チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

検索バカ

2009年09月27日 00時00分00秒 | 新書
藤原智美『検索バカ』(朝日新書08)

 本書は、一面ではいわゆる<動物化>の事態を別角度から述べたもので、著者は情報検索がきわめて容易になった結果、コピペが思考に取って代わりつつあるのではないかと憂う。これは私も耳の痛い指摘で、検索したものをコピペするとき、確かに私は「思考」しているとはいえません。思考する代わりに、ずらりと並んだ売り場から気に入った吊るしのスーツを選んで身につけただけ。我々はいまや思考から嗜好まで検索に代替させていっていると著者は考えます。

 他面、最近よくいわれるのが「空気を読め」ということでだそうで、著者は、小さな子供がわがままな行動をした時、父親が「空気を読め!」と怒ったという驚くべき場面を目撃するのですが、小さな子供は「空気を読め」といわれても判断するにたるリソースをいまだ蓄えていないわけできょとんとするばかり。実際は具体的に、たとえばの例ですが「病院では走リ回るな」といってあげなくてはいけなかったのです(この例は私がいま思いついたものです)。「空気を読め」にはこのような具体性のなさがあるのであって、社会的スキルをいまだ持たない社会成員にそんなことをいっても萎縮するだけなんですよね。
 その結果「空気を読め」という「同調圧力」にストレスを感じる成員は、とりあえず「みんないっしょ」であるように、「各種ランキング」に留意しそれを取り込もうとする。今日ほどランキングの支配力の強くなった時代はないかもしれません。又聞きですが家電業界ではシェア2位ではすでに採算が合わないらしい(しかもいまや書評にまでランキング化が及びまがい物の統計が幅をきかせている!)。

 ここにおいて「一面」と「他面」が合体します。ランキングに従った行動様式とは、とりもなおさず「検索→コピペ」に他ならないからで、結局「空気を読め」が充満する社会とは思考が衰退した「動物化社会」であるといえるのです。

 では昔の人間に比べて今の人は思考力がないのか? そうではないと著者は考える。かつての日本には「世間」(阿部謹也)があり、それに人びとはやはり思考を棚上げして自身を丸投げしていたのです。「世間」とは個人の名前が認識されている社会(地縁血縁社会)です。世間が機能する社会では、たとえばどんな暴走族の若い衆も、自分の住んでいる家があるムラに帰宅するときは、その手前でスピードを落とし静かに村に入ってきたものでした。それはムラの全員が、その若い衆がタバコ屋の武田ん方のバカ息子であることを知悉していたからに他ならない。そういう相互監視の網の目が機能する社会が「世間」で、実際「世間」が崩壊した今日、スーパーで高齢者の万引が増えているらしいのですが、それこそ昔の人は「品格」があったというのが嘘である証拠だと著者は指摘します。

 したがって「空気社会」も「世間」も、根本は同じなんですが、「世間」の方が身元の把握による相互監視が機能している分、社会の混乱度は低かった。
 だからといって今さらあの陰鬱な「世間」には帰りたくないというのが、ホンネなんだそうで、実は「世間」は、成員の主体性の強化確立と共に西欧型の「社会」へと移行していかなければならなかったのです。本書で不良グループ(?)の喧嘩に、無謀にも(と著者並びに見物人は思った)仲裁に入った外国人青年こそ「社会の成員」であると著者は考える。
 ところが日本では主体の確立が不十分なまま「世間」だけ先に崩れてしまった。その結果が「空気社会」なんでしょう。
 では「空気社会」に抗するにはいかにすればよいのか。著者はいろいろ提言していますが、結局個々人がしっかり「思考」せよということになるわけで、ところが「思考」を妨げる「コピペ」がツールとしてさらに深く社会に根を下ろしていく現状では、きわめて頼りない印象しかないのでした。

 以上、今回は異例にも一度もコピペしないで書いてみました。結果として著者の意見と私の意見が混在してしまいましたが、書評ならぬ感想文ですから、これでいいのだ――ということで(^^;
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ミステリーの人間学

2009年07月23日 00時00分00秒 | 新書
廣野由美子『ミステリーの人間学英国古典探偵小説を読む(岩波新書09)

 まず著者はE・M・フォースターのストーリーとプロットの定義を引用し、「フォースターの区別によれば、ストーリーはたんに、次がどうなるかという原始的な好奇心のみを刺激するものであるのに対して、プロットは、新しい事実を「孤立したものとして見ると同時に、すでに読んだページに書かれていたことと関連づけて見る」ための知性と記憶力を、読者に要求する」(3~4p)として、かかるプロットは必然的に(一般名詞としての)《ミステリー》(原文は「」)を契機とするとします。

 もとより(時系列的な)ストーリーを、小説として成立させるのがプロットなので、元来ストーリーとプロットは別のものではありません。
 著者も「物語に対する人間の心の作用を「それから?」と「なぜ?」とに振り分け前者の出所を好奇心に、後者の出所を知性に」(5p)帰すフォースターの所論を「実際にはそれほど単純に割り切れるものではない」としています。
 ストーリーのみで成立する小説はありえないので、実際のところは、(ストーリーから)「高度に組み立てられた小説」(4p)をプロットの小説と便宜的にいっている訳です。

 繰り返しますと、かかるプロットは必然的に(一般名詞としての)《ミステリー》を契機とするわけですが、そのような《ミステリー》に特化したのが、他ならぬミステリ小説(探偵小説)で、文学から切り離してゲームであるという観点(ノックスの十戒、ヴァン・ダインの二十則)があるのを認めた上で、しかしミステリも小説の一形式である以上、また犯罪を主題とする特性ゆえに、他にもまして「探偵小説とは人間を描くものであり、とりわけ人間性の暗部を描き出すうえで、特殊な方法論を有するジャンルである」(23p)として、その観点よりイギリスの探偵小説を「読み直」したのが本書です。

 そういう訳ですから「ネタバレ禁止」みたいな一般に流布する「ミステリの常識」を著者は認めません。
 「読み捨てにされるべきゲームならばいったん種明かししてしまえば元も子もないが、人間性を探求するミステリならば、再読の価値がある。いや、読み返すたびに新たな発見がある」(32p)
 「犯人を知ったうえでふたたび読み直してみると、この作品(「アクロイド」)には、心に後ろ暗いものを持つ人間が、いかに追い詰められてゆくかが、行間から読み取れるように、作者によって周到に仕組まれていることがわかる」(170p)

 というのが著者の立場です。

 そのような著者が考えるイギリス探偵小説の嚆矢は、ディケンズとなります(ディケンズが探偵小説であるのは「バーナビー・ラッジ」連載途中でポーがその殺人事件の謎を解いてしまったことから明らか。余談ながらポーとディケンズの関係は、乱歩と谷崎の関係を髣髴とさせて興味深い)。そしてディケンズ→コリンズ→ドイル→チェスタトン→クリスティと著者による「読み直し」が行なわれるわけです。ドイルの科学的探偵法に対して、チェスタトンの方法をいわゆる「内観法」とするのが面白い。つまりドイル対チェスタトンは自然科学対現象学といえるかも。

 以上のように、著者のアプローチは、日本の一般的なミステリ読解としては少数派だと思われます。しかしながら、このようなアプローチは、SF界ではつとにニューウェーブにおいて実践されてきたものであり、わたし的には全く違和感なく受け入れられるものです。ミステリ小説全体を網羅しうるものではないけれども、本来ミステリ小説が原理的に担わなければならなかったのはこのような役割だったのではないでしょうか。
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