよ。深酔いしていたから覚えてないんだろう」と指摘される当の金髪女なのです。つまり222pでは、まだ初対面というか、お互いに誰であるか知らない状況。なのに女が、上のようないかにも親しげな発言をするのは、こういうことではないか。おそらくパーティで、女は退屈していたんでしょう。そのようなシーンで、女のほうからめぼしい男に声をかけるときには、そのような声のかけ方を(当時のアメリカでは、あるいは今でも)したのではないでしょうか。こういうシチュエーションは、特に文化の違う読者はよほど気をつけて(小説世界に溶け込んで)読んでいないと、「あれ、こんな女と探偵は出会っていたっけ」とページを繰りなおしてしまいかねない。非常にリアルなシチュエーションではあるけれども、一方で読者にとってはきわめて「不親切な」描写方法でもあります。

 実はこのようなリアリズム筆法が随所で使われているため、チャンドラーの小説はなかなか筋が掴みにくいのかもしれない、と思ったことでした。

 さて、チャンドラーといえば感傷的な気のきいた台詞回しが特徴ですが、本集収録作品には、意外にもそういう面はあまり目立たなかった。実はチャンドラーは、初期の10年足らずの間に書いた中篇を「使いまわし」して、その後の長篇小説に生かしていったようです。訳者も巻末解説で、「ほとんどの長編はそれまでに書いてきた中編をさまざまに組み合わせ、あいだにつなぎを入れて完成している。(……)ところが皮肉にも、そのつなぎの部分に私小説的、叙情的な味があり、大いに受けることになった」(293p)と書いています。
 つまり、いわゆるチャンドラーらしさは、実は専ら長編のみに該当する特徴だったのですね。上に書いたように中編では殆どそんな要素は認められません。ただただ探偵が「ハードボイルド」に、ぼこぼこに殴られ、死体の山が築かれていくばかり、といえば言いすぎですが(笑)。

 訳者は「長編では曖昧でわかりにくい部分も中編で読めば、ストーリーがはっきりわかる」(同上)と書いていますが、いやいやなかなかどうして。確かに長編化されて「より分かり難く」なっているのが、因数分解されることで些かましになったかもしれませんが、やはり上記のような叙述法(リアリズム)は、読者に「体験」の蓄積がないと判りづらいものであるのは確かではないでしょうか。
 本格パズラーは「1+1=2」(論理)が基本ですから、中学生でも完璧に理解できます(だからハードボイルドより劣るといっているのではない。為念)。チャンドラーの小説はそういうわけには行かないのですね。
 巻末の鳴海章によるエッセイにあるとおり、「チャンドラーを読むのは実に20年ぶりだった。あの頃は若すぎたのだろう。一行一行に込められた切なさを読み取れなかった気がする。今もちゃんと読みとれているのか自信はない」(302p)。私も同感ですねえ。

 以上で、レイモンド・チャンドラー世界の名探偵コレクション10 フィリップ・マーロウ』稲葉明雄訳(集英社文庫97)読了。
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ウィアード4

2009年04月11日 22時18分00秒 | 読書
H・P・ラヴクラフト他怪奇幻想小説シリーズウィアード4』大瀧啓裕編(青心社文庫91)

 いよいよ発行されている限りでの最終巻となりました。

 メアリー・エリザベス・カウンセルマン「ママ」大瀧啓裕訳(39)
 <トワイライトゾーン>的な話です。亡くなった母親が守護霊として憑いている少女のエピソード。守護霊だから悪いことはないんだけれど、でもその彼女を引き取る養母となる人は困っちゃいますよね、というかそれが本篇の「余韻」なんですよね(^^;。

 フランク・グルーバー「十三階」東谷真知子訳(41)
 (創元文庫の解説目録で名高い)『コルト拳銃の謎』や『ゴースト・タウンの謎』の、あのフランク・グルーバーのホラー小説。逸品です。現代作家が書いたものといわれても納得してしまいそう。その意味で<異形コレクション>的といえるかも。

 H・P・ラヴクラフト「地下納骨所にて」大瀧啓裕訳(32)
 クトゥルーの神とは無関係な、正統的(?)な怪奇小説であり、まがうかたなき名作ですね。第1巻のヘンリイ・カットナー「墓地の鼠」で想起したラヴクラフト作品はたぶんこれ。 

 ウィリアム・F・テンプル「恐怖の三角形」若林玲子訳(50)
 作者は若い頃はクラークやウィンダムとも交友関係があったイギリスのSF作家らしい(角書きに拠る)。たしかにSF作家らしく、超自然現象に因果的説明がある(三角形の角度)のが、ウィアードテールズ的には秀逸。五芒星形自体にアプリオリな聖性(もしくは魔性)を認めるありがちな設定でなく、その中に含まれた三角形の角度に着目する姿勢がよい。ただなぜその角度にそういう力があるのかはまったく説明されないんですが(^^;

 フランク・オーウェン「青の都」大瀧啓裕訳(27)
 作者は「架空の中国を舞台にしたオリエンタルファンタシーを書きつづけた作家」と角書きにあります。それはもとより最近流行の<架空中華ファンタジー>などとは比ぶべくもないまったき別物で、むしろダンセイニの中華版という雰囲気。これはよいです。ここで確認しましたところ邦訳は本篇を含めて3篇あるようです。捜して読んでみたいと思いました。

 ポール・アーンスト「奇妙な患者」三宅初江訳(38)
 精神病者の妄想的な固着行動と思われていたものが……。11ページ(20枚)のすっきりまとまった、そしてラストが決まったショートショートです。
 *掲載年はhttp://homepage1.nifty.com/ta/sfe/ernst.htmによる。  
 
 アーサー・J・バークス「影のつどう部屋」大瀧啓裕訳(36)
 テレビドラマになんかによくありがちな、シーンそれぞれは迫真的なんですが、それを繋ぐストーリー(因果関係)にまったく配慮がなされていないもので、私は退屈しました。
 
 ハロルド・ロウラー「夢を売る女」河原ゆかり訳(53)
 12ページのショートショート。とちゅうまではよかったのですが、私はオチが違うと思った。これではオチになってない。つまりそれまで語られてきたというか、暗示させられてきたところの、亡き妻を思う主人公と当の亡き妻(出産時に死んだ)の気持ちの隔たりが、最後のオチで(一体誰の子かということも併せて)明らかにされるべきなのに、このオチはこれまでのいきさつとは無関係な恋情が突如挿入されているだけ。

  ポール・S・パワーズ「不老不死の秘薬」植木和美訳(26)
 不老不死の薬というよりも幽体離脱の薬ですね。ただし離脱中は肉体は仮死状態(他人が見たら死体そのもの)。幽体離脱中に蘇生してくれるはずの人が殺されてしまう、という展開はよくあるパターンかも。ここからもうひとひねりがいるのでは?

 ロバート・ブロック「僧院での饗宴」大瀧啓裕訳(35)
 当時17歳のブロックの、輝かしきウィアードテールズデビュー作品は、10ページのショートショート。むしろ掌篇といいたい文体に凝りまくった硬質中世ファンタジーでした。この手の掌篇としては完成されたレベルと思いました。よかった。

 ジャック・スノー「毒」三宅初江訳(28)
 7ページのショートショート。恋人(?)に酷いことを言われたらしい夢見る草食系男子が薬局で求めた青酸カリで自殺するのだが、飲んでから現世への未練たらたら浮かんできて死ぬのが怖くなり吐き出そうと水を求めるが、なぜか出口がなくなっており部屋中水を求めてあがき回る。と、額縁の風景画のなかの小川のせせらぎに気づき……という話なんですが(結局死んでしまう)、実は薬局の店主は気づいていて水にアーモンドのエッセンスを溶かした贋物を主人公に渡していたのでした。どうやって死んだのかと店主は首を傾げる、という実に皮肉な話。私の解釈は夢見る力があれば偽薬でも死ねるというもの(^^ゞ

 リチャード・マティスン「スローター邸の惨劇」東谷真知子訳(53)
 原題はSlaughter Houseということで、屠殺場の意味もありそう。編者によればマティスンはウィアードテールズに「遅れてきた作家」で、実際本篇を含めて2篇しか発表していないとの事。「生まれるのがもうすこし早ければ、マティスン流の怪奇小説が<ウィアード・テイルズ>をにぎわせていたにちがいない」(262p)と惜しんでいます。しかし私は、マティスンの作風はもはやウィアードテールズとは別種のもので、同誌独特の「古臭さ」とは截然と繋がっていないように思われます。そういう意味で本篇はまさに典型的な「モダンホラー」、「ノンストップホラー」の体裁を整えており、わたし的にはマティスンは次世代の作家、ウィアードテールズには「早すぎた」作家だったのではなかったか、そのように感じました。

 以上、刊行されている青心社文庫版の怪奇幻想小説シリーズ『ウィアード』全4巻読了となるのですが、カバーの刊行予定を見ますと、このシリーズ、第1期として全五巻の刊行が予定されていたようです。つまり最低でももう1巻未刊行のまま残されているということです(たぶん原稿も整っているはず)。同文庫が並行して出し続けている『クトゥルー』シリーズが、何年も間を空けながらも発刊されており、だとすれば『ウィアード』の方も期待できないということもないのではないか。あまりにも惜しくてそう思わずにはいられません。なんとか発刊にこぎつけて欲しいものですね。
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真紅の城砦

2009年04月09日 21時30分00秒 | 読書
ロバート・E・ハワード新訂版コナン全集5真紅の城砦』中村融訳(創元推理文庫09)

 第4巻より1年半ぶり、待望の第5巻がようやく出ました。「30代後半から40代前半にかけてのコナンの冒険を描いた中篇3篇」(解説)を収録しています。うち後ろ2篇はアキロニア王に成り上がったコナンの話です。

 「黒い異邦人」(生前未発表の真筆)
 解説によればボツ原稿らしい。どこでボツられたか記載がありませんが当然ウィアードテールズでしょう(後にディ・キャンプによる改稿版あり。ハヤカワ文庫版収録)。でもなぜこれがボツなのか? ひょっとしてWTの主要読者にはプロットが複雑すぎた? というのは馬鹿にしすぎですか(汗)
 たしかにストーリーは並行的というか集中的ではない。同じ太さのストーリーが2本並列しています。1本はヴァレンソ伯爵に黒い異邦人が復讐を果たす話。もう1本はピクト人の曠野に眠るトラニコス財宝を、発見者のコナンが同じくその宝を狙っていた二人の悪党を騙して頂戴しようという話で、両方の話は原則交わることはない。ただ舞台を同じくするだけなのですね。でも2本の短篇(そのうち1本はコナンとは無関係)を縒り合わせて1本の中篇に仕立て得たのは著者の卓越したストーリーテリングの技倆ともいえると思います。

 「不死鳥の剣」(ウィアードテールズ1932/12)
 本篇はコナンシリーズ第1作。創元文庫既刊の同タイトルのヒロイックファンタジーアンソロジーに収録されていたもので、その記載がないのは不審。というわけで再読なんですが、意外にもいまいち筆に伸びやかさがなかった。というか著者の当初の狙いは一種の硬質ファンタジー的な世界だったのかも、とふと思いました。ところが、それが好評で続編を書きついでいるうちに、コナンシリーズのスタイルが確立していったのではないでしょうか。

 「真紅の城砦」(ウィアードテールズ1933/1)
 1932年12月号所載の前作が好評だったのでしょう、早速翌月号(1933年1月号)に掲載されたのが本篇。つまりコナンシリーズは、まずアキロニア王としての物語が最初に作られたのですね。若き日の野蛮人コナンの物語のほうが生き生きとしていて私には面白いと感じられるのですが、これはシリーズとして書き慣れていった、その円熟の筆力が若きコナン物語に発揮されたということなのかもしれません。最初、私はコナンには王位は似合わないから面白さが減じているのかな、と思ったのですが、どうやら執筆順の問題であったようです。

 あと、〈資料篇〉として「ハイボリア時代の諸民族に関する覚え書き」、「西方辺境地帯に関する覚え書き」、「辺境の狼たち(草稿)」を収録。
 ということで、いよいよ残すは唯一の長篇「龍の刻」のみ。この作品は既に30年以上前にハヤカワ文庫版で読んでいるのですが、当時はさほど面白いと感じなかったような曖昧な記憶があります。読解力が伴っていなかったからかもしれません。それゆえに尚一層再会の時が楽しみで仕方ありません。冀わくは可及的速やかなる刊行のなされんことを!
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ウィアード3

2009年04月08日 20時20分00秒 | 読書
H・P・ラヴクラフト他怪奇幻想小説シリーズウィアード3』大瀧啓裕編(青心社文庫90)

 先に読んできた2冊は、おそらくは編者が腕によりをかけて<ウィアードテールズ>から選りすぐった、いわば「どこに出しても恥かしくない(笑)」傑作群が収録されているようです。シリーズも第3巻にいたって、ようやく(そういう作品も出し尽くしたのか)、しだいにいかにもパルプマガジンらしい(?)作品が雑じってきました。つまりある意味扇情的であったりグログロであったり、要するに「バッチイ(?)」感じをぷんぷんさせているあからさまな小説群ですね。

 H・P・ラヴクラフト「壁のなかの鼠」大瀧啓裕訳(24)
 著者には珍しくイギリスが舞台。主人公の祖先である第11代イグザム男爵ウォルター・ド・ラ・ポーア(名前からしてノルマン領主ですね)は居館で係累を皆殺しにした嫌疑を晴らしもせずヴァージニアへと逃れ、その地で一家をなす。それが1世紀を経る頃にはディラポア家として知られるようになっている。主人公のディラポア家当主は跡継ぎの息子を第一次大戦で失いディアポラ家は主人公の代で断絶することとなる。そこで主人公は一念発起し大戦中に息子の同僚であった友人が奇しくもイグザムの地を管理している家のものであったことから、旧所領を買い取り、廃墟と化していたイグザム小修道院を改築し移り住む。ところが夜な夜な鼠の大群が壁の中を上から下に向かって走る音を不審に感じ、調べるとからくり扉が発見され、その向こうには広大な――有史以前の古きものに通ずる――地下空間が隠されていた……
 ラストは例によって曖昧模糊としており不満。設定は申し分ないのに(ーー;

 クラーク・アシュトン・スミス「柳のある山水画」大瀧啓裕訳(39)
 『イルーニュの巨人』所収の「柳のある風景」と同作品。

 ロバート・アーヴィン・ハワード 「夜の末裔」三宅初江訳(31)
 著者のよく使う手で、現代の主人公が、何らかの理由で古代の先祖につかのま一体化する話。これはもう著者の人種差別感がもろに出ていますね。バッチイ(^^;。 ピクト人以前にいたとされる矮人種――モンゴル族ではありえないとあらかじめエクスキューズされていますが――モンゴル系黄色人種の特徴を極端に歪曲強調しているとしか思えません。もっとも著者は白人と敵対するときのピクト人は極端に差別的に描くのですが、そのピクトを主人公にして描く作品もある。プロットの要請にしたがって書き分けており、実は冷静な人種観を持っているような気もしないではない。本篇もその伝でとらえることが可能で、古代から現代に戻った主人公の狂気の所業から、友人たちは当の標的となった人物を逃がすように行動し、主人公は監禁されてしまう。むしろ<ウィアードテールズ>の「主要」読者層に阿った筆法だったのではないでしょうか。 

 マンリイ・ウェイド・ウェルマン「謎の羊皮紙」大瀧啓裕訳(37)
 よく出来たショートショート。発売日でもないのに<ウィアードテールズ>を売りに来た老人から購入した当の雑誌には、古い羊皮紙が挟み込まれてあり、そこにはアラビア語が書き込まれていたのだが、ひと言だけギリシア文字で書かれていて、それは「ネクロノミコン」と読めた……

 デイヴィッド・H・ケラー 「地下室になにが」若林玲子訳(32)
 11ページのショートショートなのだが形式が面白かった。
 小さな家に不釣合いな地下室があって台所と扉で繋がっている。どうやら地下室の地上部分にあった館がなくなった後に小さな家を建てて地下室と繋いだらしい。誰もその地下室の奥のほうまで検分していないという設定。
 その家を買った夫婦に赤ちゃんが出来る。この赤ちゃんが異様に地下室を怖がり、少年になっても治らない。親が精神科医の見せると、逆療法で地下室の扉を閉まらなくして台所にしばらく閉じ込めたら、その恐怖が何の根拠もないものだと判るだろうとの診断。で、親がそれを実行し、子供を閉じ込めると……

 という話。読者の方は(とりわけウィアードテールズの読者は)、地下室に古き何かがいて、赤ちゃんの鋭敏な感覚がそれを捉えているんだろうと先回りして気づいているわけです。知らないのは作中の両親と精神科医だけ(^^;
 そして、何かが起こるのですが、精神科医が逆療法と言い出した瞬間に読者はラストを予想して戦慄しているわけです。で、そのラストに向かって粛々とストーリーが進んでいく。この間のサスペンスが本篇の肝。

 これって映画やドラマの常套手段ですが、ショートショートでは珍しいのではないか。ふつうはラストでオチがついて、気がつかなかった真相に読者が気づいてアッと驚く、という展開ですよね。

 この(オチショートショートとは逆の)進め方が面白かった。
 本篇では(ウィアードテールズですし)最後まで(残虐にも)描写されてしまうのですが、ショートショートにこだわるならば精神科医がこうしましょう、というところで終わらせるのも手ではないでしょうか。どうでしょうか(^^;

 シーベリイ・クイン「奇妙な中断」大瀧啓裕訳(36)
 本篇もバッチイ話。主人公は去勢され(次第に女性化していき)、恋人は主人公の目前で犯される。これでもかというパルプマガジン的残虐描写が続いて、知的な読者は目を回してしまいますが、下世話に面白いのは間違いありません。私は一気に読んでしまいました(^^;

 ミンドレット・ロード「裸の貴婦人」児玉喜子訳(34)
 編者は「洒落た佳品」としますが、どこが?(笑)
 これこそ読者の窃視趣味に迎合したバッチイ佳作です。

 オーガスト・ダーレス「吹雪の夜」大島令子訳(39)
 雪の山荘もの。毎年、雪が積もるとあらわれる人影。かなりストーリー的に無理がある。

 ハネス・ボク「邪悪な人形」河原ゆかり訳(42)
 わら人形(蝋人形ですが)の呪法に対抗する白魔術がユニークで面白い。

 オスカー・クック「特別料理」植木和美訳(30)
 陰惨なトールテール。

 ジャック・スノー「夜の翼」大瀧啓裕訳(27)
 ファンタジックなショートショート。それ以上でも以下でもない。

 ソープ・マクラスキイ「六〇七号室の女」河原ゆかり訳(37)
 展開に無理があるのだが、下品で面白い。実際のところ<ウィアードテールズ>(のみならずパルプ誌一般)の誌面を飾った作品の大半はこの手の話だったんでしょうね(^^ゞ
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黒の碑

2009年04月04日 22時14分00秒 | 読書
ロバート・E・ハワード『黒の碑 クトゥルー神話譚夏来健次訳(創元文庫91)

 本書の構成は、3篇の詩を劈頭と真ん中と掉尾に配することで小説が二つの群に分けられています。仮にⅠ群とⅡ群とします。
 *( )内の初出情報は、http://homepage1.nifty.com/ta/sfh/howard.htmによる。

――――   ――――   ――――

・「死都アーカム(詩)」 (Weird Tales 1932/8)

Ⅰ群
 「黒の碑」 (Weird Tales 1931/11)
 「アシュールバニパル王の火の石」 (Weird Tales 1936/12)
 「屋上の怪物」 (Weird Tales 1932/2)
 「われ埋葬にあたわず」 (Weird Tales 1937/2)

・「聖都 -メッカ-の壁に静寂降り(詩)」 (1987)

Ⅱ群
 「妖蛆の谷」 (Weird Tales 1934/2) James Allison Series
 「獣の影」 (1977)
 「老ガーフィールドの心臓」 (Weird Tales 1933/12)
 「闇の種族」 (Strange Tales of Mystery and Terror 1932/6)
 「大地の妖蛆」 (Weird Tales 1932/11)
 「鳩は地獄から来る」 (Weird Tales 1938/5)

・「顕ける窓より(詩)」 (Weird Tales 1932/9)


――――   ――――   ――――

 Ⅰ群には、無名祭祀書とかフォン・ユンツトとかクトゥルー神話体系に欠かせない名前が出てくるだけでなく、小説としての形式も、最終的に人間は圧倒的なコズミック・ホラーの前になすべくもなくひれ伏すという、いわゆるラヴクラフト的な構造をとる作品が集められています。

 「この短篇集、純然たるクトゥルー神話譚はマニア垂涎のものであろうし、ハワードの本領が現れた作品群もある」(357p)という解説者の言葉を借りるならば、Ⅰ群は、いわゆる純然たるクトゥルー神話譚ということになるでしょう。

 ところが、これが私にはまったく面白くなかった。ハワードのよき面が殆ど影をひそめているように感じられてならなかったのです。いわば両手両足を縛められたハワードの巨体が、そこにごろんと転がされている。そんなイメージすらもちました。
 「これらの作品群は、ハワードではない!」そう感じました。で、その理由もまた、(解説を読むことで)すぐに明らかになった。要はⅠ群の作品は「模倣」だったのです。

 解説者は言います。「この作品を読むと、<ラヴクラフト・スクール>の授業風景が浮かんでくる。(……)こうして出来上がった最初のレポートが「黒の碑」である。少なからぬ生徒を抱えるこの学校で、ハワードがまぎれもない優等生であったことは、この力作を読めば明らかであろう。(……)師の作風を懸命に模しているのがほほえましい」(355p)

 解説者は明示的に書いていませんが、言外に示しているのは、Ⅰ群がハワードのオリジナリティとはある意味無関係な、いわゆる卒業制作に他ならなかったということなのです。
 なるほど、だから私にはハワードらしさが感じられなかったのですね。引用した「マニア垂涎のものであろう」という言葉も、穿って読めばマニアにしか価値がないものだと言っているようにも取れるではありませんか。

 たしかにⅠ群は、クトゥルー神話体系の設定を好むもの(あるいはラヴクラフトを好むもの)には「垂涎の」好物なのかもしれません。しかし一般的な小説としては、「死んだ」小説もしくは小説の「剥製」とでもいうべきものであった。

 それはⅡ群を読めばよく判るのでした。

 Ⅱ群は、はっきりいってⅠ群と比べて格段に面白かった。これぞハワードという感じがしてとても楽しかった。まさに「ハワードの本領が現れた作品群」だったわけです。ハワードの本領は、つまりは「怪物退治」なのであって、「コズミック・ホラー」とは元来相容れないものなのだと思うのです。基本的にハワードの作品は「人間賛歌」といえるのではないでしょうか(白人賛歌の面もなきにしもあらずですが(^^;)。

 Ⅱ群の作品は全て面白かったのですが、たしかに(解説者がいうとおり)「鳩は地獄から来る」が、間然するところなく一般的な「怪奇小説」として堂々たる傑作であると頷かされます。が、やや正々堂々としすぎており、私の好みから言うと、「バッチさ」(笑)の成分に乏しい。

 その意味で、やはりピクト人やゲール人やブリトン人が相抗争するローマ(もしくはそれ以前の)時代のブリテン島を舞台とする「妖蛆の谷」、「闇の種族」、「大地の妖蛆」などが、いかにもヒロイック・ファンタジーのハワードらしくてよかった。とりわけ古きものと戦って相打ちして果てる「妖蛆の谷」は、ラヴクラフトには考えられない展開で、これぞハワードのオリジナリティではないかと楽しみました。

 解説は倉阪鬼一郎。いちいちが実に的確でもっともで、これぞ巻末解説の鑑ではないか。ここや掲示板を読まれている方はご存知のように、最近、海外SF本の巻末解説の杜撰さを嘆くことが多かったのですが、久々に感心した解説文でした。巻末解説文とはすべからくかくあるべしと強く感じた次第です。
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