レイモンド・チャンドラー『かわいい女』清水俊二訳(創元推理文庫59)
――人間が生活を生存に、野心を保証に交換したときに生れる生物なのだ。(250p)
『黒と赤の潮流』の伝でいうならば、(まあ言わずもがなだが)マーロウが<ハードボイルド>を体現し、そのマーロウが<触媒>となって周囲の人物を(いっとき)変化させる、という同じ物語(瀬名のいうそれではなく形式としての物語)を、マーロウものは何度も変奏しているのだといえる。
ただ福田固茹とは違って、チャンドラーのそれでは、<ハードボイルド>が眩しすぎて――もしくは立場の拘束が強すぎて――それから目を背けてしまう輩も描き込んでいる点だろう。実際マーロウの存在は立場に強く縛められているものには、自らの卑しさを自覚させられて、かといってどうしようもなくて、苦しいだけだろう。ラストの顛末は、マーロウが眩しすぎた結果といえなくもない。いずれにしても作中に「悪人らしい悪人」という存在は一人も登場しないのはたしかです。
本篇には3人の女が登場しますが、どの女が「かわいい女」だったのか? 一概にはいえないと思いますが、ラストで心中する女優と、化粧ッけのない最初の依頼人の女とは、登場時と退場時でその役柄が入れ替わってしまっていることに注意。これは凄い。ここまで描き込んだチャンドラーは、やはり福田和代よりも一日(二日? 三日?)の長があります(^^;。
マーロウという<ハードボイルド>は、(現実にはありえないだろう)完璧な(しかしかくあるべき)「人間」像であることで(もっとも野村監督並みに際限なく愚痴りつづけるのですけど(^^;)、ほとんどファンタジーなんですが、そのファンタジーの照射が、逆に世界の「影」の部分をくっきりと際立たせる。つまりファンタジーがリアリティを保証している。リアル世界の人間はマーロウのようには生きられないのです。
そういえば福田作品に対するネット書評に、若い主人公が「これだけの危険な状況に自ら飛び込んでいくのはリアリティに乏しいように思える」という感想がありましたが、それをいうならマーロウの存在はもっとリアリティがないといえる。ファンタジーなんだから当然なんですね。
――人間が生活を生存に、野心を保証に交換したときに生れる生物なのだ。(250p)
『黒と赤の潮流』の伝でいうならば、(まあ言わずもがなだが)マーロウが<ハードボイルド>を体現し、そのマーロウが<触媒>となって周囲の人物を(いっとき)変化させる、という同じ物語(瀬名のいうそれではなく形式としての物語)を、マーロウものは何度も変奏しているのだといえる。
ただ福田固茹とは違って、チャンドラーのそれでは、<ハードボイルド>が眩しすぎて――もしくは立場の拘束が強すぎて――それから目を背けてしまう輩も描き込んでいる点だろう。実際マーロウの存在は立場に強く縛められているものには、自らの卑しさを自覚させられて、かといってどうしようもなくて、苦しいだけだろう。ラストの顛末は、マーロウが眩しすぎた結果といえなくもない。いずれにしても作中に「悪人らしい悪人」という存在は一人も登場しないのはたしかです。
本篇には3人の女が登場しますが、どの女が「かわいい女」だったのか? 一概にはいえないと思いますが、ラストで心中する女優と、化粧ッけのない最初の依頼人の女とは、登場時と退場時でその役柄が入れ替わってしまっていることに注意。これは凄い。ここまで描き込んだチャンドラーは、やはり福田和代よりも一日(二日? 三日?)の長があります(^^;。
マーロウという<ハードボイルド>は、(現実にはありえないだろう)完璧な(しかしかくあるべき)「人間」像であることで(もっとも野村監督並みに際限なく愚痴りつづけるのですけど(^^;)、ほとんどファンタジーなんですが、そのファンタジーの照射が、逆に世界の「影」の部分をくっきりと際立たせる。つまりファンタジーがリアリティを保証している。リアル世界の人間はマーロウのようには生きられないのです。
そういえば福田作品に対するネット書評に、若い主人公が「これだけの危険な状況に自ら飛び込んでいくのはリアリティに乏しいように思える」という感想がありましたが、それをいうならマーロウの存在はもっとリアリティがないといえる。ファンタジーなんだから当然なんですね。