チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

ハルさん

2007年04月10日 21時51分40秒 | 読書
藤野恵美『ハルさん』(東京創元社ミステリ・フロンティア、07)

 うまいねえ。著者初の一般読者向け作品ながら、まるでベテラン作家のようにツボを押さえた作品に仕上がっています。ストーリーテラーというよりは構成がうまい。本篇も主人公のハルさんが、妻の死後男手ひとつで育てた娘のふうちゃんの結婚式に出かける道すがら、幼稚園、小四、中二、高三、大学生のときのふうちゃんのエピソードを思い出すという構成で、一種鎖状に長編が形成され、ラストの感動へとへなだれ込んでいきます。うまい。

 娘のふうちゃんが生き生きと溌剌と描き出されているため、ついその事実が霞んでしまいますが、本篇はタイトルが示すように、ハルさんが主人公なのです。ハルさんの「花嫁の父」物語なのです。そうと知ればラストの感動はお約束どおりといえるかも知れません。

 しかしながら、この才能にめぐまれた著者が、単なる「お約束どおり」を描きたくて、この物語をつむいだはずがありません。著者が本篇で描出したのは、実にハルさんの「成長物語」なのです。
 奇妙にきこえるかも知れませんが、大の大人である筈の「花嫁の父」の話が、「成長物語」として語られているのです。

 ハルさんはいわゆる<社会的スキル>を身につけずに大人になってしまった一種「社会的不適応者」なのです。本人は人形作家になりたくて会社を辞めたようにいっていますが、多分事実はサラリーマンとしては失格者だったのではないでしょうか。亡くなった妻の瑠璃子さんにはそのことがよく分かっていた。だから好きな仕事をすればいいと、サラリーマンを辞めることを許容した、いやむしろ勧めたようです。おそらくサラリーマンを続けていたら、ハルさんは潰れてしまっていたでしょう。それは本篇でのハルさんの「行動」をみれば誰にでも予想がつくというものです。

 瑠璃子さんが亡くなって、ひとりで幼稚園児のふうちゃんを育てなければならなくなった頃のハルさんは、気持ちだけはその気になっていますが本質的な部分ではまだ自覚が足りていません。全然ダメです。仕事に没頭してしまうと幼稚園児のふうちゃんの世話は意識からなくなってしまっていますよね。自分自身のことにしか頭が廻りません。<他者の視線>で見る(瀬名秀明)なんてトンデモナイ! それはふうちゃんが中学生になる頃まであからさまに看取されて、読んでいてこちらがイライラしてしまうほどです。

 そんな彼ですが、ふうちゃんの成長と共に、いや成長するふうちゃんに尻を叩かれる恰好で、本人も成長していくのです。同級生の父兄と会話するのも避けたがっていたハルさんが、高三のエピソードでは見ず知らずの通りすがりの女性が子供をつれて難儀しているのを見かねて陸橋を渡るのを手伝ってあげます(その結果ふうちゃんから頼まれた大事なおつかい(笑)を果たせなくなってしまうんですけど)。このような行為はふうちゃんが幼稚園頃のハルさんでは考えられなかったことのはずです。

 彼はふうちゃんを育てることで自己を成長させていったのです(まあふうちゃんによって成長させられていったともいえますけど)。そうしてラストの結婚式――ここでハルさんは「子ばなれ」を成し遂げます。ここにいたってようやくハルさんは大人になったのです。
 ラストの感動は、一義的には「花嫁の父」物語のお約束の結末ですが、本篇はそれに重ねあわせて、ハルさんという社会的不適応者が、曲がりなりにも「一人前」となったことによる感動でもあると私には思われます。

 著者はフォーミュラ小説を(疑いなく)真剣に書きながら、同時にそれを一種ビルドゥングスロマンとしての人間の「快癒・寛解」の物語にすり替えます。いやこれは大変な技倆ですよ!
 一般小説の第一作目にしてこの手だれぶり! 参りました!としかいいようがありません(^^;
 著者は本篇で(児童文学のみならず)一般小説の分野でも次代を担う有望新人であることを確実に示し得たように思います。刮目して次作を期待します。
コメント (2)
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