チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

たそがれ・あやしげ

2013年06月29日 16時28分00秒 | 読書
眉村卓『たそがれ・あやしげ』(出版芸術社 13)

 本書は、15枚前後の短い短篇21篇を収録したもの。「人生のたそがれに遭遇するあやしげな出来事集」です(^^;。収録全作品に、はしがき<T.Mいわく>が付されており、これが効いています。本書と同じく出版芸術社より8月刊行予定の短篇集『自殺卵』に収録が決まったことに対応して、当HPからの閲覧リンクを外した3作品(昨日の書き込み参照)と同系統の、いわゆる<私ファンタジー>ですが、それよりもさらに舞台が現実的(より私的)。とはいえまるっぽ著者自身の身辺雑記かといえば、当然ながら違う。作者と作品のいわく言いがたい距離(決して同一視してはいけない)、それに読者の注意を喚起することが<T.Mいわく>を付した理由であるようです。

「絵のお礼」 若い頃イラストレーター志望で、それがため二回転職し、そこで諦め三度目に入った会社で定年まで勤め上げた主人公。その会社で嘱託となるも、次の契約延長はなかった。ということで就活中だが、見通しは全く暗い。それでも主人公が明るいのは……

「腹立ち」 の主人公も定年退職した会社で嘱託になっている。で、近頃思うのは、自分が怒りっぽくなったこと。これは老人一般の現象らしい。その理由を著者は<T.Mいわく>で「自信の喪失」が主原因と分析します。たしかに。しかしそれは、現役バリバリで仕事をしていた過去の自分と比べて今のオレは……という自信喪失であって、事実と言うよりも多分に心理的な自己卑下というか縮み思考なんですね。でもそれも又過渡的な現象というべきであろう、と著者は言います。さらに老齢化が進むと……

「五十崎」 主人公はリストラされ就活中の六十男。なまじ技術を持っているという自負が災いしていて、このご時世それはちょっと甘すぎると、つてを頼って訪れた会社の経営者に諭される。消沈して最終の出たバス停のベンチにすわっていると、もうその乗り場には来ない筈のバスがやってくる。それは別世界でやり直しを賭ける者たちを送り届けるバスだったのですが……

「多佳子」 定年後、再就職がままならず年金生活者になっている主人公は、亡妻と結婚前デートした地方都市のお城が、大改修を終えたと知り、ふと訪れてみる。そこで主人公は、10年前になくなった筈の妻と出逢うが……

「新旧通訳」 年を取るにつれて若い人の使う言葉が分からなくなったと述懐する著者が、その苛立ち(?)を未来に向けて伸ばしてみた江戸長崎的な小品(>おい)(^^;。

「中華料理店で」 70手前の主人公は年金生活者。できる事なら働きたいが、その実そんな元気はない。という主人公が散歩の途中ふと立ち寄った中華料理店では、オバサン連中があたり構わず声高にしゃべっている。聞くともなく聞いているうちに、そういえばそんな場面を自分も昔経験した、と、子供の頃の記憶が戻ってくる……

「息子からの手紙?」 息子の育て方について妻と話した日の夕方、「自分は成功している、あなたがかくあるべしという縛りをせずやりたいようにさせてくれたおかげです」と知らせる「未来の息子」からの手紙が届く。それは結構なことながら、なぜそんな手紙が届いたのか? そう訝しむ主人公の脳裏に浮かんだ理由は……

「有元氏の話」 一応功成り名遂げて、70を目前にして事業を息子に譲った有元氏。しかし引退は早すぎたかと後悔が。そこへ「空っぽ」の青年を連れた謎の人物が登場。この肉体にあなたを満たしてあげるから、人生やり直して見ませんか。さて有元氏はどうしたのでしょうか?

「あんたの一生って……」 これはアイデアストーリーとしても秀逸。主人公は5年前、60近い年齢で、勤めていた会社が親会社の不振のあおりを受けて倒産。習得した技術がものをいって今の会社に拾ってもらうも、きのうリストラの通告を受けとる。そんな主人公を、見ず知らずの通行人が、バチバチ写真を撮り始め、なおかつ「あんたの一生ってなんだったんだろうな」などという言葉を放って通り過ぎていく。一体何だ? どうなっているんだ? 就活は依然として先が見えない。そんなとき、見知らぬ紳士が「あそこの売り場で宝くじを買いなさい。天が与えたチャンスですよ」とひとこと言って離れていったのだ。主人公は宝くじを買ったのか、買わなかったのか。買ったとしてその顛末は……!? 「世界のどんでん返し」がある傑作。

「未練の幻」 主人公は60を過ぎている。社用で、いま母校で教授となっている友人に面会に、久しぶりに大学を訪れる。と、前方から、これも同級生で同じく母校に残った(ただしこちらは人事の巡り合わせが悪いのか准教授の)Hがやってきてすれ違う。主人公を無視して。教授に面会してその話をすると、Hはこの4月から(この大学での先行きを見限って)別の大学に移ったはずだが、と首を傾げる。その後教授から、Hの姿が学内で何度か目撃されているとの話が。どうやら本人ではなく(また生霊でもなく)、大学に残存した「未練の幻」ではないかとなる。定年になる前に役員となった主人公も、社を去る日が来た。しかし主人公は何かにつけ用を作っては元の会社に電話している。なぜなら……

 ふう。ここまでで、収録21作品中前半の11編。このへんでやめておきます。
 かくのごとく、本書のテーマは「《老い》が遭遇するそれぞれの場面」といえましょうか。かなり統一性があり、連作集とみなせます。それもそのはずで、本集収録作品は、中高年が読者層の、とある業界誌に連載されたもの。
 それからもうひとつの特徴は、すべての作品が著者の身辺に取材されたものである点で、地元の読者なら(たとえN電鉄という風になっていても)どこが舞台となっているか一目瞭然。同じく主人公に著者が二重写しになってくることは、これは避けようがありません。
 もっともこれらの主人公を全面的に著者自身とすることはできません。「昔の団地で」では、著者は、本篇の舞台が著者自身がかつて住んでいた「阪南団地」がモデルであることを<T.Mいわく>で明言しています。が、それと同時に「この話の主人公の過去は作りもので、私のことではありません」とも。
 ですから外的容器をすべて著者と考えるのは危険なんですが、主人公の「内容」は著者とみなして構わないと思います。
 「まえがき」で著者は、「そして、これまた例によってだが、ここの一人ひとりについて、これはそうなっていたのかもしれない私なのだ」と言っています。
 たしかに本書の諸篇は、一種のオブセッションのようにも感じられます。著者も上記引用に続けて、「自分自身の一生が一回限りだとの気持ちが強すぎるのであろうか」と書いています。
 後半の諸篇になりますと、「一回限りであるが故、この一回ではない別の、他の、あり得たかもしれない、一回」に、よりこだわった世界が展開されます。一回限りであることが何とも無念な著者は、せめて想像の中ではと、虚構の世界を建てては壊し、別の人生を生き、生きておられるのかもしれませんね。
 ちなみに、「F駅で」の<T.Mいわく>で、「そういえば私は、無数のパラレルワールドが現実に出現してしまったという長篇の構想(どんな話なのか、まだ言いたくない)をあたためていて、しかしストーリーが錯綜しているので鬱陶しくて、まとめ切れないでいる」と書かれています。おお、これは期待しちゃいますねえ。イーガンとはまた一味違う《多世界小説》になること間違いなし。楽しみに待ちたいと思います(^^)

コメント
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