チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

郵便配達は二度ベルを鳴らす

2008年09月28日 23時53分38秒 | 映画
ルキノ・ヴィスコンティ「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(42)

 ヴィスコンティの処女作にして、イタリアン・ネオリアリスモの先駆的作品ながら、原作者(ジェームズ・ケイン)の許諾なく制作されたため、幻の作品として名のみ高かった作品。ヴィスコンティの死後ようやく日の目を見、日本では79年になって公開されたらしい。

 いかにもネオ・リアリズモらしい「埃っぽい」ロケーションがとにかく好いです。内容的には、庶民の生活(苦)を写実することで普遍性に達している戦後のネオ・リアリズモの域には達していないというか、いやいやムッソリーニ政権下でよくぞここまでと思うか、ちょっと判断に困ります。

 主人公と大道芸人スペインとの関係は、同性愛とのがあり、いわれてみればたしかに納得します。
 と同時に、ヴィスコンティが同性愛者の大道芸人にスペインという名を与えたのは、当時のスペインがフランコ政権であったことを思い出せば、おお!と膝を叩いてしまいますね。
 そのスペインに対して、ヒールな(?)スペイン(国家)とは正反対の、金は天下の回りもの、自分が使って余ったのなら他人のために使ったらいいじゃん、という清廉潔白にして反近代主義(反資本主義)的な性格を付与したのも、ヴィスコンティやるな、という感じです。

 ところで、私が見たツタヤのDVDは118分。ウィキペディアで確認すると、140分となっている。多分かなりカットされています。というのは、この映画は官能場面が売りだったはずなのに、私が見たのはその手のシーンは皆無なんですよね。おそらく上のリンクの方が見たBS版は完全版だったのでしょう。だからスペインとの同性愛にも気がつかれたに違いありません。
 だとすればこの映画が即刻上映禁止となったのは、(ウィキペディアに書かれているところの)著作権問題は建前で、実際のところは官能場面も含めた反ファシズム的趣向が当局の逆鱗に触れたからではないかな。

 主役の男女が喧嘩別れして縒りを戻す場面も唐突で判りにくかったのですが、解説を読むと女が妊娠していることを伝えてそうなったみたい。その場面もカットされているようです。
 というわけで、いつか完全版を見てみたいと思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間そっくり

2008年09月28日 00時25分58秒 | 読書
安部公房「人間そっくり」(新潮社『安部公房全作品4』 73)

 初出は66年。SFM連載後、翌67年<日本SFシリーズ>として(当時としても旧作の)「鉛の卵」(57年群像初出)を併録の上刊行されました。この本を、私は高校のとき友人に借りて読んでいます。当時はその迫真のリーダビリティに息せき切るように読んだ記憶がありますが、今回読み返して、まったく憶えていませんでした。一体何を読んでいたんでしょうか(汗)

 不条理小説です。最近の作品では、紺野あきちか『フィニイ128のひみつ』がよく似ているかも。

 ――ソ連の火星ロケットが火星に着陸した日、「こんにちは火星人」というラジオドラマの脚本を書いている主人公のもとに、自ら火星人と名乗る男が訪ねて来る。物語は終始、その火星人と名乗る男と主人公との対話劇で進行します。
 何とか相手の化けの皮を剥いでやろうと考える主人公ですが、しかし「ああいえばこういう」式の、妙に論理的な男の言葉の魔術に、次第に嵌まり絡め取られていきます……

 ある意味PKディック的なシチュエーションで、大雑把に言ってアイデンティティの自明性(あるいは内と外の区別の自明性)が崩されていくていのストーリーといえますが、いかにも図式的で、つまりそんなにシリアスなものではなく、論理というか詭弁に翻弄されていく主人公を楽しめばいいのではないでしょうか。TMディッシュが読んだら大喜びしそうな、そんな底意地の悪さを含んだ哄笑小説といえるように思います。

 上記紺野作品と違うのは、一応結末があることで、この結末を信用するならば、男は火星人だったのであり、あまつさえ……(以下自粛)。
 とはいえ、このすべてが主人公の妄想であった(ラジオ作家であることも含めて)可能性も否定できません。そういう意味では、これはやはりリドルストーリーというべきでしょう。

 さて、『安部公房全作品4』には、あと短い短篇が三本収録されています。

 まずは「鉛の卵」(初出57年)。
 100年後の2087年に目覚める予定でタイムカプセル(鉛の卵)の中で冬眠していた主人公が目覚めてみると……なんとそこは80万年後の世界で、その世界の支配人類は緑色の植物人だった!?

 本篇も二重構造になっており、実は……というお話なのですが、「どっちが内でどっちが外?」というリドル性は「人間そっくり」と共通しています。本篇において、内と外をへだてている「塀」は、おそらく下述の「探偵と彼」の、租界を区切る「塀」が原点なのでしょう。

 続いて「探偵と彼」(初出56年)
 本篇は<植民地小説>です。舞台は奉天とおぼしいH市。日本人租界とその「外」は、塀で仕切られている。
 主人公は日本人小学校の6年生。その小学校には、「塀」を乗り越えて通ってくる生徒もいる。彼らはもともと租界ができる前から住んでいたのだけれども、「租界ができてもこちらに移ってくることができなかった貧しい中国人相手の商人の子供たち」(300p)なのです。

 つまり「外」に住んでいても、日本人ではあるわけで、租界の日本人学校に当然通えたということでしょう。ただしその子たちが、「内」なる主人公らの目には、きわめて〈両義性〉を帯びて見えたであろうことは想像に難くありません。

 さてストーリーは、探偵小説の読みすぎですっかり名探偵気取りの主人公が、そのような「外」から通ってくる**という同級生が、学校をよく休み、途中でよく消えもすることを不審に思い、而してその正体は?と後を付けまわします。

 貧しい**の家を、外からそっと窺った主人公は、「物置のような小屋の」「入り口のそばの木の台に一人の男が寝て」おり、**が「その頭に彼が濡らした手拭いをかけてやって」いるのを見ても、その寝ている男が、麻薬密売組織かなにかの「親分」ではないかと短絡的に思い込むほど、探偵小説に毒されています。積み上げられた樽の中身(実は醤油)が密売の阿片と妄想的に思い込んでしまった主人公は……

 ここは笑うべきなのかもしれませんが、ちょっと笑えません。かかる短絡は、それが塀の内側で目撃したものならば(いかに探偵妄想に囚われているとはいえ)絶対に起こりえなかったはず。ああお父さんを看病しているんだなと気づいたに違いない。
 わたし的には「鉛の卵」より数倍面白かった。

 ラストは「月に飛んだノミの話」(初出59年)
 人類の清潔化で居場所を奪われ危機感をつのらせたノミ、シラミ、南京虫たち吸血昆虫が、「全国害虫協議会」を結成し、深夜の某地下バーで秘密会議を開く。主人公は、偶然そのバーの止まり木と止まり木の間で眠りこけていて気づかれないまま、閉じ込められてしまっていたことから秘密会議への参加を許され、ノミ族の月世界移住計画を知る……

 前作とは一転、軽妙なコントです(著者の実際の体験が反映しているかも(^^;)。これはやはりBGMは高田渡「シラミの歌」ですね(^^; 

 ――以上で、「第四間氷期」も含めて、『安部公房全作品4』(新潮社 73)の、読了とします。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

第四間氷期

2008年09月23日 12時04分45秒 | 読書
安部公房「第四間氷期」(新潮社『安部公房全作品4』 74)

   一般に隔絶した未来は、グロテスクな感じをあたえる。(95p)

 36年ぶりに再読してみた。初読時は中学生だったのだが、「SFとして」全然読めていなかったことに気づかされてがっくり。初読時に強く刻印されて以来30有余年、「微視的連続感」なんて言葉を使いまくってきたのだったが(たとえば『ららら科學の子』)。もちろん使用した夫々の文脈においては誤用ではなかった筈だけれども、実はその言葉が、不可逆的な未来からの断罪の言葉として明確に規定されていることを等閑視していた。つまり読めていなかったわけだ。

 ――厖大なデータを咀嚼することによって未来予測できるようになったコンピュータの開発グループが、ひとつの実験として任意の人間を選びその人の未来を予測すべく、喫茶店でふとみかけた人物を、データ収集のため、探偵よろしく尾行をしているうちに、その人物が殺されてしまう現場を目撃してしまう。ただし犯人は見ていない。尾行していた自分らに嫌疑がかかる前にコンピュータで犯人を見つけてしまおうと手を回して、死体から脳波のデータを取り出すが、殺された男も犯人は見ていなかったのだ。そんなことをしているうちにずぶずぶと深みにはまっていく主人公。たまたま懐妊していた主人公の妻が、誰の指図とも判らず堕胎させられ、なぜか七千円の報奨金を受け取るという事件が起こり、主人公は、秘密裏に胎児から水棲人間を作り出している巨大組織の存在を知る。地球は温暖化が進行して遠からず水惑星と化してしまうのだった……

 地球の温暖化を「第四氷期の終焉」とする誤解は、この際放念しておきましょう(笑)

 ストーリーの根幹は、「未来」によって厳然と現生人類の「死」を宣告されたにもかかわらず、いつまでも「微視的連続感」の羊水に浸り続けて現実を直視できない主人公が、「未来」によって断罪されてしまうところにある。著者の意図は、人間が、その人間にとっての原状(座標零度)を、いわば脊髄反射的にアプリオリに肯定してしまう「感性=慣性」の顕在化にあるに違いない。いみじくもメリルがいったように「水を最後に発見するのは魚」なのだ。

 ――と書いてから確認したら、メリルはマクルーハンを引用したのだった(正確にはマクルーハンを引用した広告コピーを)。「だれが水を発見したのか知らないが(……)それが魚でなかったことは、ほぼ確実です(……)トータルな環境は、その中にいるものに、無知覚の条件を作り出すのです。」(『年刊SF傑作選7』はしがき)

 ともあれ最後まで自己(含環境。カーライル「衣装哲学」的な意味で)の内にとどまり続けて、「超越」できない主人公を、「未来」は(まったく一片の同情もなしに)断罪してしまう。とはいえ未来の側に与した主人公の部下たちもまた、救済されるわけではない。彼らはせいぜい『地球幼年期の終わり』のカレルレンと同様の立場で、水棲人たちが自立するまでの養育者に過ぎない。

 このあたりの「超ヒューマニズム」はまさにクラークの未来観に相通ずるものがあるかも知れない。いやクラークの場合、心情的には旧人類への愛惜があり、その意味では完全に断絶しているわけではないので、むしろレム的な非情なる観念により近づいているといえるかも。レムの場合は未来ではなく未知の宇宙存在によって人類が断罪されるのだから(タルコフスキー版にあらず)。
 話は飛ぶが、眉村卓「消滅の光輪」で宇宙意識と一体化したラクザーハが地上に光の箭を放って焼き燼くそうとしたのも、読んでいる最中はいささか唐突の感を否めなかったのだが、以上の文脈の中で見直せば実にしっくりと納得できる。

 そういう意味で、本篇は上記のような本格SFの系列に連なる作品として、まずあるわけなのだ。ただ筆法が、とりわけ後半はディアローグによって深化されていく一種哲学小説的な趣きはあっても、SF的な、いわゆる絵として爆発するような(たとえば上記「消滅の光輪」)書き方ではないため、あまりSFっぽくない。今回読み返して、はじめてここまで本格SFであったと知り、実は意外であった。
 とはいえ作者自身は、本篇のアレゴリー的な読まれ方も、もちろん容認するというか、ある意味期待もしていた筈で、36年前のわが読解も、あながち的外れではなかったのかも……。
 ――と思いたい(笑)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

赤い星

2008年09月20日 00時43分59秒 | 読書
高野史緒『赤い星』(Jコレクション 08)

 時は今より少し未来(現未来)、アキハバラには今と変わらぬオタクたちが溢れている。そんな日本であるが、なぜか徳川幕府が続いており、しかもロシアの属国となっている。そのロシアは、ソ連崩壊後(ソ連が打ち上げた軍事衛星が未だに地球を周回している)、これもなぜか帝政が復活していて、しかもそれは革命前のロマノフ朝ではなく、さらにその前のリューリク朝であるばかりか、その皇帝たちもイワン雷帝(在位1530-84)→フョードル1世(1584-1598)→ボリス=ゴドゥノフ(1598-1605)という史実そのままに復活しており、その辺のストーリーは、あとがきにあるように、プーシキン原作の歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』が一部下敷きにされている(しかもこの歌劇の初演は本篇の重要な舞台であるマリインスキー劇場なのだ)。

 むろん現実のリューリク朝の時代にペテルブルクはまだ存在していないし(ピョートル大帝によるペテルブルクの建設開始は1703年。211ページ参照)、その領土はオホーツク海に達していない(ロシア人が択捉島にやって来たのは、日本人よりも先であったらしいが、それでも18世紀半ばのことだ。wikipedia参照)。

 もはやごった煮というかバロック的狂騒にみちた設定というべきか。これがまた実に猥雑で高尚で哄笑的で深刻でミスマッチにもかかわらずなぜかしっくり調和しているのである。ワイドスクリーン・バロックという言葉が頭をよぎる。
 私自身いろいろ想像をめぐらせてみたけれども、かかる個々の設定を繋ぐ根拠は何もなさそうだ。少なくとも私には見つけられなかった。必然的な歴史過程としての統一的な説明原理はない。ただかくあるばかり。それゆえ読者はかかる設定を、いわば前提としてア・プリオリに受け入れなければならない。
 老ピーメンがいみじくもグレゴリー=偽ドミトリー1号に教え諭したように、「回答は用意されていない」のだ。
 「回答などというものが妄想なのだ。物語はそう思って読み、人生はそう思って生きなさい」(20p)

 つまりどうやらこの世界は、客観的な歴史の必然的過程を通過してきたのではなく、主観的な「妄想」であり「夢」である何かによって基礎付けられた世界であるようなのだ(ではそれは一体誰の見ている「夢」であり「妄想」なのか?)。

 終盤に明かされる「ペテルブルク」の真相は圧巻である。

 ――以下ネタバレあり、未読者は注意――


 ペテルブルクは夢見られた都であった。つまり1703年に開始された建設は結局失敗に帰したのだ。その現実は偽ドミトリー1号が見たとおり(242-244p)。wikipediaによれば「ネヴァ川河口一帯は湿地で、地盤が弱く洪水も頻発したため、年間数万人の労働力と大量の石を徴集して大規模な基礎工事に当たらせた」となっている。39pには「ペテルブルクの石畳の下で今も流動する泥炭の動き」とある。
 どうやらこの世界のピョートル大帝は治水に失敗したのだろう。つまり帝都は建設されなかったのだ。しかし大帝は諦めなかった。現実界で失敗した建設を、夢の世界で、あるいはスピリチュアルの世界で、成就させようとしたらしい。
 その契機が択捉島の正教修道院であった
 実に択捉島は、ペテルブルクの、いわば「第2ファウンデーション」だったのだ。

 周知のように古代出雲は、神話世界においては黄泉の国の役割を担わされている。それは古代伊勢が、奈良から見て東南方に位置し、空間的・構造論的に日出ずる・生を象徴する「場」であったので、丁度対極的に西北方に位置する出雲が、日没する・死を象徴する「場」として振り分けられた結果である。

 同様な観点に立てば、ロシアという国土を長方形に見立てたとして、その西北角にペテルブルクは位置しているといえよう。そして択捉島は、まさにロシアの東南角に当るといえないだろうか(ちなみに両角を結ぶ対角線が「ウルトラクイズだ」)。つまりペテルブルクは出雲に当たり、択捉島は伊勢に比定しうるのである。このような空間論的観念が人類に普遍的だとすれば(実際普遍的なのだが)、択捉島に夢を生じさせる装置を置けば、その夢は必ずペテルブルクの地において消費されることになるはずではないか。新都の物理的建設に失敗した大帝は、スピリチュアル的に択捉島を利用することを思いついたに違いない。どうやら大帝にはそのようなスピリチュアルな力が備わっていたらしい(262p参照)。
 はたして択捉島の夢見る館である正教修道院は大帝によって設立されたのであった(264p参照)。

 先に、では一体誰の見ている「夢」であり「妄想」なのか? と書いた(あるいは「怨念」か?)。今やその張本人が誰であるか明らかになったのではないか。そう、ピョートル大帝その人なのだ。「全てこいつのせいなのではないだろうか?」(279p)
 すなわち、このバロック的狂騒世界すべてが、ピョートル大帝の新都建設のスピリチュアルな手段によって惹起されたものに他ならない(そうだとすれば本書はロシア版『帝都物語』といえるかも)。結局この小説世界は、1703年に、我々の世界から分岐したのだろう。それは、上に挙げた「事実」によって、まさに証明されたといってよいのではないか――

 ――という妄想に、しばしとらえられた(^^ゞ

 いや面白かった。そのきらめくばかりのイメージにめくるめく《センスオブワンダー》を感じさせてもらいました。

 ――何かの拍子に、この景色も自分自身も、墨田の春霞となって消えてしまうのではないだろうか。遠景を成す湾岸に残った高層建築の残骸も、その足元に沈んでいるはずの見えない瓦礫も、御城の天守も、天神様の赤い幟も、すでに輝き始めている遊郭の電飾も、正教のお堂に乗った十字架も、蕎麦屋の売り声も、ロシア風ピクルスの匂いも、両国橋のこの太い欄干も、何もかもが。
 その春霞の向こうに、まったく違った世界があったとしても不思議ではない――(294p)


 改変歴史幻想妄想SFの精華というべき傑作!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カーゴ・カルト

2008年09月17日 23時38分03秒 | 芝居
劇団オリゴ党『カーゴ・カルト』(作・演出/岩橋貞典、08/9/14於シアトリカル應典院)を観てきました。

 舞台は、とある夫婦の会話から始まります。夫が妻に言います。「金を貸してくれないか」。
そして夫はそのまま失踪してしまう……。
探偵事務所に駆け込む妻。そこで妻は、夫がとある教団の教祖になっていることを知るのだった……(公演案内より)


 なんとなく安部公房を連想させるシチュエーションですが、当然ながら安倍公房的な実存の探求には向かいません。むしろある種の人々がなぜ神を求めるのか、人々は様々なるそれぞれの個人的な理由により神(信仰)に救いを求めるわけですが、その神を(信仰を)求めないではいられない「心」の分析がテーマのようです。

 この芝居においても、あるものは経営する工場がにっちもさっちも行かなくなってこの教団に参加していますし、あるものは現実の他者と繋がることができず唯テレビに向かって喋りかけるだけの生活から、教団に参加することで(教団内という限界はありますが)他者との交流を細々とではありますがもてるようになっている。いずれの例も、主体性の一部を神に預ける(秘密にする)ことで、何とか平衡を保っているのです。

 だが、それがかりそめの平衡でしかないことを最もよく知っているのが、他ならぬ教祖なのです。教祖はそういう依存的な段階から、自己そのものが神になる(全的な主体性を回復する)という道を示しますが、信者は拒否します。実はそれは当然なのであって、神とは頼るべき存在、自分では処理しきれない責任の一端を預かってくれる存在だからこそ、神なのですから。

 神は救わないと明言した教祖は、その結果教団幹部の女性信者によって殺害される。そして彼女は、信者が集まっていた教団本部の一室にガスを撒き、自らもそのガスで自殺するのだが、そのとき彼女は、自分が殺害したはずの教祖が目の前にいるのに気づく……

 という風に、非常に台詞が抽象的で難解なストーリーが展開されます。一度見たくらいでは多分半分も理解できません。最低2回は見なければ了解できないのではないか。でもそれでいいのだと思います。むしろこれくらい濃くなければ小劇場の存在価値がありません。小劇場は出来合いのセンチメントを蒸し返すだけの大衆演劇ではないのですから。

 その意味で、本劇は確かに難解ではありますが、何が何だか判らないところは判らないなりに、しかし観客に訴えてくる力はきわめて強く、私は最初から最後までほとんど身動きもせずに見入ってしまいました。で、実はこっちの方が大事なんであって、上記のような解釈はむしろどうでもよいのです。かかる結果としての訴求力、吸引力、迫力こそ、この芝居の最大の魅力なんですよね。

 脚本も時系列的に一直線ではなく、360度客席という劇場に見合った構成になっていると思いました。いやその辺は素人の印象ですが。
 ともあれ、イワハシ作品としても異色の一篇ではないでしょうか。オリゴ党といえばサブカルネタが必須なんですが、今回はそれが封印されており、その点でも異色な感じを持ちました。大変面白かったです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする