チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

「感動」禁止!

2006年01月08日 21時30分34秒 | 読書
八柏龍紀『「感動」禁止 「涙」を消費する人びと(ベスト新書、06)

 年始早々出版されたばかりの本。
 スポーツ番組などで、ここ数年よく聞くようになった「感動をありがとう」はおかしいのではないか、と著者は言う。 「勇気をもらいました」なども同類。
 感動は内発的にするもので、勇気はわくものではないのか、と著者は首を傾げる。
「人びとは、あたかも自らの感情や判断は捨て去ったかのごとく、均一的な「感動」や「涙」を高濃度に消費している」(8p)

 著者はその変質を70年代、団塊の世代以降の現象とみる。すなわち80年代以降日本を圧倒的に覆い尽くす消費こそ美徳という均質化圧力にもとめるのだ。
 すなわち高度消費社会化によって価値観の基準が「マネー」のみに均一化したため、自己のアイデンティティは「所有」によって図られるようになる。

 ところがこの「所有」物は、金銭によって所有するもので、個人の内面と無関係だから、「私」は「他者」の視線によってのみ規定されることになる。
「いいかえるなら「ブランド」によって、「あなた」という個性が生まれてくる」(100p)

 これはいわば「欲望のフロンティア」開拓が極限にまで進んだ果ての事態といえるだろう。
 そういうことの積み重ねは、やがて自分の「感情」すらも、「外部」に根拠を求めるように進んでいくことは容易に予想できる。極端な言い方をすれば自分の内部にもはや感情さえ内発しなくなってしまうというわけだ。

 その結果が、近年よく言われるコミュニケーションが取れないという事態であろう。コミュニケーションとは大袈裟にいえば「考え」のキャッチボールなのだが、内面に「考え」が内発していなければ、そりゃキャッチボールも出来ない道理である。

 結局著者も書くように、「大量でしかも高度化した消費社会の進展のなか、チョムスキーの言葉を借りれば、人びとは「一個の原子のように孤立した」消費者に仕立てられてしまった」(220p)
 その結果、人びとは根本的に受動的な「観客」としてしか存在できず、スポーツも能動的には感動を内発させず、感動は与えられるものとなったし、他者とのコミュニケーションは内発的に成立せず、他者の視線を受け入れ再現する、コピー&ペーストしかできなくなってしまったといえるのではないか。
 
 学生の論文が、実はネットからのコピペだったというのはよく聞く話。しかしやっている本人は全然悪意も悪いことをしているという自覚もないはず。なぜなら内面は、もともとその「自然状態」が、他者の言説で埋められている、あるいは東浩紀がいうようにデータベースダウンロード型となってしまっているのだから、彼にすればごく当たり前のことをしたに過ぎないからだ。

 こういう事態に対して、著者は結論として「主体性の回復」を期待するのだが、それは甘いと思う。もともとこういう事態を招来したのは、資本主義の原理そのものであることは明らかではないか。
 なぜなら(下の『「資本」論』にもあったと思うが)資本主義を根本的に成立させている「私的所有」と「交換(市場)」は、主体同士が離れて(空間を空けて)存在することに根拠付けられているのであり、資本主義の進化形態たる消費資本主義社会では主体間の距離は限りなく離れてしまうことにならざるを得ない。
 それを埋めるのは他者の視線を踏襲すること、「みんなが笑うところでは、速攻で笑い、みんなが怒るところでは、ダッシュで怒る。仲間からはぐれないよう、オレだけへんじゃねえよねとふるま」(235p)うしか、実際のところありえないのかもしれないからだ。

 本書の記述は、やや雑駁なところがあるのだが、啓発されることも多く、以上のようなことを考えさせてくれた。
コメント
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