チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない

2006年01月04日 16時34分15秒 | 読書
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない(集英社新書、05)

 タイトルに感応して読み始めた。非常に大雑把な記述なのだが、それゆえ「経済」について原義に立ち還り、「体験」的に再考する部分はとてもよく判る。
 無駄を省くという意味の「経済」が、いまや「不経済」という単語にしか残っていないとして、「我慢」(現状に抗する力)の消失がいまの日本社会を招来したというのが著者の見解。

 現状に抗する力が失われて、個人が「現状に追随する者」となっているのは同感なのだが、その「我慢」が、状況によってではなく、「主体的」に喪われたとする説明は、私にはやや疑問。

 やはりまず「現状」である「欲望というフロンティアの発見」という市場資本主義の最終進化形態の完成が先にあったと考える。 
 そしてそれを個人に内面化したのは「テレビ」だろう。
 その意味で本書には、「テレビ」の影響に関する記述が皆無だ。このあたりは片手落ちかも判らない。

 日本経済が開発した欲望のフロンティアは、個別的には「女」であり、「若者」、さらには「オタク」etcであったわけだが、それをさらに一般化すれば「オヤジ」以外の全てという指摘はとても面白い。

 「オヤジ」を唯一フロンティア化しうるのは「過去(ノスタルジー)」なのだそうだが、それは厳密には「オヤジになる前の過去」だからで、「オヤジ」そのものは市場化できない。それは「オヤジ」たち(具体的には30年代に幼少期を過ごした団塊の世代)が「欲望」で生きる世代ではなく「必要」で生きる世代だからというのも納得する。

 これはポスト団塊の世代を最初の「おたく」世代とした大塚英志の所論と対応するだろう。
 八つぁん熊さん相手にご隠居が説をたれるような内容だが、聴いていてとても面白いご高説ではあることは間違いない。
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