チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

疲れた社員たち

2014年05月18日 12時50分00秒 | 読書
眉村卓『疲れた社員たち』(双葉文庫14、初刊82)読了。

 本書は短篇集で、まさにタイトルどおり年齢も境涯もさまざまな<疲れた社員たち>が描かれています。ただ全8篇中半分の4篇が、50歳前後の社員を主人公に据えた話であるのは特筆すべきでしょう。

 実は読了後、なんとなく全ての作品の主人公が50歳前後のように錯覚していました。この感想文を書こうとパラパラと見なおしていてそうでないことに気づき、自分の錯覚にちょっと驚きました。
 つまりそれだけ、上記50代を主人公にした作品の印象が強かった、というよりも、その4篇に「共通する特徴」に、強く印象づけられたということだろうと思います。その理由としては、私がいまその年齢だから、ということがあるでしょう。

 でもそれだけではなさそうです。やっぱりこの4篇と、それ以外の(比較的若い主人公を扱った)残りの4篇とでは、「疲れた」感の質が違うように、私には思われます。著者の、主人公を見つめる視線にあきらかに温度差を感じてしまうのです。

「ふさわしい職業」の主人公は、50過ぎの、出世コースから外れたサラリーマン。体調が悪く病院に行ったら即入院を言い渡される。なんとか言い繕ってその場を逃げ出し、藁にもすがる思いで友人の病院を訪れるも、そこでも入院を言い渡され、観念して入院する。が、どうやら手遅れらしく、友人が奇妙な提案をする。もし手術の甲斐なく死亡した場合、冷凍冬眠実験の被験者となることを了承してくれないか、未来の医療技術で完治する可能性もあるから、と。
 どうでもよくなって了承した主人公、目覚めるとそこは130年後の未来だった……。

 未来で、主人公は健康を回復しますが、そこでの生活は、いわば生きている考古学資料、ある意味動物園の猿のそれだったのでした。しかし主人公は、今の生活、以前のそれよりも「ずっとまし」だ、とつぶやくのです。

 このつぶやきの中には、当然自虐も入っているわけですが、ラストの一行を勘案すれば、やはり本音であることが読み取れると思います。
 従来の著者の作風ならば(ショートショートは別にして)かかる境遇への安住は、「まやかし」として否定される筋立てになるのではないでしょうか。
 それをこのようなゆくたてにしたところに、(ちょっと先走りますが)私は当時40代後半だった筆者が、自分がこれからそこに入っていくところの、「50代」という年齢集団に対して、何を感じていたのかが、表現されているのではないかな、と思いました(後述)。

「知命・五十歳」の主人公も、表題から分かるとおり知命の50歳。出世コースとは無縁で、今度の異動でも平社員に据え置かれたばかりか、自分より若い連中が主任や係長になっていた。
 不機嫌な顔で馴染みのおでん屋で呑んでいたら、おでん屋の常連で、同様に不遇のまま定年をむかえたのだけれども特殊技能者ということで引き続き嘱託で雇われている男が、どうしたんだ、と声をかけてくる。この人物、主人公と似た境遇のはずなのに、なぜかいつも表情が明るいのです。主人公が、かくかくしかじかと愚痴ると……。

 男のアドバイスで、主人公は「現在の境遇をあるがままに受け入れてしまうことで発現する能力」を獲得します。そしてその結果「たのしく」生きられるようになるのでしたが……。

 本篇も構造は上の作品と同じで、逆説的な結末にされています(と私は思います)。やはり著者の「50代」観が、このような結末を選択させたのではないでしょうか。
(と書いてきて、ふと「暗い渦」も同じ結末であることを思い出しました。確認したら主人公のイマイは40過ぎという設定。そして本篇執筆時の著者は丁度30歳でした。ふーむ)。

「授かりもの」の主人公は50手前。歳を取るにつれ時間の流れが早くなる(主観時間が遅くなる)ことは、ある年齢に達したものは誰もが知る事実。
 ところが本編の主人公は逆で、なぜか主観時間がまた早くなり出し、若い連中以上の思考速度を獲得(回復)する(但し体がついてこない)。それは社会的会社的に有利に働くものと思われたのだが……。

 せっかく獲得した超能力が、ゲームセンターとか昼休みの将棋とか、そんな瑣末なことにしか適用できないという、しかしある意味、社会集団的には必然かもしれないオチが、(主人公と同世代読者である私には)がっかりさせられると同時に、納得もさせられるのでした。

「社屋の中」は前三作と比べると構造的にも少し異色で、話者である「ぼく」は、ほぼ視点人物の位置づけでしかなく、真の主人公は「ぼく」の元上司です(年齢の記述はないが話的に50代でなければ合わない)。

 会社の近くで、偶然、うしろからポンと肩を叩かれ振り返ったら、元上司だった。営業所長で失敗して本社に戻され、窓際族の大部屋入りを命じられたと聞いていたのに、思ったよりも元気でいきいきしている。あまつさえ、お茶に誘いたいのだが近頃忙しいので、と大股に去っていく後ろ姿に、「ぼく」はちょっと悲しくなります。忙しい? 窓際族の大部屋付きで忙しい? しかし元上司は本当に忙しかったのです。たぶん……。

 窓際族の課では、タイムレコーダーで出退勤時間がきちんと打刻されていれば、その出退間の時間は、別に課の部屋にいなくてもなんら不都合はない、という記述に、膝を打つとともに、これにもなんとなく(同世代として)がっくりもしてしまうのでしたが、本篇は(むろん元上司の作り話の可能性は残されていますが)、逆説ではない結末なので、共感的に読了できました。本集中のマイ・ベストワン。

 残りの4篇は、入社したての新人から3、40代くらい会社員が主人公で、これらは上記4篇のような主人公の態度への違和感(?)はあまり感じず、いかにも眉村卓の小説らしい作品世界で、楽しめました。

「まぶしい朝陽」の主人公は、「3丁目の夕日」的な過去に逃げ込むナルシシズムを嫌悪しますし、「従八位ニ除ス」の新人は、最初違和感を持った会社の体質に、いつの間にか馴染んでしまう(それの当否は別にして)。

「思いがけない出会い」『眉村卓異世界コレクション』にも再録された秀作ですが、都度都度無限の可能性がひとつに確定しながら延びていくはずの時間線が、なぜか収束せずふたつの時間線に分岐したまま存在してしまったのを、ひとつに収束させようと(正しい秩序の回復)やってきた次元修正員を、ふたつの世界に分かれた二人の同一主人公が、協力して殺し、その結果二つの時間線はそのまま別々に延びていきます。

「ペンルーム」の主人公は、自由業者たちの共同仕事部屋での奇妙な体験の後、次のように少し変化します。
「自分の勤めている大企業がきわめて堅固であり、ひとつの世界ではあるものの、その世界はどうやら有限であり、一歩外へ踏み出したり放り出されたりすれば、そこはどうにも手のくだしようのない化けものの領域なので……そんなところに踏み込みたくないため、小さく小さく生きるようになりだしたことである。/そして彼が、必ずしもそうしたおのれに満足しているわけでないことも、またたしかなのである」(下線、管理人)

 こう見てきますと、主人公が50代の作品とそれ以外の作品では、私には有意な違いが感じられます。著者の50代へ向ける視線には、いささかどうも辛辣なものがあるのですね。
 ちなみに本書の初刊は82年。著者48歳です。初出誌の記載はありませんが、収録作品は、おそらく40代半ばから後半にかけて書かれたものでしょう。すなわち50代が指呼の間に迫ってきた、ということを意識し始めた時期の作品といえるのではないでしょうか。この事実はけっこう重要かも分かりません。

 一般的に言って、40歳台といえば、まかされる仕事も責任のかかるものになりますし、人生においても、社会的にも、最も充実する時期だと思います。事実、会社を実際に動かしているのは40代です。
 ところがそんなさなかにあって、ちらりと心をよぎるのが、自分もそのうち50歳だ、という怯えにも似た思いではないでしょうか。40来たりなば50遠からじ。10年なんか、あっという間です。

 40代にとって、50歳というのはどんなイメージになるのか。それはやはり(一握りの選別された者以外は)、後進の40代に道を譲って退場していくというイメージではないか。
 じっさい、(本書執筆当時はまだ少なかったと思いますが)最近はどの会社も50歳役職定年制が導入されています。そして大方の50代は、それに楯突くこともなく、従容として受け入れ、流されていくんですよね。
 まさに人生の最盛期である40代にとって、50代は先が見えて反抗心を失った情けない存在、と見えるのではないでしょうか。ただしやがて自分もそうなってしまうかもしれない存在とも。ある意味アンビバレンツな思いがそこにはあるように思われます。

 本書の4人の50代には、50歳を目前に控えた著者が感じていた、50代のイメージが表現されているように思われてなりません。そしてそれは、決して肯定的なものではありませんね(「社屋の中」の元上司は、ちょっと違うかもしれません)。
 少なくともこれら4篇には、自分はこんな風にはならないぞ、という暗黙の決意が隠されているように、私には感じられたのでしたが、どうなんでしょうか。

コメント
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