チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

カンガルー作戦

2009年05月12日 00時00分00秒 | 読書
豊田有恒『カンガルー作戦』(徳間文庫81)

 オーストラリア大陸には有力な哺乳類が皆無だったため、有袋類が適応放散し旧世界の哺乳類(有胎盤類)と相似な動物相を作り上げていることはよく知られています。これは(哺乳類が劣勢だった)恐竜時代に超大陸パンゲアが分裂し、その後オーストラリア大陸は他の大陸と一度も合体することなく孤立的に存在してきたからだそうです。他の大陸はすべて(後述する2例を除いて)、パンゲア分裂後に何度か離合集散しており(ユーラシアと北米はベーリング地峡で繋がった時期があった)、恐竜消滅後の地球制覇戦において、対他的に優勢な哺乳類(有胎盤類)はそのすべての大陸に行き渡り、かくして哺乳類(有胎盤類)の時代が到来したわけです。

 ところで、オーストラリア大陸以外に孤立的に存在した大陸がもう二つありました。南極大陸と南米大陸です。ただし南極大陸は、その後極点に移動してしまい、動物は死絶えてしまったのですが、残す南米大陸は、つい最近の200万年前にパナマ地峡で北米大陸と陸続きになるまで、孤立的に存在していたのでした。wikipediaの南アメリカ大陸の項にも「孤立大陸であったため、独特の動植物が進化し、固有種が多い」とあります。もうすこし押さえておきます。

・漸新世に「南アメリカ大陸は他の大陸と孤立して独自の生物進化を始める」(wikipedia:漸新世)
・中新世までは「孤立している南アメリカ大陸とオーストラリア大陸のみ、異なった動物相である」(wikipedia:中新世)
・そうして、鮮新世に「パナマ地峡が形成され」(wikipedia:鮮新世)、次のステージへとなだれ込むのですが、
「パナマ地峡が形成される以前の南アメリカでは、有袋類と鳥類の一部が生態系の上位を占めていたと考えられています」「オーストラリアの有袋類は適応放散と収斂進化(しゅうれんしんか)の好例として上げられる事が多く、「フクロオオカミは他大陸のオオカミのような存在であり、オオフクロネコは他大陸の野生ネコのような存在である」といわれますが、同様な現象は南アメリカでも起こっていました・・・」(→http://ecolumn.net/panama.htm

 つまり、現在のオーストラリア大陸みたいな状況であったようです。ところが、上述のパナマ地峡の形成により、北米大陸から、それまでに旧世界を席巻しつくしていた優勢な真獣類(有胎盤類)が南下を開始し、またたくまに、南米の有袋類世界を併呑してしまう。南米の固有の種は殆ど絶滅し、現在に後裔を残していません。
 ――以上が「この」時間線の事実。

 本篇は、パナマ地峡形成前に、南米大陸に旧世界の「霊長類」に相当する有袋類が発生し、進化をとげ、有袋人類ホモ・マルスピアリアが地球の覇者となった時間線が舞台となる多世界テーマもの。
 とにかく上記のような事実関係はきちんと押さえられていて、設定に手抜きはありません。その意味ではハードSFといえるでしょう。
 たしかにオーストラリア大陸の有袋類は適応放散しましたが、ただひとつ有袋サルは生まなかったのですね。この指摘は新鮮だった。
 本篇では南米大陸に生れたホモ・マルスピアリアが(時系列的に当然ですが)ホモ属の出アフリカよりもずっと早くパナマ地峡を北上して(出南米)全世界に広がっていき、おそらく人類は猿人、原人の段階で駆逐されたのでしょう。「この」時間線のホモ・サピエンスが親類筋であるネアンデルタール人や先行のホモ属をことごとく駆逐してしまったように。

 ところで本篇には、主人公の同僚として、オーストラリアのアボリジニの青年が登場するのですが、ほとんど出番がありません。
 アボリジニは、近年でこそ南インド系と確定されつつあるようですが(『稲作渡来民』にもそう記述されていました)、一部に<単一起源説>の例外、アジア発生のジャワ原人や北京原人の直接の進化種とする説があるそうです(たとえば→http://www.gondo.com/g-files/aborig/aborig1.htm)。これはトンデモかも分かりませんが、思考実験としてはありえる。で、著者はこの説も取り込もうとしたのではないか。ところが、あまりに問題ありと考え直した。その結果、このアボリジニの青年のポジションが宙に浮いてしまった。そういうことだったのではないでしょうか。

 ともあれ恐竜時代終焉後、哺乳類の時代開幕直前のありえたかもしれないいまひとつの進化史を見出した著者に拍手を送りたい! こういう、事実を素材にして非在の楼閣を構築するのがSFのひとつの醍醐味なんですよね。面白かった(^^)
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警察小説大全集

2009年05月05日 00時00分00秒 | 読書
 本誌は「小説新潮」平成16年3月臨時増刊号。以前に高村薫の評論を読むために購入し、購入時に当該評論は読んだものの、それ以外は読まないまま放り出してあったもの。
 まずは当のその高村薫「警察小説を解剖する」を再読するも、内容が、日本の警察小説に視野が限定されていることにいささか違和感を持った。なんとなく警察小説が「特殊日本的な要因によって自生したジャンル」であるかのように読めるものだったからだ。
 そうだろうか? 警察小説というジャンルも、他のミステリのサブジャンルと同じく、海外作品の影響のもとに出てきたものではなかったか? 警察小説を論ずるならば、まずはそこから始めなければ片手落ちなのではないかと思ったのだ。
 とはいえ本稿は、そもそも毎年名張市で開催されている乱歩便乗企画「なぞがたり名張」という講演会での講演の筆録なので、そもそも時間が限られた講演から起こした文章に、順を追った精密な論述を期待するのが間違っているといわれればそうかもしれない。

 私自身は、警察小説というジャンルについて次のように理解している。
 1)すなわち黄金期の本格ミステリでは頭脳明晰な警部や刑事が輩出した。けれども彼らは、その個人的な能力によって犯罪をあばいたのであって、その小説世界では、警察組織というものはまさしくあってなきがごとき存在であった(名探偵としての名警部)。

 2)ところが犯罪を裁く警察組織そのものの中に、犯罪が巣食っている場合がある現実が次第に見えてくる。その状況に対応したのがハードボイルド(私立探偵)小説だった。その小説世界には悪徳警官という存在が可視化する。つまりアウトサイダー(制外者)たる私立探偵を設定することで、とはすなわち視点を警察機構外に置くことで、悪徳警官を捉えることが可能になったのだ。とはいえ私立探偵が告発するのは、往々にして悪徳警官個人であった。私立探偵には組織としての警察機構内部の犯罪は視えないのである。

 3)私立探偵小説では、視点が外部にある関係上内部の組織犯罪はとらえきれない。そこで警察小説が登場する余地が生じる。警察小説で組織に立ち向かう警官は、内部に身をおくアウトサイダーといえ、その設定は私立探偵小説の弱点を補うものである。と書けばみなさんピンと来るでしょう。そう、内部に在るアウトサイダー(アウトサイダー・インサイド=制度内制外者)とは、とりもなおさず眉村卓の説く《インサイダー文学論》そのものであるわけです。 結局(ある種の)警察小説は、いわばミステリにおける「インサイダー論」の立場に立つものといえる。

 組織が組織であることにより不可避的に発生させざるを得ない犯罪があります。とりわけ警察機構は犯罪を取り締まる組織であるからその矛盾はより先鋭化する。犯罪組織としての警察機構の中で、警官が目の前の「悪」に立ち向かいつつ、背後の「悪」にも目をつぶらない、巻かれてしまわない、いわゆる制度内制外者としての《インサイダー》として活動するありさまを描く小説こそ、真の警察小説と呼べるのではないか――と「演繹的」に考えているのですがね(なお、警察機構以外での組織犯罪をあつかうのが「社会派推理小説」や「企業小説」となります)。

 ということで、以下順番に読んでいこう。

横山秀夫「暗箱」
 リアリティ溢れる重い秀作。ただインサイダー小説的な警察小説ではない。主人公の警察官のとった行動は、組織の一員であることが契機になってはいるが、基本的に警察小説ではなく「警官小説」というべき。

逢坂剛「昔なじみ」
 雑誌小説特有の頽落した作物で、いわゆる小説のための小説というべきものであり、これはつまらなかった。

井家上隆幸「警察小説を歩くための完全ガイド」
 本稿によれば「警察小説」には二つのパターン、ひとつは「名探偵としての名警官」、もうひとつは「警察の集団的な捜査活動を踏襲するチームプレーもの」があるということで、なんだ、私が考えていることなんぞハナから周知であったということか。
 で、後者の例として「87分署」が挙げられるのだが、公安に対する反権力意識という意味では「マルティン・ベック」シリーズを読むほうがいいみたい。それにしてもこれだけずらりとガイドされると、逆に引いてしまうのも事実。今さらなあ、という気にもなってきます。若いSFファンもこういう気持ちを味わっているのか知らん。

北芝健「元捜査官が読み解くリアリティー」
 タイトルどおり元捜査官によって個別作品のリアリティが検証される。本稿を読むと、どうも私の考える警察小説に一番近い日本作家は佐々木譲みたい。

今野敏「刑事調査官」
 プロット自体はリアリティある捜査活動が描かれているのだが、肝腎の「小説」が駄目。下手。いわゆる小説の剥製というべきもので、作中人物はまるで(役割を割り振られた)ゾンビのよう。女性の心理調査官(プロファイラー)という設定も浮いている。別にプロファイラーでなくても女でなくても話は一貫するのではないか。

佐々木譲「逸脱」
 その当の佐々木譲。やはり面白い。現実にあった北海道警稲葉事件の余波で、道警がまさに「お役所仕事的」配置転換をやった結果適所から適材が消えた状況を背景に、アメリカ小説的な地方都市の澱みが浮かび上がる。結末が偶発であるのは弱い。私は殺された子供の母親の復讐かと思ったのだが。それでは「小説っぽい」ということか。

柴田よしき「大根の花」
 いかにも女性作家らしい心理を読む推理が面白いのだが、これはラストがいかにも作り物めいていて(小説ぽくて)やや興ざめだった。

 ――ちょっとひと休み。ここまで読んできてつくづく「日本の警察小説は暗い話ばかりだなあ」と感じました。それに「小さい」。ちょっと満腹してきた。思うに、私は犯罪捜査が結果的に「巨悪」を暴いてしまうような、「スッキリする」大きな話を読みたいんでしょうな。

貫井徳郎「ストックホルムの埋み火」
 <ネタを割るので注意>

 最初、何でスウェーデンなんだろうと訝しく思ったのだが、なんと、あのベックさんの息子の話なのだった。それはなかなか意外感が効いてよかったんだけれど、肝腎の内容は、パズラーの造りで、しかも食傷しきっている叙述トリックだったので、がっくり。警察小説とはジャンル違い。いやまあ警官が主人公だから警官小説ではありますが。
 犯人の父親へのコンプレックスと主人公のそれを重ね合わせたのはなかなかのテクニックだが、結局のところセカイ系の話なのですね。社会性が希薄だとホラーっぽい読後感しか残らない。

戸梶圭太「闇を駆け抜けろ」
 初期の筒井を彷彿とさせるスラップスティック。ムチャクチャで、吹き出すところ多数。暗くて重い作品の間に置かれているので、丁度よい気分転換になる。

永瀬隼介「ロシアン・トラップ」
 これまた道警稲葉事件を下敷きにしたもの。警官の妻でチンピラの幼馴染と出奔した元水商売の女の視点から、組織が「必要」により生んだ悪徳警官、その部下で宮仕えの悪しき体質から上司に追随する上記妻の夫、悪徳警官が取引する日露混血のロシアン・マフィアらの入り乱れる抗争が捉えられる。その意味で(視点が外部にある点で)警察小説ではない。
 かといって犯罪小説というほど、警察に対する側に肩入れもしておらず、題材的に冒険小説に収まるのかな。
 いずれにせよ全体的にはどこかでお目にかかったシーンや人間描写等、書き飛ばしたような安直で荒っぽい筆法で、あるいは書き飛ばしたというよりも、書くのが追いつかないといった感じだったのかも。つまりそんな感じでストーリーに疾走感があり、リーダビリティは本誌ではもっとも高かった。とりあえず「枠」からはみ出した人間の「クズ」しか登場しない小説で、なぜ警察小説が息苦しく感じるのか、逆によく分かった。つまり警察小説はよくも悪しくも「四角四面」なところがその契機としてあるのですね。

白川道「誰がために」
 「教科書的」な小説。あらゆる意味で欠点というものはなく、文体も端正。つまり典型的四角四面小説。面白く感動もするが、つづけて読みたいという意欲は発動しない。

乃南アサ「とどろきセブン」
 むしろ新人警官(巡査と)の日常小説といったようなもの。興味は警察機構になく、社会問題になく、事件の謎にもなく、明るく朗らかな性格を付与された、すくすくと育った個人としての若い警官の(ある意味)成長物語。春陽堂文庫にありそうな「明朗小説」

 以上で、『警察小説大全集』(小説新潮平成16年3月臨時増刊号 04)読了。
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毒薬

2009年05月02日 00時00分00秒 | 読書
エド・マクベイン『毒薬』井上一夫訳(ハヤカワ文庫94)

 巻末解説によれば、本篇は「シリーズでは、小品といっていいスケール」らしいのですが、なかなかどうして十分に広がりのある話でした。本篇の実質的な主人公はマリリンという強烈な印象を残す謎の美女。(当人の弁によれば)途方もない経験を重ねてきた彼女は、稀代の毒婦なのか、それともその言葉をほんとうに信じてよいのか、読者はその謎にやきもき最後まで引っ張られてしまう。まさに人気シリーズの看板に偽りなしのストーリー・テリングです。

 ところで、この「87分署」シリーズによって警察小説というジャンルは開始されたというのが定説らしいのですが、かく云うところの「警察小説」とは、ミステリ読者には今さらかも知れませんが、捜査に当る警察官が、従来の、警察機構とは無関係な個人的な才能(神のごとき名推理)によって謎を解くミステリとは違って、当の警察官が、実は警察という組織の構成員(宮仕え)であるという事実を、一種の制約として小説の構成に必須の条件として盛り込んだものといえます。
 捜査官といえどもスケジュールにしたがって3交替し、休日もとる。捜査令状を取るためには書類を作り、場合によれば却下される。そういった日常業務の一環として(当然単独ではなくチームとして)、ある事件が解決するまでの物語が語られる。すなわちハードボイルドとはまた別の意味で「リアリズム」小説であるわけです。

 ただし本篇では、捜査の過程で担当警官が被疑者と同棲してしまうのですが、まあ日本的な常識では、そういうことが発覚した段階で、その捜査官は担当を外されるのではないかと思う。でもそれではストーリーにならないからか、そのまま捜査を継続するのは、リアリズムとしては画竜点睛を欠いているようにも思いましたけれども(^^;

 で、そういうリアリズム小説である警察小説は、必然的に捜査主体の存立背景たる警察組織自体の腐敗(悪)への目配りが(形式的に)可能となるはずで、そのような意味での警察小説を、ひとつの理念型(理想型)として捉えたいというのが、私の欲求の中にあります。残念ながら本篇はそのような両義性はなかった。本篇では、作中で刑事の3類型が示されていますが、組織自体は健全という設定です(^^;
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