チャチャヤン気分

《ヘリコニア談話室》後継ブログ

「資本」論 取引する身体/取引される身体

2006年01月04日 17時00分26秒 | 読書
稲葉振一郎『「資本」論 取引する身体/取引される身体(ちくま新書、05)

 これは理路整然たる好著で、とても面白かった。
 著者はまず、統治権力が存在しない自然状態から国家が成立していくメカニズムについて諸家の思弁を整理している。ロジカルでとても判りやすい。結局ジョン・ロックの所説が汎用的であるとしてその説を現在に通用するよう(ホッブスを入れ子にしたりして)解釈しなおしている。

 著者によれば、ロックの国家論は、国家を土地によって定義し、庶民(土地を持たない人々)を国家の成員ではないとするのだが、実のところ、それはマルクスの資本こそ社会(関係)であるとする認識とおおむね軌を一にするものだった。

 つまりマルクスの資本制社会では、無産者(労働者)は資本を持たない人々なのだから、資本を持たない労働者は社会関係を構成し得ない、弾かれていることになり、よってマルクスの労働者は、そういう疎外される社会を覆す方向に向かわざるを得ない。

 しかしながらその方向は、人間そのものの進化(変容)に向かわざるを得ず、マルクス自身は、人間そのものが「共産主義的人間」に進化していくことを予想しているのだが、現実の共産主義国家をみればそれは成功しなかった。(所有を捨てるということは「生身の人間」には無理と著者は考えているようだ)

 またマルクスの社会論は時代を下るにつれて現実と乖離して行くのだが、それはマルクスの予想とは違ってインサーヴァント系の無産者の新中間層化というフェイズが進行したからに他ならない。

 著者によれば資本を持たない労働者という認識が、マルクスをして、かかる労働-労働力=疎外という藪道に入り込ませたのであって、見方を変えて労働者は労働力という特殊な資産(人的資本)を持つとすれば(みなせば)、労働者も資本制的社会関係に入り込んでいることになる。

 とはいえそれは特殊な資産なのであって、セーフティネットといった様々な制度的下支えがなくてはならない種類の資産である。結局著者は、無産者の労働力=人的資本との擬制(みなし)を貫くことで、そのような財産権の主体として労働者を位置づけるものとして福祉国家を構想すべきとする。

 上に所有を捨てることは無理と書いたが、著者はもっとポジティヴに、所有こそ人間の契機であり、所有と交換(市場)は表裏一体であるから、私的所有、市場経済、資本主義という秩序は、たとえ生身の人間存在にストレスをかけるものであるとしても、基本的に肯定されなければならないとする。

 エピローグにおいて、ロボットやサイボーグの存在する社会における労働力=人的資本のありようを想像しており、これが一種のユートピア論としてとても面白いのだが、ここに至って著者は、「人間以外の者を主体とするのであれば、マルクス主義の未来構想は実践しうる」としていて、実に興味深く感じた。
 参考文献に「最後にして最初の人間」を挙げているのだが、まさに19世紀~20世紀初頭のウェルズら空想社会主義的思弁小説の21世紀的展開が目に浮かんでくるようなエピローグだった。

 しかしながら私自身は、今日の日本(世界?)は行き過ぎた市場原理に冒されているように感じている。今や社会のあらゆる部面で、市場原理に端を発する弊害が顔を覗かせているのではないだろうか。
 とりわけそれは、テレビを通じて、一般の人間の内面すら変容させ始めてきたように思われてならない。

 たしかに共産主義的人間の境地に、人間が達することは私も不可能だろうと思う。しかしながら昨今の状況は、市場原理の高度な進展に、人間がついて行けなくなっているのではないだろうか。
 著者の言葉を援用するならば、生身の人間存在にかけるストレスはもはや肯定できるレンジを超えたのではないかとさえ思われる。

 このような認識は、一般的な認識だと思うのだが、かかる問題について著者はどのように考えているのだろうか。それを聴きたい気がする。
 ともあれ刺激にみちた好著です。 
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乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない

2006年01月04日 16時34分15秒 | 読書
橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない(集英社新書、05)

 タイトルに感応して読み始めた。非常に大雑把な記述なのだが、それゆえ「経済」について原義に立ち還り、「体験」的に再考する部分はとてもよく判る。
 無駄を省くという意味の「経済」が、いまや「不経済」という単語にしか残っていないとして、「我慢」(現状に抗する力)の消失がいまの日本社会を招来したというのが著者の見解。

 現状に抗する力が失われて、個人が「現状に追随する者」となっているのは同感なのだが、その「我慢」が、状況によってではなく、「主体的」に喪われたとする説明は、私にはやや疑問。

 やはりまず「現状」である「欲望というフロンティアの発見」という市場資本主義の最終進化形態の完成が先にあったと考える。 
 そしてそれを個人に内面化したのは「テレビ」だろう。
 その意味で本書には、「テレビ」の影響に関する記述が皆無だ。このあたりは片手落ちかも判らない。

 日本経済が開発した欲望のフロンティアは、個別的には「女」であり、「若者」、さらには「オタク」etcであったわけだが、それをさらに一般化すれば「オヤジ」以外の全てという指摘はとても面白い。

 「オヤジ」を唯一フロンティア化しうるのは「過去(ノスタルジー)」なのだそうだが、それは厳密には「オヤジになる前の過去」だからで、「オヤジ」そのものは市場化できない。それは「オヤジ」たち(具体的には30年代に幼少期を過ごした団塊の世代)が「欲望」で生きる世代ではなく「必要」で生きる世代だからというのも納得する。

 これはポスト団塊の世代を最初の「おたく」世代とした大塚英志の所論と対応するだろう。
 八つぁん熊さん相手にご隠居が説をたれるような内容だが、聴いていてとても面白いご高説ではあることは間違いない。
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